小説スターオーシャン2外伝2 ~The Dream Keepers~
夢がまだ続いているみたいだと、ドーンは思った。
窓縁に頬杖をついて、車窓から外に目を馳せる。景色でも眺めていれば旅情が湧くかと期待したが、大して湧かなかった。
視界が忙しくて、どうにも落ち着かない。遠くの山並みは緩慢に動いているからまだ見ていられるが、手前の景色は水辺から草原、さらには荒野へと目まぐるしく移り変わる。線路に沿って人工的に植えられた灌木に至っては、速すぎて緑の帯としか視認できない。
速さは馬車の比ではない。この地域では馬の代わりにバーニィを使った乗り物があるらしいが、そちらはドーンは乗ったことがない。いずれにしても生き物なのだから大して変わりないだろう。
この乗り物は――生き物を使っていない。
蒸気機関、というのだそうだ。石炭を燃やして発生した蒸気を管に送り、その管にかかる圧力を利用して車輪を動かしているらしいが……細かい理屈までは知らない。一度だけ聞いたがさっぱり理解できず、それ以来理解する気も失せた。
物を燃やして作れるのは料理か風呂くらいにしてほしい。どうしてこんな大きな箱を動かせるのか。まだ紋章術で動かしているという方が納得できる。
技術の進歩――人類は、記録と記憶によって知識や技を後世に受け継ぐことで、他の生物では成し得ない発展を遂げてきた。これもまた、大いなる進歩の成果ではあるのだろうが。
――実感がない。
仕組みのわからないものに乗って、認識が追いつかないくらい速く移動している。だから現実感に欠けるのだ。自分の中にある現実とリンクしていない。
二十年前、ドーンは夢としか思えない出来事に遭遇した。今の気分はむしろそのときの感覚に近い。ならば。
これは、あの夢の続きなのか。だからことさら――受け容れがたいのかもしれない。
複雑な感傷を紛らわせようと、窓縁に寄りかかって半分ほど頭を外に出してみた。
視界が一瞬、暗くなる。見計らったかのように風向きが変わり、先頭車両の煙突から流れてきた煙をもろに被ってしまったらしい。
「ぷっ」
向かいに座っていたミリーが顔を見て吹き出した。そして膝上の鞄から手鏡とハンカチを出し、こちらを見ないようにしながら手渡す。
鏡を覗くと、顔の右側が煤で真っ黒だった。坑道から上がってきた抗夫でもこんなに汚れないだろうに。
ドーンは溜息をつき、ハンカチで顔を拭いた。ミリーがまだ腹を押さえてくつくつと笑いを堪えているのが腹立たしい。
「やっぱり馬車で良かったんじゃないか」
別に急いでいる訳ではないのだ。乗合馬車でのんびり行っても良かっただろうに。何より顔も汚れない。
「いいじゃない。こっちの方が早いんだから」
わたしも乗ってみたかったし、とミリーは付け加える。そっちが本音だろうとドーンは確信している。
ハンカチを返そうとしたら、洗ってから返してと拒否された。渋々、汚れた面を内側にして畳んでから自分のズボンの隠しに突っ込む。
「ロークの技術もやっとここまで来たんだね。少しは地球に追いついたかな。ね、ラティ」
「ん、ああ」
ミリーの隣でずっと黙っていたラティが生返事する。
「どうだろうな……まだ」
遠い気がする、と遠い目をして呟いた。話は聞いているようだが、どことなく上の空のようにも感じた。
「そうかなぁ。でも」
ミリーは一人で話を進める。
「ヴァンの方じゃ、空を飛ぶ機械も作られてるって言うし。きっともうすぐだよ。十年後には」
あの空の向こうまで行ける。そして。
「ロニキスさんたちにも会えるよ。そのうち、ね」
その言葉に、ラティはそうだなと目を細める。
「最近ちっとも来てくれないんだもの。最後に会ったのいつだったっけ」
「七年前」
「もう七年かぁ。イリアさんもどうしてるかな。あのときはずっと子供の話ばかりで――」
向かいの席で交わされる幼馴染たちの思い出話に、ドーンはいつものように肩をすぼめて視線を逸らす。
ムーア南端の田舎町クラトスで生まれた三人は、物心ついた頃から一緒だった。今も故郷で自警団として活動しており、多くの時間を共有している。
