少年探偵レオン

note 5. 「熊が出たぞう」事件 [出題編]

 ある~日っ(ある~日っ)
 森のな~かっ(森のな~かっ)
 くまさ~ん~にっ(くまさ~ん~にっ)
 で~あ~ったっ(で~あ~ったっ)
 花咲く~も~り~の~み~ち~
 くまさん~に~で~あ~った~

 薄暗い森の中を調子っぱずれな歌声が響きわたる。けっして美声とはいえないが、元気に快活に歌いあげるその声を聴いていると、なんだかこちらも励まされたような気分になる。声の主は茶色のポニーテールをひょこひょこと揺らして先頭を歩いている。
「ちょっとお」
 彼女の頭のまわりをちかちかと光がせわしなく廻り、顔の前で止まった。そして光は小さな人間の姿へと変わる。
「不謹慎な歌、歌わないでよ。ホントに出てきたらどうすんのよ」
 光であった小さな少女はポニーテールの少女の鼻先にビッと指を突きだして、言った。
「なにさ。あたしたち熊を退治しに来たんでしょ。いまさら恐がっててどうするんさ」
「そーだけどさ~……」
「おーい、プリシス」
 言い争うひとりと一匹(?)の背後から声がかかる。
「あんまり離れるんじゃないぞ」
 その言葉にプリシスはむっとした。
「クロードまで怖じ気づいてんの? それともやっぱり子供扱いしてんじゃ」
「そういうわけじゃないけど……ほら、いつなにが出てくるかわからないから、用心に越したことはないと思って」
 詰め寄るプリシスをなだめるように、クロードはしどろもどろに言い訳をする。
「見苦しいからうろちょろするなって言ってるんだよ。まったく」
 クロードの横でレオンが小声で呟いたのを、プリシスは耳ざとく聞きとがめて。
「あんたってとことん可愛くないねっ。ガキのくせして」
「お姉ちゃんだって大人げないよ。年上ならそれなりの態度ってもんがあるだろ」
 睨みつけるプリシスにそっぽを向くレオン。ふたりに挟まれたクロードはひとりため息をつく。
「うがおぅっ! 熊が出たぞ~ッ!」
 突然ボーマンが背後から両手を振りかざして、ふたりに襲いかかるような仕種をしてきた。ふたりは驚く素振りもみせず、乾いた視線で大口を開けたまま凍りついているボーマンを見る。
「あーゆうオトナにはなりたくないやね」
「うん」
 そう言いながら、ふたりは並んで先へ歩いていってしまった。
「……えっと……」
 クロードは困ったように頭を掻いて、虚しく佇むボーマンに声をかける。
「い、行きましょうか」
 それだけ言うと、彼も逃げるようにしてふたりの後を追っていった。
「…………」
 彫像のように固まってしまったボーマンをその場に残して。

 さて、彼らはどうして森の中を進んでいるのか。
 話は少し前にさかのぼる。

「熱冷まし?」
 椅子に座り、両足をカウンターに載せて本を読んでいたボーマンが顔をあげて、聞き返した。
「ええ。ラクールでレナが高熱を出してしまって、もう三日も寝込んでるんですよ。ボーマンさんならいい薬を持ってるんじゃないかと思って」
「なるほど。それでわざわざリンガここまで来たってわけか」
 ボーマンは本をカウンターの上に放ると、立ち上がった。そして、そこに見慣れたポニーテールが揺れているのを見つけると。
「……ところで、なんでお前までいるんだ?」
「別にあたしがどこにいたっていいじゃんか。街の入口でクロードたちと会ったから、そのままついてっただけだよ」
 プリシスが突っぱねたように言うと、ボーマンは口許を曲げてニッと笑った。
「そーかそーか。可愛いレオン君に久々に会えたもんな。んなことを聞くのは野暮ってもんか」
「え?」
「あに言ってんだ、この色魔王薬剤師がっ!」
