少年探偵レオン

note 9. 心の迷い人 [出題編]

「………………」
 レオンは、ふてくされた表情のまま、テーブルに並んだ料理を眺めた。
 フォアグラのテリーヌのキャビア添え、トリュフをまぶしたサーロインステーキ、狐色に焼き上がった七面鳥、そして、テーブルの中央に鎮座する巨大なケーキ。見る者が見れば、まるで夢のような光景だろう。
 けれど、レオンにとってはそんな料理などはどうでもよく、むしろそれ以上に気に食わない存在があった。
「ん? どうしたんだ、子猫くん。さあ、遠慮せずに食べたまえ」
 レオンの向かいに座った633Bは、手をつけようとしない少年を見て、言った。
「今日は君の誕生日を祝すために招いたのだから、主役が楽しんでくれないと私の面目が立たないではないか」
「あのね……」
 レオンはテーブルに肘をついて、額に手をあてた。
「なんで敵のあんたがボクの誕生日なんかを祝うんだよ」
「敵? なぜ私が君の敵にならなければいけないんだ?」
 633Bは心外というふうに肩をすくめる。
「私はただ純粋に君の幸福を願っているだけだよ。それ以上の意図はない」
 レオンは深々とため息をついて、横を見た。
 隣ではクロードが黙々と、というか一心不乱にナイフとフォークを動かしていた。その向こうにいるレナも何でもないように食事を進めている。
「なーに意地張ってんだか。これだからお子様は」
 逆隣の席で、プリシスがステーキを頬張りながら言った。
「誰がお子様だよ」
 ムッとするレオンに、プリシスは余裕の視線を向けながらジュースで肉を流し込む。
「そーやっていつまでもグズってんのが子供だって言うんよ」
「なんだよ、お姉ちゃんだってこいつのこと、変態だなんだって嫌ってたじゃないか」
「変態だけど、嫌ってないよ。イイヤツじゃん。あ、そっちのケーキ食べちゃっていい?」
「構わないよ」
 633Bに了解を得ると、プリシスは席を立ってケーキを取りに行ってしまった。
 なんだよ、どいつもこいつも即物的なんだから。レオンは頬を膨らませて、こころの中で悪態をついた。
「それにしても、こんなラクールのそばの森に屋敷があったなんて、知らなかったな」
 クロードが食事の手を休めて、言った。
「私の屋敷は世界じゅうにいくつもあるのだよ。クロスにもエルにも、主要な街やその周辺には大抵ある」
「でも、そんなにたくさん家があると、いろいろ大変じゃあないの? お手入れとか」
 レナが聞くと、怪盗は綽々と首を振る。
「どの屋敷も常に使用人を配備して、手入れは怠らないようにしているからね。使用人にも、いつ何時私が訪れてもいいようにしておけと重々言っている」
「そんなたくさん家を持って、人も雇ったりして、あんた一体その金はどこから出てきてるんだよ」
「企業秘密だよ」
 呆れたような顔をするクロードに、633Bはほくそ笑んだ。
 レオンは頬杖をついて、手前にあったサラダを少しだけ食べながら、話を聞くともなく聞いていた。
「ほらレオン、こっちも美味いぞ。食べてみなよ」
 クロードがステーキの皿を差し出してきたが、レオンは鬱陶しそうにそれを払いのけた。
「肉は嫌いなんだ」
「そんなこと言ってると、大きくなれないわよ」
「いーのいーの、レナ。こいつ、イジけてるだけだから」
 山ほど皿に盛ったケーキを自分の席に置いてから、プリシスが言った。
「いいよっ、もう!」
 レオンはテーブルを叩いて立ち上がると、早足で部屋の扉へと向かっていった。
「ちょっ、レオン……」
 クロードが呼び止めるのも聞かずに、レオンは扉を開けて部屋を出ていってしまった。
「そーゆうトコがガキだって言ってんのに」
 プリシスはフォークをくわえながら、開きっぱなしの扉を見つめた。
「しょうがないな……それじゃ、悪いけど僕らもおいとまするよ」
「そうか。残念だが仕方ないね」
「ごちそうさまでした」
 そう言ってクロードたちも部屋を出ようとしたところを、怪盗が呼び止める。
「次回のパーティはもっと盛大にやろうと、子猫くんに伝えておいてくれたまえ」
 このひともちっとも懲りてないな。クロードは苦笑した。