だが。
――ロニキス。イリア。
彼らとの時間を、ドーンはほとんど共有していない。この星に文字通り災禍が降りかかった二十年前、ラティとミリーは彼らと共に戦い、人知れず世界を救った。
一方、ドーンは。
首を動かして再び車窓を向く。景色はもう目に入っていない。
ロークを襲った災禍。その正体は異星から撃ち込まれたウイルスであった。ドーンは不覚にも真っ先にそれに罹ってしまい、離脱を余儀なくされた。
当時の記憶は断片的にしか残っていない。彼らと遭遇し、宇宙船に乗ったときには既に症状が進行していた。鉛を纏ったかのように身体が重くなり、意識も朦朧としていたので、今思い返しても夢の中の出来事とほとんど変わりない。夢だったのではないかと思うことさえある。
夢から醒めたら、幼馴染みたちは英雄となっていた。
疫病からロークを救い、さらにはその過程で得た仲間たちと共に、地球に侵攻してきた独裁者を打倒してきたのだという。詳しいことはドーンは知らない。全ては目の前の二人やロニキスたちからの伝聞である。
それに、聞いたところでまるで現実感のない話だった。過去のロークだの、魔王だの、異星の塔だの、夢の話としか思えない。自分が夢を見ていたとき、彼らもまた夢の中にいたのだ。
そして、全てが終わり、ドーンも彼らも夢から醒めた――はずだった。また三人で、以前と同じような日常に戻ることができると――思ったのだが。
同じではなかった。表向きは以前と変わりなく過ごしていても、時折違和感のようなものが顕現して、はっとすることがある。
二人が口にする――ドーンが知らない人たちの話。これもまた違和感のひとつだ。あの出来事を境に、二人と自分との距離は昔のように等しくないのだと、否応なしに実感させられる。当初は一時的なものだろう、時が経てばそんな感覚も薄れるだろうと軽く思っていたが。
二十年。それだけの時を重ねても、変わらなかった。二人に対して覚える疼きめいた疎外感も。そして。
――三人それぞれの、距離感も。
あの頃には、思いもしなかった。
まさかこの歳まで、この関係が続くことになろうとは――。
ラティもミリーも、そしてドーンも、互いに同郷の幼馴染みであり、友人である。二十年という時を経てもなお、その関係性は継続している。疎遠にもならず進展もせず、相も変わらずこうして三人でつるんでいる。
ドーンはただ流れるだけの景色から視線をもぎ離し、二人に向き直る。
久々の遠出で浮かれ気味に話をするミリー。それに乗り切れずとも相槌だけは打つラティ。友人たちはあの頃とまるで変わっていないように見えた。
もちろん何もかもそのままではない。どちらも目尻には薄く皺が刻まれ、肌の張りもやはり若者のそれとは異なる。だが、同じ四十前後の他人と比べれば全然若い。
気持ちの若さが外見に反映されるということは、あるという。しかし彼らの場合、それとも違う気がする。彼らに流れる時間を緩慢にしているものとは――。
夢……か。
何よりも鮮烈で、忘れがたい二十年前の想い出。それは彼らの生き方、在り方を大きく変えてしまったのだろう。ゆえに彼らは今もなお、それに囚われて生きているのかもしれない。
二人の中では、まだ夢が続いているのだ。
翻って、ドーンは。
夢なんてとっくに醒めている。この二十年、現実の真っ只中を生き続けてきた。おかげて歳相応に草臥れている。
同じ体勢で座り続けたせいで、尻が痛い。腰もいくらか強張っている。便利な乗り物に乗っていても中年の身体はあちこち悲鳴を上げる。
尻を浮かせて座り直したところで、列車が減速を始めた。駅に着いたらしい。
「タトローイか。この街も懐かしいけど」
三百年前の方がよく知ってるかな、とミリーは少し寂しそうに笑った。
周囲の乗客が立ち上がり、続々と列車を降りる。タトローイはアストラル最大の街だ。しかもこの先は終点のトロップまで街と呼べるような集落はないので、大半の利用客はここで下車する。