 真っ赤になって怒るプリシスを笑い飛ばして、ボーマンは店の棚のほうへと歩いていく。
「色魔王……ね」
 苦笑しつつクロードがレオンを見ると、少年は訳わからないというような表情をしてプリシスを見ている。ふくれっ面のプリシスがチラッとこちらを見て、目が合うとまたそっぽを向いた。彼女のその仕種にレオンはまた首をひねる。
 レオンのほうはまだ気づいてないみたいだな、とクロードは思った。わりとマセていると思っていたけれど、案外鈍いものだ。
「あっちゃー……しまったな」
 ボーマンが棚の前で声をあげた。
「どうかしたんですか?」
 クロードが棚の陰からのぞきこんで聞くと、彼は眉間に皺を寄せながら答える。
「解熱剤はちょうど切らしちまってる。調合すればすぐにも作れるんだが……それには東の森まで薬草を採りに行かにゃならん」
「あ、東の森って」
「そ。噂のあのスポットだ」
 リンガの住人ふたりが頷きあってるのを見て、クロードは首を傾げた。
「噂?」
「いや、それがな……なんともバカバカしい話なんだが」
 ボーマンが言い淀んでいると、代わりにプリシスが。
「熊が出るんだってさ。あの森に」
「くまぁ?」
 クロードが拍子抜けした声をあげた。
「いったい誰が言いだしたのか知らんが、ここ一週間くらいの間にそんな噂がまことしやかに流れてるんだよ。親子でいるのを見たとかどこかの木こりが食われたとか、この街じゃちょっとした騒動になってる」
「そいで、みんなおっかながっちゃって、誰もあの森には近づかなくなっちまった。まあ、もともと街道からも離れた場所だから、出入りしてたのは木こりか薬屋ぐらいのもんだけどね」
 プリシスは怪訝な顔をしているふたりにそう説明してから、ボーマンに向き直って。
「ちょーどいいんじゃない? あんたが行って確かめてくればいいじゃない」
「おいおい。熊がそこらにうろついてるかもしれんような森に、ひとりで行けってか?」
 ボーマンは作り笑いを浮かべたが、やや顔がひきつっている。
「でも、行かないことには薬が作れないね」
 レオンが追い打ちをかける。
「……お前ら、そんなに俺を殺したいのかよ」
「なーに言ってんさ。『最強の』薬屋さんが」
 プリシスが景気よく彼の背中を叩いた、そのときだった。
 どしん、と、店の扉の向こうから、なにかが勢いよくぶつかったような鈍い音がした。中にいた四人がいっせいに扉に注目したが、それ以上はなんの反応もなかった。
「なんだ……?」
 ボーマンが入口に歩み寄って扉を開けると、そこには誰もいなか……いや、なにかがいた。地面に仰向けに倒れて目を回している、半透明の翅をつけた小さな人間が。
「お、おい。こいつは……」
「わ。すごーいっ。妖精さんだ!」
 プリシスが駆け寄って、ボーマンの横から覗き込む。頭から扉に激突したのか、妖精はぐったりと伸びていたが、プリシスが顔の前に指を近づけて左右に振ると、はっと目を覚ましていきなり翅を翻し、飛び上がった。
「あんたたち、なにヒトのこと見てんのよっ!」
 周囲を人間が取り囲んでいることに気づくと、慌てて距離をとって一気にまくし立てる。
「あ、あ、あたしをどうしようっていうの!? まさかまさか、捕まえて薬漬けにして見せ物にしたりとかついでにそれで不老不死の薬なんか作っちゃったりなんかしてそんなそんな極悪非道な薬屋だったりするわけ、ここは!?
「まだなんも言ってねぇだろうが」
 ボーマンが呆れたように言っても、妖精の少女はいいえ騙されないわと首を振って。
「それじゃそれじゃ、あたしをここに閉じこめて召使い兼ペットだなんて言ってタダ働きさせられたり夜にはもっと鬼畜なコトをされたりなんかするのね!?
