小説ヴァルキリープロファイル

1 アリューゼ

 なにも要らない。なにも求めない。
 だから、すべて捨ててしまいたい。
 なにもかも、忘れてしまいたい。
 骨身に沁みいる冷たい仕打ちも、胸が張り裂けそうな罵詈雑言も、
 一生消えぬ痣を残したあの恐ろしい暴力も。
 痛い。苦しい。辛い。哀しい。
 この世はまるで、ありとあらゆる嘆きを集めた地獄のよう。
 死にたい。
 忘れたい。
 ……逃げたい。
 そうだ。どこかに逃げよう。痛みも苦しみも哀しみもない世界へ。
 そんな場所が、どこにある?
 お空の上に。
 そこへ行けば、ほんとうに楽になれる?
 きっと。
 それなら逝こう、お空の上ヴァルハラに。
 こころを捨てて。なにもかも忘れて。
 わたしはわたしでなくなってしまう。けれど、それでもいい。
 わたしは、どこかへ逃げたいだけなのだから。

 ――――――――翼を、搏かせて。
 ――――空へ――――。


 ――本当に、それでいいのね?
 女の声に、しっかりと頷く。冷たい響きを伴った声だったが、ほのかに誘うような口調のおかげで、抵抗は感じなかった。
 ――苦痛や悲哀の記憶だけでなく、あなたが大切にしていたささやかな幸福も、微かな希望も、全て忘却の渦に呑まれてしまうのよ?
 かまわない。幸せなんて、希望なんて、わたしにはそんなものはなかった。
 もう、苦しみたくないの。
 ――そう。それならいいわ。辛かったでしょう。もう何も心配ないわ。ゆっくりと――。
 光が広がる。暖かい。今まで感じたこともなかった、安らぎ。これで、やっと……。
 ――おやすみなさい。