発車すると、客車はドーンたちを除くと大荷物を携えた行商人だけになった。トロップの港に用事があるのだろう。
ドーンたちはそこまでは行かない。三人が向かおうとしている目的地は――。
「ね、ラティ。今更だけどさ」
聞いていい? とミリーが尋ねる。ラティは翡翠色の瞳を彼女に向ける。
「どうして急にパージ神殿なんて行く気になったの? ただの旅行じゃ……ないよね」
それについてはドーンも疑問に思っていた。
発端は今朝――いつものように自警団の詰所に出勤したときのこと。
珍しく先に詰所にいたラティが、パージ神殿に行くと言い出して支度を始めたのだ。
何事かとドーンは驚いたが、ミリーの方は当然のように一緒に行くと応じて、自分の身支度のため家へと戻っていった。今思えば単にこの鉄道に乗りたかっただけなのだろう。
ドーンも慌てて同行を申し出た。鉄道はどうでもいいが、二人が行くなら自分もついて行かないわけにはいかなかった。二十年前の件以来、二人が関わることには極力首を突っ込むことにしているのだ。自分だけが共有していない夢を――これ以上作らせないために。
ラティは少しだけ困った表情を見せたが、特に断ることもなく二人の道連れを認めた。思えばこのときから幼馴染みの口は重かった。だから遠出の目的も、何となく訊くのが憚られたのだ。
「ああ……うん」
先程のドーンと同じように、ラティは車窓に目を馳せる。
「七年前、行ったの憶えてるか? イリアさんと一緒に」
「もちろん憶えてるよ。なんか気になることがあるから調査したいって、わざわざロニキスさんを先に帰してまで行ったけど」
でも結局空振りだったのかな?とミリーは人差し指で顳顬を突いた。ドーンも拙い記憶の糸を手繰る。
彼女――イリア・シルベストリは、最初に会った二十年前は軍の科学士官だった。その後は軍を離れて紋章術の研究機関を立ち上げ、ロークにも調査のため幾度となく訪れていた。
ただ、そのときに限っては研究とは関係ないと……確か言っていた。どうやら三百年前のロークに遡行した件に関わる話のようだったが、ドーンはその件を知らないので詳細は不明のまま同行していた。
「最深部に行きたかったのかな、イリアさんは。でも道がわかんなくて、あのとき案内してくれたルーンも見つからなくて」
ルーンというのも七年前に初めて知った。古来よりロークにいる精霊のような存在だという。これもまた夢みたいな話だ。
「ずっと引っかかっていたんだ」
ラティが言う。
「あのとき入った、あの神殿は――」
本当にパージ神殿だったのか――。
「は?」
ミリーは首を傾げる。
「パージ神殿だったじゃない。場所も三百年前と同じだし、建物も」
「けどルーンはいなかった。それに」
神殿の中の様子が。
「どこか違っている気がした。三百年前と――何かが」
そうかなぁ、と腕を組んで口を窄めるミリー。
「わたしは別に感じなかったけど。三百年も経てば、そりゃ古くなって色々変わるだろうし」
ミリーは鈍感だからなと茶々を入れると臑を蹴られた。仕草も行動も若い頃のお転婆がちっとも抜けていない。
「そういう変化ではないんだ。もっと根本的なところが」
天井の高さ、通路の広さ、柱の位置や壁の装飾も、何もかも。
「同じに見えるけど……それはただ、似ているだけのような気がしたんだ。確かに場所も建物も疑いようもないから、気のせいかとずっと思っていたのだけど」
思い出したんだ、とラティは上着の隠しに手を入れる。
「何を?」
「二十年前――」
また二十年前か。ドーンは心の中で嘆息する。
「ファーゲットの戦いの後、みんなを過去に送る前日に送別会を開いただろ。地球で」
言いながら、隠しから取り出したものを二人に見せる。
硝子の小瓶だった。掌くらいの大きさで、金属の蓋がついている。
瓶の中に入っていたのは――コルクの栓。瓶の封をするためのものが瓶に入っているので何だか妙な具合だ。
「あの席でヨシュアさんと飲んだワインの栓。テーブルに二つあったから、それぞれ持ち帰ったんだ」
「時を超えた友情の証、みたいなやつ? それとも」