「……それはあり得るかもな……」
 クロードがぼそりと呟いたのをボーマンは聞き逃さずに、すかさず顔面に裏拳をかます。
「ね。キミ、名前なんて言うの? どっから来たの?」
 プリシスが聞くと、妖精は急に意表を突かれたように大人しくなって、彼女を見る。
「え? ええ。あたしはユニーっていうんだけど……あっ。そうだ、それどころじゃないのよ!」
 せっかくまともに話せるようになったと思ったら、また声を張り上げて騒ぎ出す。
「出たのよ! 森に!」
「何がだよ」
「熊よ!」
 その言葉に、四人は過敏に反応した。
「本当か?」
「間違いないわ。森を散歩してたら茂みの中からいきなり出てきて、あたしを襲ってきたもの」
「森ってのは、あの東の森のことだよな?」
 ボーマンが訊ねると、妖精の少女は頷いた。
「あの森がキミたちのすみかなの?」
「えっと……そういうワケじゃないんだけど……」
 プリシスの問いに彼女は言葉を詰まらせた。
「妖精族ってのはふだんは人里離れた森の奥に閉じこもって、めったに外に出たりはしない」
 レオンが鋭い口調で追及する。
「なのに、どうして君はこんなところをひとりでウロウロしていたのさ」
「そっ、そんなことはどうでもいいじゃない! とにかく、なんとかしてよ! あたしも気に入ってる森なんだから。このまんまじゃ怖くて遊びに行けやしない」
「んなこと言われたって、どうすりゃいいんだよ」
「退治して」
 あっさりとそう言う彼女に、ボーマンは頭を掻いた。
「あのなぁ……そう簡単に言ってくれるけどな、熊って奴ぁその気にさせると恐ろしく凶暴なんだぜ。おまけにあそこにいるのは一匹や二匹じゃないって話もある」
「でもそれは、あくまで『噂』だろう?」
 レオンが口を挟む。
「噂ってのは広まっていくうちに事実が歪められることがよくあるからね。実際にどのぐらいいるのか、そもそも熊なんてものがほんとうにいるのかどうか、それは自分の目で確かめてみて初めて信じられるものだろ。少なくともボクは噂なんていう不確かなものは信じないね。そんなんに振り回されて騒ぎ立てるなんて、バカみたいだよ」
「相変わらずナマイキな口きいてくれるね~」
 そう言ったものの、プリシスはまんざらでもなさそうに笑みを浮かべている。
「じゃ、あんた、森に行ってくれるの?」
 妖精の少女が瞳を輝かせながらレオンにすり寄ってきた。
「ああ。どのみちレナお姉ちゃんのこともあるし。お兄ちゃんたちもついてきてくれるよね?」
「仕方ないな……」
「あたしも行くよ~。ボーマンは?」
「俺は遠慮しときますわ。頑張ってな」
 ひらひらと手を振るボーマンに、レオンがきつい視線を返す。
「なに言ってんだよ。あんたがいなけりゃ解熱剤の薬草がわからないだろ」
「ぐ……俺は強制参加ってわけか」
「途中でトンズラこいたりしたら、熊のエサにしてやるかんね」
 脅しをきかすプリシスに、ボーマンは力なくうなだれた。

 そんなわけで、妖精のユニーの案内のもと、四人は東の森に入ったわけだったが。
「くまさん出てこないね~」
 プリシスが退屈そうに言った。
「まぁ、できれば出くわさないに越したことはないのだけど」
「それにしても、これだけ歩いても出てこないってことは、やっぱりただのデマだったのかもしれないね」
「デマじゃないって! あたしちゃんと見たんだから!」
「……わかったから耳許でしゃべるなよ。頭に響く」
 頭の上から話しかける妖精に、レオンは迷惑そうにしかめっ面をした。そこでやっと彼女は少年の頭から突き出ている耳に気づいた。
「え? これって飾りじゃなかったの?」
「違うっ。本物だっ!」
 顔を真っ赤にして怒るレオン。笑いながらふたりのやりとりを見ていたクロードは、ふとレオンの後方からものすごい速さで突進してくるものを見た。
「うわっ!」
 それは低空飛行でレオンの白衣を掠めて突風のごとく駆け抜け、小径の向こうへと飛び去っていった。
「鷹か?」
 クロードがその大きな鳥の姿を目で追うと、そいつは木々の陰に隠れてしまう手前で急に速度を緩め、翼を悠然と搏かせてどこかに降下しようとしていた。瞳を細めてよく見ると、そこには人間が立っているようだ。
「誰かいるみたいだな」
 四人と一匹(?)は小径を進んで人影の見える場所まで近づいていった。
 小径の脇にはふたりの人間がいた。ひとりは先程の鷹を腕に留まらせて話を聞くように向き合っている少年。もうひとりは木の根元に座りこんでぐったりしている若い男。森の中においては不釣り合いに思えるほど分厚いローブをしっかり着込んでいる。
「何か御用ですか?」