 ぱたりと扉が閉まると、ひとり席に座ったままの怪盗は、グラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
「さて、と……」
 一息ついて、そろそろ後片づけをさせようかと使用人を呼ぼうとしたとき、耳慣れない声が聞こえた。
「ふむ。いい屋敷ですね」
 テーブルの呼び鈴に伸ばした手を止めて、怪盗はじっと耳を澄ませた。
「何をそんなに警戒しているんです? 稀代の怪盗633Bともあろう者が」
 633Bは無言で視線を動かして周囲を見回した。姿はない。気配も感じない。
「悪いがお引き取り願おうか。君をこの席に呼んだ覚えはない」
「つれないですね。同業者のよしみじゃないですか」
 怪盗の牽制にも、声は少しも怯まない。
「姿も見せない者をおいそれと信用するとでも思っているのかね?」
 あくまで冷静に、怪盗は言った。
「まあいいでしょう。どのみち事が済めば私は退散しますから、ご心配なく」
「事が済めば?」
 仮面の下の表情がわずかに動いた。
「あなたも感づいているのでしょう。私の標的が誰なのか」
 声は淡々としていたが、それがかえって剣呑に感じられた。
「彼に何かあったら、私とて承知せぬよ」
「邪魔をする気ですか」
「やむを得ないね」
 扉の前に、ぼうっと人影のようなものが現れた。
「残念です」

「おい、待てよレオン!」
 ホールの階段を降りているところを、クロードが呼び止めた。
「さっさと帰るよ。こんなところ、一秒だっていたくない」
 振り返って不機嫌そうに言うレオンに、クロードは肩をすくめる。
「プリシスお姉ちゃんは?」
「あれ、一緒に部屋を出たと思ったのに」
 周囲を見回しても、ポニーテールの少女の姿はどこにもなかった。
「どこ行ったんだよっ」
「僕に言われても……あ、来た来た」
 二階からぱたぱたと特徴のある足音が聞こえてきた。
「おっまたせー」
 駆け足で階段を降りて、クロードたちの前で急制止をかける。
「れ? なにさ、面白い顔しちゃって」
「……なにやってたんだよ」
 レオンがじっと睨みつつ聞くと、プリシスは抱えていた箱を見せて。
「余ったケーキをもらってたんだよん。捨てちゃうって言うからさ、もったいないじゃん?」
「ちゃっかりしてんな……」
 クロードが頭を掻きながら呟いた。
「まったく、食い意地ばっかり張ってるんだ、か……ら?」
 プリシスに文句を言おうとしたレオンだったが、途中で異変が起こった。
「レオン?」
 レオンはうつむいて、額に手をあてていた。視界がぐるぐる回って、徐々に白くなっていく。
「あ、れ……?」
 全身から力が抜けていく。なにが起こったのか考える間もなく、地面に膝をついてその場にうずくまる。
 頭の上のほうで、誰かが何かを叫んでいた。それに応えようと顔を上げた――つもりだったが、そのとき既にレオンの意識は、ずっと遠いところにあった。

〈――ん……?〉
〈ボクは――どうしたんだっけ〉
〈ここは……どこだろ〉
〈……なんで、ボクはこんなところに――〉
〈こんな、とこ、ろ……?〉
〈………………〉
「!」
 目を覚ましたレオンは、慌てて起き上がった。
「……え……?」
 あたりを見回して、戸惑う。
 そこは、一面の平地だった。木も草も建物もなく、ただひたすらだだっ広い空間。地面は無機質な灰色で、空は目が痛くなるくらいに白い。四方を見渡しても、先にあるのは一筋の地平線ばかり。
「なんなの、これ……どこだよ、ここ!?
 叫ぶと、自分の声が二重になって反響した。むろん、答えるものはなかった。
 もたげる不安を懸命に振り払いつつ、レオンは自分に起こったことを思い返してみた。
(ボクは……あの怪盗の家にいて……帰ろうとしたら……そうだ、そこでなんか気分が悪くなったんだ。それから……それから……なにがあったんだ?)
 途切れた記憶の糸をなんとかたぐり寄せようとしても、どうしてもそこだけが思い出せずに、糸はするりと逃げてしまう。あれからどうなって、ボクはここにいるんだ?
(……もしかして、これは夢?)
 試しに右手で左手の甲をつねってみた。鈍い痛みが走り、つねった部分が微かに赤くなった。
 やっぱり、夢じゃない。
「なんだよ……いったい、どうなってんだよ!」
 胸の内にわだかまる不安を吐き出すように、レオンは白い空に向かって怒鳴った。それでどうにかなるわけでもないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
 声は、嘲るように響いて、やがて消えた。