愛情かな、とミリーがにやけるので、今度はドーンが下世話な幼馴染みを小突いた。
ヨシュアというのはやはり三百年前の戦友で、有翼種族フェザーフォルクの青年だという。かの種族は男女ともに美形揃いで、彼もやはり女性と見紛うほどの美貌だったらしい。
「で、結局何を思い出したんだ」
睨み返すミリーを無視して、ドーンはラティに尋ねる。
「そのとき、ヨシュアさんが話していたこと。ヨシュアさんは――」
彼は、パージ神殿に関して懸念を抱いていたという。
――あの神殿のことは、少し気がかりですね。
――最深部にあった、あの設備。あれは今の僕らの文明には、あってはならないものです。
――ルーンが監視しているから大丈夫だと思いますが、もし僕ら以外の誰かに発見されて、悪用されるようなことが起きたら……。
――戻ったら、ルーンや管理しているアストラルと話してみます。場合によっては封印を――いや、そんな大袈裟なものではないですが。
――何か細工をするかもしれません。僕ら以外が入れないような――。
「細工? パージ神殿に?」
一体どんな、とミリーは目を瞬かせる。
「それを確かめに行くんだ。これから」
ラティは小瓶を仕舞い、荷物を取って立ち上がった。
身体が前方に引かれる。列車が緩々と減速し、寂れた駅に停まった。
七年前は確か馬車小屋だった。建物だけ流用して中にホームを設え、列車を引き入れられるように改造したようだ。改札口で船を漕いでいた駅員を起こして切符の半券を手渡し、仮拵えの駅舎を出た。
ここからは山道が続くので、人の足で進まなくてはならない。切り通しを越え、渓谷に架かる吊り橋を渡り、短いトンネルを抜けると――。
果たして目の前に神殿が現れた。乾いた台地の上に、厳然と鎮座している。
「来るたびに思うけど、本当へんぴな場所にあるなぁ」
おかげで疲れた、とミリーはポーチから水筒を出して一服する。遺跡なんてそんなものだろうと澄ましていたが、実のところドーンも足にきていた。
「やっぱり」
手頃な岩を見つけたのでしれっと腰掛けようとしたとき、ラティが声を上げた。
「勘違いじゃなかった。これは」
また大胆な細工をしたな、と神殿を仰ぐ。その口許にはなぜか笑みが洩れていた。
「大胆? 何が」
横に並んで同じように眺めるミリーに、ラティは正面の入口を指で示した。
「位置が違う」
「え?」
「三百年前はあんな左側にはなかった。周りの景色が変わっているから気づかなかったけど」
先を行く二人が話しながら神殿へと近づいていくので、ドーンは休憩を諦めて腰を上げた。
「どういうことだ?」
小走りで追いかけ、会話に割り込む。
「パージ神殿には違いないんだろう? 入口の位置だけずらしたとでも言うのか」
そんな――魔法みたいなこと。いくら紋章術師と言っても。
「新たに造ったんだろうな。そして、三百年前の入口は――」
ラティは大扉の手前で道から外れ、向かって右側の壁伝いに歩を進めた。徐々に壁が断崖のような土壁に隠れて見えなくなる。悠久の歳月による地形の変化のためか、現在の神殿は一部が台地に埋没している。
「ここだ」
土壁の一部が崩れ、その先に小さな扉が見えている。最深部へと続く隠し扉――七年前は確かここから中に入ったのだが。
「表口を隠し扉に偽装して、その上で新たな表口も造ったんだ。たぶん……ヨシュアさんの仕業だろう」
「はぁ? なんでそんなこと」
「もちろん、本当の隠し扉を『隠す』ためだろうな」
――ああ。
ドーンにも何となく意図が呑み込めた。
パージ神殿に隠された入口が存在することは、学者のみならず一部の旅人や冒険者にも知られていたという。たとえ入口を塞いだとしても、巷説を辿って誰かが探り当ててしまう恐れは充分に予見できた。
だから、本物の隠し扉は隠した上で、ダミーの『隠し扉』も用意したのだ。見つけたと喜んで入った先は、三百年前は表であった部屋――つまり、何もない。それでも表口――これもダミーなのだが――とは別の入口には違いないから、それ以上探ることはしないだろう。