 おっかなびっくり近づいてくるクロードたちを横目で視認すると、少年のほうがこちらを向きもしないで言った。腕を降ろすと鷹はさっと肩へと移動した。背はレオンよりも少し高い程度で、体格も若干幼さを残している。肩に留まった見るからに立派な鷹が、線の細そうな彼を守護するように堂々と、それでいて従順そうに佇む。
「えっと……こんなところで何をしてるんだい?」
 クロードが訊ねると、少年はようやく色白の顔をこちらに向けた。首筋のあたりでまとめられた長髪といい、どことなく中性的な感じのする少年だった。
「この方がここで倒れていたから、着付け薬をこいつに採りに行かせていたんですよ」
 目の前で気を失ったままの男に目をやりながら、少年が鷹の嘴の前に掌を差し出すと、鷹は口にくわえていた赤い木の実を吐き出して掌の上に落とした。
「よく慣れてるね~。そいつ、キミのペット?」
「相棒です」
 少年はすぐに言い直した。続けてなにか話し始めるかと思って待っていたが、彼はまた口を閉ざしてしまった。あまり他人と会話をするのが好きではないようだ。
「リンガじゃ見かけない顔だな。どこの家のもんだ?」
 仕方なしにボーマンが訊ねた。
「私はリフといいます。家はこの森の外れに……こいつとふたりきりで暮らしてます」
 リフと名乗った少年は肩の上で毛繕いをする鷹を見ながら言った。
「他に、家族とかは?」
「…………」
 彼はその問いかけには答えずに、男の前に屈みこんで様子を確かめている。その動作がなんだか質問を拒絶しているように思えたので、クロードたちもそれ以上はなにも言えなかった。
「んにゃ? こいつ……」
 と、ボーマンが何気なく気絶している男の顔を見たとたん、声をあげた。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっとな」
 彼は少しはにかんだような笑顔を作って、言葉を濁した。
 その間にリフは男の顎をつかんで口を開かせ、そこに赤い木の実を押し込んだ。少しの間を置いて、男はいきなりカッと目を見開いて起き上がる。
「から~~~っ!!
 そう叫ぶと、地面に手をついてごほごほと噎せ返った。着付け薬というより、とびきり辛い木の実を食わせて無理やり起こそうという荒療治だったらしい。
「ほれほれ。しっかりしろよ」
「……ああ。ありがと……ッ!?
 背中をさすってくれたボーマンに礼を言おうとそちらを向くやいなや、彼は顔色を変え、その手を振り払って後退りする。
「なっ、なななな、お前はボーマン・ジーン!」
「久しぶりだな。ちゃんと生きてたのか」
「知り合いなんですか?」
 クロードが聞くと、ボーマンは口許をつり上げ、全然似合わないウインクをしてみせた。
「ま。ちょっとしたダチだ」
「誰がお前なんかと友達なものかっ! お前のせいで僕が今までどれだけ辛酸をなめてきたことか……」
「なんか嫌われてません?」
「いろいろ訳ありでよ」
 顔をひきつらせて怯えた猫のように威嚇する男に対して、ボーマンは相変わらず余裕の笑みを浮かべている。
「だいたい、なんでお前がここにいるんだよ」
「そりゃこっちのセリフだぜ、ウィックス・ロラン。確かお前はラクールの方に勤めているんだろ。こんなところで油売ってていいのか?」
「バカ言え。これはれっきとした仕事だ。リンガに広まっているおかしな噂を調査するために派遣されてきたんだよ」
「じゃあ、あなたも熊の噂を聞きつけてここに来たんですか」
 クロードが言うと、ウィックス・ロランは一転して得意げに胸を張る。
「そうだよ。あれだけみんなが噂してりゃ、やっぱり自分で実際に確かめてみたくなるじゃない。それに、もしホントに熊がいるならついでに退治してやろうかなぁなんて思ったりして」
「お前が熊退治? やめとけやめとけ。怪我しねぇうちに帰んな」
 嘲笑するボーマンに、彼はまた顔色を変える。
「馬鹿にするな! たかだか熊一頭、この剣をもってすれば造作もないっ」
 そう言って腰に差した剣を抜き放つと、様にならないポーズを決めてみせる。
「お前、いつから剣士に転向したんだよ。つーかお笑いにしかなってねぇよ、それ」
「うるさいうるさい! どうしてお前は事あるごとに僕に突っかかってくるんだ。だいたい六年前のあのときだってな……」
 知り合い同士で口論が始まってしまい、クロードたちは途方に暮れた。レオンに至っては切り株に腰かけて、呆れたようにため息をついている。
「ね。キミ、なに見てんの?」
 退屈しのぎにプリシスはリフに話しかけていた。けれど彼は、小径の脇に広がる雑木林の奥を厳しい眼差しで見つめたきり、ぴくりとも動かない。まるで、なにかを警戒するように。
「……来る……」
「え?」
 聞き返そうとプリシスが口を開きかけたとき、がさごそと茂みをかきわける音がした。気配を察して振り向くと、幹の陰から黒い毛むくじゃらのものがぬっと顔を出して、その姿を現した。
「出たーーーーーっ!!