「おい、レオン、しっかりするんだ!」
 クロードはぐったりと横たわるレオンの頬を軽く叩いて、呼びかけた。けれどもレオンは眠るように目を瞑ったきり、まるきり反応がない。
「くそっ、急にどうしたってんだ?」
「さっきまでは何ともなかったのに……」
 レナが心配そうに顔を覗きこむ。プリシスはケーキの箱を床に落としたまま、茫然と突っ立っている。
 クロードは少年の喉元に指を当てて脈を確かめて、それから口許に手をかざした。
「呼吸は安定してる。脈も異常はないし……」
「でも、目を覚まさないじゃん!」
 プリシスが叫んだ。
「どうしてこんなことに……おい、レオンっ!」
〈呼んでも起きやしないよ〉
 ホールに声が響いた。三人はいっせいに上を向いたが、姿は見えない。
〈君たちが何をしようとも、彼はもはや目を覚ますことはない〉
「その声……633Bなのか?」
「レオンに何したんだよ、この変態!」
 プリシスが天井に向かって怒鳴りつけた。
〈特殊な『薬』により、彼の意識は永遠の牢獄に閉ざされた。外部からでは、いかなる手段をもってしても助けることは適わぬ〉
「薬だって? そんなもの、いつどうやって……」
〈粉状にしたものをサラダに少量混ぜただけだから、見た目にはわからないだろうね〉
 クロードは先程の会食のことを思い出した。確かにレオンは、サラダだけは食べていた。
〈彼を助けたいのならば、広間まで来たまえ。私はそこにいる〉
 声はそう告げて、それきり反応しなくなった。
 クロードたちは顔を見合わせた。
「どうする?」
「どうするもなにも、行くしかないじゃん!」
「でも、罠かもしれない……」
「ンなコト言ったって、あいつに直接話つけないと、どうにもなんないよ」
「……そうだな」
 クロードはレオンを抱えて、立ち上がった。
「行こう」