「わたしたちもすっかり騙されたわけだ、ヨシュアさんに」
「そうだな」
一杯食わされたなと、言葉とは裏腹にラティは嬉しそうだった。
そして、さらに壁沿いを進む。土壁がさらに高くなり、もはや神殿の影すら見えなくなる。
「このあたりか――」
ラティは足を止め、何かを確認するように周囲を見渡した。脳裏に刻まれた三百年前の記憶と――見比べているのか。
「ドーン、道具を」
「道具? あ、ああ」
ドーンは背負っていたリュックを下ろす。必要になるかもしれないと作業道具を持参していたのだ。はち切れんばかりに膨れたリュックを開けて、ラティは半ば突き出ていたショベルを取り出した。
そして、土壁の前に立つ。
「掘るのか?」
「ああ。俺の記憶では」
この向こうに。
ショベルの先を突き立てると、壁はぼろぼろと崩れた。見た目よりも脆いようだ。何度か掻き分けただけで勝手に崩落して、大きな穴が開いた。
穴の先に見えたのは――。
「なにこれ?」
神殿の壁には違いなさそうだが、額縁のように四角に縁取られてある。中央には小さな窪みがあり、その上部には細かく何かが刻まれていた。
「文字……か。これは」
目を凝らしたが、所々掠れていて読めない。ラティは足許の砂を掬って壁に吹き付け、それから表面を軽く払った。目の細かい白砂が文字の凹面に入り込み、それなりに判別できるようになった。
「えっと、『来し方の……友、より、未だ在らぬ……畏友に……捧ぐ――』」
隔たれし刻の壁はあれど、我らの絆は紡がれ壁を穿つ。
絆の証は、酌み交わした別離の日の追憶なり。
我らの邂逅の地に、その証を捧げる。
譬え朽ち果てようとも、友への想いは永久であらんと――希って。
読むことはできたが、結局ドーンには意味が判らなかった。
だが。
横を見ると、同じように文字を追っていたラティの目から。
涙の粒が――はらりと落ちた。
そして懐に手を入れ、列車で見た例の小瓶を取り出す。
酌み交わした――追憶。その証。
まさか。
瓶の蓋を開け、コルク栓を手に取り。
壁の窪みに――嵌め込んだ。
ぴったりと、一分の隙間なく嵌まった。まるで最初から埋め込まれていたかのように。
「その栓」
ヨシュアさんも同じの持ってたって言ってたよね、とミリーが言う。その声も少し震えていた。
つまり、この窪みは――。
壁が鈍く輝き出した。紋章が浮かび上がり、縁取りの境目から壁が割れて、引き戸のように右へと動いていく。
動きが止まると、目の前の壁はすっかり取り払われ、薄暗い奥へと続く入口が開かれた。これが本来の――隠し扉か。
「『僕ら以外が入れないような細工』って」
これじゃラティしか入れないじゃないと、ミリーは目頭を拭ってからむくれた。
「わたしやロニキスさんたちは無視ですか。二人の世界すぎて妬けるんですけど」
「まあなぁ」
ラティも照れくさそうに笑った。あまり見せない表情に、ドーンは少し驚いた。
角灯の準備をして、三人は神殿の内部へと踏み入る。作業道具のリュックをどうしようか少し迷ったが、必要になるかもしれないので引き続きドーンが背負った。
ひんやりした空気が頬を掠める。角灯の明かりに照らされた神殿内部は、七年前とあまり変わりないようにも思えたが。
「憶えてる――ものだな」
ラティの足取りは七年前と違い、迷いがない。通路を進み、いくつかある扉を逡巡することなく選んで潜っていく。
「ルーンのところに行くの?」
「ああ。今もいるのか確かめたい」
いくつも扉を潜り、分岐した通路をどんどん進む。道を知らないドーンは二人についていくだけで精一杯だ。はぐれたら戻れる自信がない。
「おい、ちょっと――」
列車を降りてから歩き詰めだ。いい加減に一休みさせてくれと言いかけたとき、二人が足を止めた。
いつの間にか、開けた場所に出ていた。壁も天井も明かりの届くところになく、茫漠と闇が広がっている。
「あれって……」
前の二人は正面を向いていた。ドーンも肩越しに覗くと。
何だか奇妙なものが、蠢いていた。