 妖精のユニーがその小さな身体から発せられたとは思えないぐらい大きな悲鳴をあげた。刺激された熊はうがおぉう、と野太い咆哮を森に響かせる。
「ちっ。やっぱり出やがったか……ん?」
 ボーマンはすぐに身構えたものの、茂みから完全に出てきた熊の姿を見ると、拍子抜けしたように拳を下ろした。
「なんだか……思っていたより大きくないですね」
 クロードも戸惑い気味に言った。
 目の前に立ちはだかった熊は凶暴そうな牙を剥きだし、濁った両眼でこちらを睨んではいたが、その体長はせいぜいクロードやボーマンよりも一回り大きい程度で、やや迫力に欠けていた。おまけに熊にしては不自然なくらい痩せこけており、毛並みも悪かった。そのせいで、振りかざした腕の先に光る鋭い爪を目の当たりにしても、さほど恐怖は感じられず、むしろ滑稽にすら見えた。
「……?」
 レオンは訝しげに熊を観察していた。現れた獣の動きに、どことなく違和感を覚えたのだ。
「おっ、お前がリンガの街を脅かす熊だな! ラクールの名のもとに、このウィックス・ロランが成敗してくれる!」
 そんなことは委細構わず、ウィックスは熊の正面に立って敢然と剣を構えた。が、腰が引けている。緊張感を孕んでいるようで実はそうでもない雰囲気の中、両者は一歩も動かず睨み合っていたが。
「こんちわ、くまさん。ごきげんいかが?」
 そこへプリシスが割って入って、警戒心のかけらもなく熊に話しかけた。
「あ、危ないぞ、君! そこから離れなさい!」
 背後の注意を促す声にも応じず、プリシスは無防備につっ立って、熊に笑いかけている。痩せぎすの熊は突然のことに茫然と彼女を見つめ返していたが、不意に我に返って、その図太い腕を振り上げた。
「プリシス!」
 この状況にさしものクロードも慌てて叫んだが、心配ご無用とばかりに彼女は振り下ろされた腕をあっさり跳躍して躱した。
「おイタする子はおしおきっ!」
 背中のリュックが開き、そこからお手製のハンマーが飛びだすと、プリシスはそれで思いきり熊の後頭部を叩いた。熊はあっけなくうつぶせに倒れて、それきり動かなくなった。
「おいおい。あんなんでダウンしちまうのかよ。ずいぶん貧弱な熊だな」
 ボーマンは疑わしげに覗き込みながら熊に近づいていった。その横をレオンが早足で通り過ぎる。
「やっぱりな」
 レオンは脇に立ってだらしなく地面に突っ伏した熊を目の前で見下ろすと、疲れたように息を吐いた。
「どうしたんだ?」
「そこ、見てみなよ」
 隣に立ったクロードに毛むくじゃらの背中を見るよう指示する。言われた通り目を向けると、ちょうど背骨があるあたりに、熊の躯にあるはずもない銀色の筋が走っていた。そして、その筋の始まりである首のうしろには、やはり銀色の小片が艶のない毛並みの間からわずかに見えた。
「ファスナー……?」
 まさかと思ってクロードが指で体毛をかき分けて銀色の筋を辿ると、間違いなくそれは金属のファスナーだった。うんざりした気分のまま、首筋の小片をつまんでそれを一気に引き下ろす。小気味いい音とともに熊の背中がぱっくりと割れ、中から見えたのは、裸の人間の背中。
「…………」
 文句を言う気力もなかった。クロードたちは熊の着ぐるみを取り囲んで立ちつくしたまま、深々と嘆息した。

「さて」