 こつ、こつ、こつ……。
 果てのない空間に、靴音だけが虚しく響き渡る。歩いても歩いても地平線に終わりはなく、灰色と白以外の色を見つけることはできなかった。
 このモノクロの世界に迷いこんでから、どれほどの時間が経ったんだろう。
 最初は歩けば何かあるんじゃないか、なんとかなるんじゃないかと思っていた。けれども、どんなに歩いても足ばかり疲れて、彼の目を喜ばせるようなものは、なにひとつ見つからない。
 だいたいボクは、ちゃんと真っすぐ歩いているんだろうか? もしかしたら同じところをグルグル回っているだけなんじゃないか? もしそうだとしても、こんな何のとっかかりもない場所で、どうやったら真っ直ぐ歩くことができるんだろう?
 レオンは歩いていくうちに、自分をつき動かしていたものがだんだんと尽きていくのを感じた。どんなに歩いたって先にはなにもない。もう、この世界から抜け出すことはできないんだ。何したって、無駄、なんだ……。
 膝ががくりと折れて、レオンは力なくその場にへたりこんだ。
「も、やだよ……」
 下を向いて、呟いた。自分の手と灰色の地面が涙でにじむ。
「なんだよ……どうしてボクがこんなことに……どうなってんだよ……」
 なんの理由も経緯もわからず、いきなり訳のわからないところに放り込まれて、少年はひどく混乱していた。それでもなんとか自分を抑えて歩いていたけど、それももはや限界だった。
「ここから出せよっ!!
 めいっぱいの声で、レオンは叫んだ。後にはきぃん、と耳鳴りだけが残った。
「あの~」
 と、そのとき突然背後から声がかかった。驚いたレオンは、後退りしながら振り返る。
「だれ!?
 そこには、ひとりの男が立っていた。警戒するレオンに、男は両手を前に広げて危害を加える者ではないことを主張する。
「大丈夫、怪しいもんじゃないです。ええ」
 レオンは訝しげに相手を見た。ごく普通の、どちらかというと風采の上がらない男だ。本人は友好的な態度のつもりなのだろうか、薄笑いを浮かべる表情は頼りなげだった。
「……なんなの?」
 まだ疑わしげな視線を向けながら、レオンが訊ねた。
「ちょっと道に迷ってしまいましてね。久しぶりに人の姿を見たものだから、嬉しくって、つい。……ああ、私はラドクリフと申します」
 ややのんびりした口調で、彼は答えた。
「……道に迷うもなにも、ここには迷うような道もないじゃないか」
「ええ。実は私の兄もよく道に迷うクチでして、どうもそういう家系みたいですな。ははは」
「誰もそんなこと聞いてない」
「そうでしたか? いやいや失敬」
 照れくさそうに頭を掻く男に、レオンはため息をついた。
「それでさ、どうしてこんなところにいるの? どうやって来たの?」
「いやはや、それが私にもとんと見当がつかなくて。そもそも来た道がわかっていれば道に迷ったりもしませんわな。ははは」
「そうじゃなくて!」
 レオンは次第にいらついてきた。
「変だと思わないの? 空は真っ白だし、どんなに歩いてもなんにもないし、どう考えたっておかしいじゃないか!」
「ええ、変ですよねぇ。どこなんでしょ、ここ?」
 間の抜けた返答に、レオンは頭を抱えた。
「もういいよっ!」
 こんなのと相手していたって時間の無駄だ。そう思ったレオンは男に背を向け、ひとりで歩いていく。
「あ、待ってくださいよ、レオンさん」
 レオンの足が止まった。振り返って男を見る目は、鋭い。
「……なんでボクの名前を知ってるの」
 男はそれには答えず、微笑んだままじっとレオンを見返す。
「あなたは、ここから抜け出したいですか?」
「当たり前だろ」
「だから、無理なんですよ」
 男の言葉に、レオンは目を丸くした。
「抜け出したいといくら思ったところで、それは無理な話なんですよ。あなたは絶対にここを抜けることなんてできない」
「どうしてさ」
「だって、ここは『あなたの世界』なんですから」
「え……?」
 男がなにを言っているのか、うまく呑み込めなかった。
「どういう、こと?」
「厳密には、あなたの深層意識の内部……かみ砕いて言えば『心の中』といったところでしょうか。……それにしても、寂しい『心の中』ですねぇ」
 周囲を見渡す男に、レオンは茫然とした。
「ここが……ボクの、心の中?」
 灰色の冷たい地面、真っ白な空、ひたすら続く地平線……そこは、あまりにも無機的な空間だった。
「なんにも、ない……」
「ええ。何もありません。けれど、あなたは心のどこかで、こういう世界を望んでいたのではないですか?」
 やんわりとした口調だったが、それがかえってレオンの深い部分を抉られるような感じがした。
「うそだ。そんなの、信じられるか」
「信じられなくとも、事実なのです」
「こんなの、ボクの世界なんかじゃ……ない」
「では聞きますが、これまで自分のいる場所が窮屈だと感じたことは?」
 震えるように首を振る少年を、男は構わず詰問する。
「人とのつき合いなんて面倒だ、厄介だ、そんなものなくなってしまえばいいと思ったことは?」
「うるさいっ!!
 レオンが声を張り上げた。男はその横顔を神妙に見つめる。
「認めるのですよ、ここがあなたの心と符合した世界であることを。さもなければ、あなたは永遠にこの『わけのわからない』場所をさまようことになります」
 レオンは全身を強張らせて、拳を握りしめた。首を動かして男の顔を見ることができなかった。
「どうしてそんなにこの世界を拒むのですか?」
 そう言って男は空を振り仰いだ。
「悪くない場所だと私は思いますがね。確かに少々寂しいけれど、それならこれから賑やかにしていけばいい。『何もない』ということは、『何かを生み出す』こともできるということなのですから。終わりのない地平線は、秘めたる無限の可能性の証。果てしなくまっさらなカンバスに、あなたの本当の世界を描いていくのですよ。あなたには、それができる」
「……どうやるんだよ」
 レオンが地面を見つめたまま聞いてきた。気がつくと、固く握った拳は緩くなっている。
「どうやったら、そんなことができるんだよ」
「自分に、素直になることです」
 男は、にっこりと微笑んだ。
「簡単でしょう?」
 レオンの右目から、涙がぽろりとこぼれ落ちた。それを皮切りに、幼い子供のように顔をくしゃくしゃに歪めて、しゃくり上げる。
「帰り、たい……」
 泣いてしまうと、もう抑えられない。自分の中にあった感情をそのまま、声に洩らした。
「みんなのところに、帰りたいよ……」
 溢れる涙を隠すことなく、ぼろぼろと零し続ける少年に、男は目を細めた。
「オーケー。それでいいのです。『抜け出したい』ではなく『帰りたい』と思うこと。自分の殻に閉じこもるのではなく、あなたを待っている人のことを思う。そうすれば、扉はおのずと開くでしょう」
 ぱちん、と男が指を鳴らすと、たちまち周りの風景が風に流されるようにして消し飛んだ。とっさにレオンは身構えたが、飛ばされたのは景色だけで、自分にはなにも起きなかった。
 そして、気がつけば二人は狭い部屋の中にいた。ちょうど怪盗の屋敷の一室のような感じだった。
「……ふむ。やはりそう簡単には抜けさせてくれませんか」
 男が少し渋い顔をして言った。
「なんなの、ここ?」
「さあ、なんなんでしょうね」
 レオンは男を睨んだ。
「いや、本当に私は何も知りませんよ。道に迷っただけだと」
「ヒトの心の中に迷いこむ奴がどこにいるんだよ」
「ここに」
「…………」
 レオンは諦めて、その部屋を見回した。
 特にこれといった特徴のない、平凡な部屋だったが、ただひとつ奇妙なのが、正面に木造のドアが三つ並んでいたこと。
「なんで三つも……」
 レオンは壁の手前に立って、それぞれのドアを確かめる。
「あれ、開かないや」
 試しに左端のドアのノブを回してみたが、押しても引いても開かない。扉には覗き窓がついていたので、背伸びしてそこから外をのぞいてみた。
「……なんだ?」
 そこは、どこかの森のような場所だった。木々に囲まれた小さな泉で、一匹の鹿が水を飲んでいる。
「ふむ。立派な虎ですねぇ」
「そう、立派な虎が……ええっ?」
 男はすぐ横のドアの窓から覗いていた。レオンは彼を押しのけて、そこの窓に顔を近づける。
 確かにそこには夫婦らしき虎が二頭、草原の真ん中を歩いている。鹿が見えたドアのすぐ横のはずなのに、そこから見える光景はまったく違っていた。
「どうなってんだ?」
 残る右端のドアからも覗いてみた。雪の残る山を臨む高原を、羊の群がぞろぞろと横切っていた。
「なるほど、羊ですか。謹賀新年といったところでしょうな」
「なんの話だよ」
 男の言葉を受け流して、レオンはノブを回してみた。やはりドアは開かない。
「鍵でもかかってるのかな?」
「そういえば、向こうに鍵らしきものがありましたけど」
 男が反対側の壁を指して言った。
「早く言ってよ」
 レオンは男の横をすり抜けて、向かいの壁へ歩いていった。
 壁の中央あたりに正方形の金属板が填め込まれていて、鍵はそこから突き出たフックに掛かっていた。長細い、真鍮のような光沢を放つ鍵だ。
「これか……ん?」
 鍵をフックから外したとき、ふとそこに何かを見つけて、じっと目を近づけた。
「ここ、なんか書いてあるよ」
「え?」
 よく見ると、金属板の一面に文字が刻みつけてある。鍵に隠れていたときは、ただの模様だと思っていたのだが。
 文字は、ぎりぎり肉眼で読み取れるくらいの大きさで、こう書いてあった。