楕円形の、ぶよぶよした質感の球体。たまに遭遇する魔物のスライムに似ていたが、それとも少し違う。宝石のルビーのような紅に赫きながら、芋虫のように地面を這いずっている。
「何だよ、あの気色悪い……って、うわ」
よく見たら、一体だけではない。同じものがいくつも薄暗い床でもぞもぞ動いていることに気づいて、思わず声を上げてしまった。
「ルーンの仕掛けだ」
「仕掛け?」
意味がわからない。
「まだ――動いているとはな」
ドーンの疑問をよそに、ラティは目を細めて感嘆している。
「正解は、青だったっけ。見当たらないね」
「たぶん、もっと奥にいるんだろう。まずは探して――」
「あのな」
除け者扱いが続き、さすがに堪えかねて口を挟もうとしたとき。
前方の物体に、異変が起きた。
半固体だったものが、次々にべしゃりと潰れ、床に赤い水溜まりを作る。
「な、なに?」
どうしたのとミリーが目を丸くする。二人にとっても思いがけない変化のようだ。
結局、視界にある全ての球体が形をなくし、液状になった。しかも。
変化はそれで終わらなかった。水溜まりたちは床を移動し、寄り集まって、大きな池くらいの水溜まりとなり。
中央から――むくむくと盛り上がっていく。再び固体になるかと思ったが、違った。液体のまま見上げるほどに高くなり、まるで壁のように――。
いや。
壁ではない。これは――波だ。
赤く赫く大波がこちらに迫る。頂点から形を崩して、三人の頭上を覆った。
ドーンは腕で頭を庇い、目を瞑って衝撃に備える。
――が。
衝撃は起きなかった。何の感触もなく、飛沫のかけらすら届くことなく、唐突に静寂が訪れた。
腕を下ろし、恐る恐る目を開けると。
巨大な赤い塊が、不気味に蠕動している。ラティとミリーの姿は――ない。あの波が、二人だけ呑み込んでしまったのか。
〈去れ〉
突然、声が響いた。辺りを見回すが誰もいない。まさか目の前のこいつかと一瞬思ったが、言葉を発する生物とは到底思えない。
〈汝は外理の者に非ず。このまま立ち去れば――不問に付す〉
一体誰だ。ラティたちの言っていたルーンなのか。それとも。
――いや、それよりも今は――。
「ああ、くそッ」
ドーンは髪をかき回す。想定外の連続で混乱の極みだ。わからないことばかりでろくに思考が働かない。
ただ、一つだけ判ることは。
消えたのは、ラティとミリーだけ。つまり、またもや。
――置き去りにされた。
立ち去れば見逃すと、謎の声は言っている。『外理の者』というのがどういう意味かは知らないが、要はラティたちはそれに該当するから連れて行ったということか。
二人と一人。また――分けられた。
「……ふざけるな」
もう、仲間外れは御免だ。
俺だってな。
沸々とした感情のまま、ドーンは駆け出す。出口ではなく、目の前の物体めがけて。
――夢の続きを見たいんだよ――!
飛び込んだ。視界が紅に染まり、そして。
世界が反転した。色を無くし、静止したどこかの空間を物凄い速さで移動している。落下か、遡上か、それすらも判別できず、気紛れな重力に弄ばれて――。
いきなり外に出た。地面を転がり、何かにぶつかってようやく止まる。
強打した腰を摩りつつ、ドーンは身体を起こした。
眩しい。壁も天井も全体が白く発光していて、目を開けていられないほど明るい。それほど広い空間ではないようだが。
ラティは。ミリーは。
眩んだままの目を細めて、二人の姿を探す。前方に人影――背中が見えた。だが二人のどちらでもない。小柄で、水色の髪で、頭の上部に耳が突き出ている。
相手の方も気がついたか、こちらを向く。子供……少年か。あどけない容貌に似合わない、冷徹な眼差しで睨んでくる。
徐々に目が慣れ、周囲も見渡せるようになる。それでようやくドーンは、その場の異様な状況を認識した。
目の前に立つ、猫のような少年。その向こうは――。
血塗れだった。血溜まりで横たわる見知らぬ人間たち。少年の上着も、足許の裾から下半分は鮮血に染まっていた。
夢の続きなんて見るものじゃなかったと、ドーンは自分の決断を後悔した。