 と、切り株に腰かけたクロードが切り出した。目の前には地面に正座した上半身裸の男。熊の着ぐるみから引きずり出され、例の着付け薬によって目を覚ましたばかりというせいもあるのか、身体じゅうに変な汗をかいていた。
「どういうことなのか、話してもらおうかな」
 睨みつけて凄むクロードに、男は下を向く。彼の問いかけを拒絶するように。
「……べ、別にそんな大したことじゃないよ。脅かしたかっただけだ」
 つっかえ調子で話す男に、クロードは首を眉を寄せる。
「脅かしたかった?」
「そうだよ。ただ街の連中の騒ぐ姿が見たかっただけだ。一週間ぐらい前から、面白半分で熊の恰好をして森に張り込んで、通ってくる人間を脅かしてた。悪意はなかったんだ。ほんの冗談のつもりで……」
「嘘だね」
 彼の言葉を遮って、レオンが言った。
「それは嘘だ。あんたはなにかを隠してる」
「ど、どうして君にそんなことが……」
 男は明らかに動揺している。
「まず第一に、この森はほとんど人が入りこむことはない」
 レオンは誤りを鋭く指摘する。
「仕事で出入りする薬屋や木こり以外で、この森を通る人はめったにいない。街からも街道からも離れてるから、迷い込む可能性もほとんどゼロだ。そんな森に張り込んで、いったい誰を脅かしていたって言うんだい?」
「う……」
 男の顔がみるみる青ざめていく。
「それから、愉快犯っぽいことを言ってるみたいだけど、もしほんとうにそれが目的なら、どうしてもっと人が通りそうなところを選ばなかったのさ? つまりね、脅かすことはどうでもよかったんだよ。噂さえ広まれば、ね」
「どういうことだ?」
 言葉の意味をはかりかねてクロードが聞くと、レオンは得意げにふんぞり返って。
「そもそもボクは最初からおかしいと思ってたんだ。なんでぜんぜん人が出入りしないような森に熊が出たぐらいで、そんな大騒ぎになっているのかってね。だってそうだろ? 人が入らない森に熊が出たからって誰かが困るわけじゃない。じっさい誰も困ってなかった。ただ噂だけが先走りして広まっていたんだ。これは普通に目撃者がいて、そこから広まっていく噂とはちょっと違う。要するに、この噂は誰かが意図的に流したものなんじゃないかって思うんだ。なんのためなのかはわからない。……ま、ここにその犯人がいるんだから、それは直接聞いたほうが早いね」
 そう言いきったレオンの視線は、熊男のほうではなく、背後の三人に向けられていた。
「え? え? どゆコト?」
「…………」
「まさか、僕らも犯人だっていうのかい?」
 この一連の騒動で出会った三人は、それぞれに表情を硬くした。
「噂を広めるには共犯者が必要だ。このひとが熊をかぶって張り込んでいる間、もう片方が街中でそれとなく噂を流すって具合にね。そして、少なくとも君たちのうち誰かひとりは、間違いなく共犯者だ」
「なによ。思いつきで言ってるんじゃないでしょうね。証拠はあるの?」
「あるよ」
 レオンは余裕たっぷりに言った。
「事件解決だいっ」

----- ここからヒント -----

「キーポイントは『噂』だよ」
「噂?」
「そ。リンガでどういう噂が広まっていたかを思い出してみて。三人の中に、そのことと明らかに矛盾したことを言っている人がいるから」
「矛盾か……」
「事実を知っているからつい口に出してしまった言葉なんだろうけど、軽率だったね」
「はあ……最初から読み直すしかないか」
「読み返せば必ず見つかるよ。それじゃ」