 真実の獣はここにはいない。
 獲られることを恐れたのか。
 確かに見たはずのあの獣。
 友よ、真実の獣を追うがよい。

「……どういう意味だろ?」
 レオンが聞くと、珍しく男が真面目な顔をして。
「もしかしたら、謎かけなのかもしれませんねぇ」
「謎かけ?」
「私たちをここに陥れた張本人が仕組んだのでしょう。ちゃんと答えの通りに進まないと大変なことになりそうですな」
「陥れた、って、ここはボクの心の中なんじゃないの?」
「ええ、あなたの心の中ですよ。けれど、ここにあなたを放り込んだ者は他にいます。この謎かけも、彼が私たちに課した最後の関門といったところですか」
 男の言うことはいまいち理解しにくかったが、それ以上に「ここに放り込んだ者」のことが気になった。
「そいつのことを、知ってるの?」
 レオンが訊ねると、男は困ったような笑みを浮かべる。
「……まあとにかく、今はここをクリアすることを考えましょう」
 そう言って、三つのドアに向き直った。レオンもそれ以上は聞かなかった。
「扉は三つ、その先にはそれぞれ種類の違う動物がいます。そしてあの文面では『真実の獣を追え』と」
「ドアの向こうにいる動物のどれかが『真実の獣』で、そいつのいる扉が正解だってこと?」
「そういうことなんでしょうな。鹿、虎、羊……はてさて、どれが『真実の獣』なのやら」
 男は腕を組み、首を傾げて三つのドアを眺める。
 レオンはまだ金属板の前で、そこの短い文章と睨み合っていた。
(獣……ここにはいない獣、獲られるのを恐れた獣……どういう意味なんだ?)
 レオンはその場を一歩も離れようとはしない。目の前の四行にわたって綴られた文字に、どことなく違和感を覚えていたのだ。
(……絶対に、ぜったい、みんなのところに帰るんだっ)
 胸に強い想いを秘めながら、レオンは考えた。文章に潜む、ひとつの真実を。