 重く垂れこめた雲は西から東へ緩やかに流れる。あたかもこの地を覆いつくす不吉そのものであるかのように。
 地平線に沿って、いびつで険しい稜線が大地を囲い込む。麓から眼前までに広がるのは枯れた平原と暗く深い森ばかり。寂しい大地に風の精も愛想をつかしたのか、草の葉ひとつ揺らそうとしない。遙かに臨むケッペルロン山脈の、鋸の歯のような頂がうっすらと雪化粧を帯びているのが、唯一といっていい慰みだった。
 何某なにがしかの遺跡があったとされる小高い丘で、討伐部隊は休息を取っていた。奴らから少し離れた場所で、横倒しになり半ば雑草に埋もれた宮殿の柱――過去の栄華の残骸だ――に腰をかけて、俺は眼下に広がる平原を一望していた。
 ここ最近、アルトリアの周辺域に蛮族が蔓延はびこり、国を出入りする旅人や行商人を襲うことが頻繁に起こっていた。これを憂慮した国王は直ちに討伐部隊を結成し蛮族退治に向かわせる運びとなった。
 だが、蛮族といえども結局は野盗が群れた程度の集団だ。わざわざこんな仰々しい部隊を派遣しなければ鎮圧できないのかと思うと、否が応にもこの国の衰耗を感じずにはいられない。しかも正規のアルトリア兵だけでは心許ないと、傭兵まで雇うとは。
 堕ちたものだ。嘲るように呟いてみると、なぜだか可笑しくなって笑いが込み上げてきた。その言葉が、俺自身に言っているようにも思えたからだ。
 アルトリアはそもそも地味豊かな風土ではない。土壌は痩せこけ、作物はひと月と保たずに枯れてしまう。ならば他国との貿易が盛んであるかというと、そうでもない。四方を山に囲まれ、それ自体が天然の要塞となっているので、国を守る分には有利な地形といえる。しかし、それは同時に他国との交流が困難であることも意味する。結果、この国はどの国にも服属することもなく、その代わりどの国に頼ることもなく、辺境の小国としてつまらぬ歴史を積み重ねてきたのだ。
 それでも、厳しい気候と風土は頑強な男たちを育んだ。アルトリアは小国ではあったが、こと武勇伝に関しては事欠かない。二代前の王の時代には、屈強の強者たちによる圧倒的な兵力は大国ヴィルノアまでも脅かしたという。
 その誉れ高きアルトリア騎士団が――今はどうだ。たかだか盗賊まがいの蛮族を退治するだけでも、こんなに大袈裟な部隊を組まなくてはならない。
 俺はアルトリアの兵士ではない。傭兵だ。金次第で昨日の味方を今日には敵に回すこともある。そんな奴が国の行く末を憂慮したり騎士団の没落を嘆いたりする資格はないのかもしれない。そもそも俺はそんなものに興味はなかったはずだ。
 なのに、どうして俺はそんなことを気にかけているのだ?
「相変わらずですね」
 背後から声がかかって振り返る。そうしなくても誰なのかはわかっていた。この討伐部隊の中で俺に話しかけるような奴は他にはいない。
「ロウファか。何の話だ」
 俺の質問は無視して、金髪の優男はそこ、いいですかと俺の隣を示すと、有無を言わさず腰を下ろした。いかつい甲冑は細身の身体にはあまり似合わない。
「向こうでみんな噂してましたよ。アリューゼは野放しの一匹狼だ、誰にも従わない朴念仁だって」
「ふん」
 俺は苦笑した。俺にこんなことをずけずけと言えるのはこいつくらいのものだ。
「気に食わない命令だってのはわかりますけど、部隊長には表立って逆らわない方がいいですよ。後でどんな処分が待っているやら。それに、ますます外聞が悪くなる」
「興味ねぇな」
 素っ気なく言うと、ロウファはやれやれ、と肩を竦めて視線を枯れた平原に向けた。
 別に逆らったつもりはない。俺はただ、この大部隊で何もない平原を突っ切って進むのは得策ではないと進言したまでだ。いくらこちらが戦力に分があるといっても、蛮族の棲処のある森に着くまでにはなるべく気づかれぬよう動いた方がいい。だが、あの頑迷固陋の老部隊長は聞き入れなかった。そんな必要はない、我々は優位なのだから堂々と戦を仕掛ければ良いと抜かしやがる。
 貴様のその悠長な判断のせいで誰かが命を落としたら、どう責任を取るつもりなのか。
 おそらく誰も責任は負わないのだろう。戦争では、誰かが死ぬのは当然なのだ。上の人間は多くの屍を積み上げることで自らを誇示する。まるで死神だ。
 死神――。俺も戦場においてはこう呼ばれることがあった。目の前の敵は必ず仕留める。容赦なく剣を振るい、葬り去る。その姿を形容してのことだろう。だが――。
 そこまで考えて億劫になったので、俺は別の話題を振った。
「親父さんの具合はどうだ?」
「もうすっかり良くなってますよ。もともと丈夫なのが取り柄の人ですから。今じゃ朝の稽古にも毎日顔を出してます。年寄りの冷や水だからもう少し休んでろって言ってるんですけどね」
 ロウファに質問をするとその数倍の言葉が返ってくる。煩わしく思うこともあるが、無口な俺とはそのくらいの方が反りが合うのかもしれない。
「アリューゼさんこそ、ロイさんを家に置いて遠征になんて出かけて、大丈夫なんですか?」
「あいつのことなら心配はない。俺なんかよりずっとしっかりしているさ」
 ロイは俺の唯一の弟だ。孤児であった俺にとってはただひとりの肉親でもある。ロウファとは歳も近いせいか、よく打ち解けている。
「そうは言いますけどね。ロイさんひとりではいろいろと不便なこともあるでしょうに。ロイさんはいつも心配してましたよ。危ない仕事も二つ返事で引き受けてしまう親不孝……じゃないな、弟不孝な兄のことを。まったく。アリューゼさんが気を回されてどうするんですか。これじゃあまるきり立場が逆でしょう」
 ロウファの言っていることは尤もだ。だが、俺はどこか心の奥底でそれを認められないでもいた。何故だ?
 ロイは生まれつき体が弱い。幼い頃に大病を患い、その後遺症で今は立って歩くことも儘ならない。そのせいで奴はいつも窓際の椅子に座って、つまらぬ風景画などを描いている。俺はそんな弟の面倒を見なければならないのだろう。しかし、実際はロウファの言った通り――逆だ。
 俺はロイによって、辛うじて自らを現実に繋ぎとめている。人間らしい会話ともささやかな生活ともかけ離れた、血生臭い戦場で多くを過ごす俺にとっては、あいつの存在こそが現実なのだ。あの病弱な弟がいなければ、俺はまさしく死神となって殺戮のみを生き甲斐としていたかもしれない。
 なのに、それに対する俺の仕打ちはどうだ? 俺はあいつに何をしてやることができた?
 ――くそ。
 煩わしい。何もかもが。
 全て消えてしまえばいい。俺の中の何かが呟いた。
 そうなれば、俺は楽になれるのだろうか。
 俺は――やはり、死神なのだろうか。

 ロウファと出会ったのは、俺がまだ駆け出しの傭兵だった頃……そう、死神などと呼ばれる以前のことだった。
「息子を鍛えてくれ」
 養い親であり、俺の師匠でもあった親父さん――アルトリア騎士団長は、そう言って俺にロウファを紹介した。
 いかにも線の細い、気の弱そうな少年だった。親父さんの話では十六になったばかりというが、実際よりも二、三歳は幼く見える。貌は青白く、眸はおどおどと俺と隣の親父さんを交互に見つめている。
「見ればわかると思うが、こいつはこれまで騎士としての修練を積んでこなかった。それは……まあ、私が甘やかしていたせいもあったのだろうが、生来からあまり武芸を嗜むにはそぐわぬ性格でな。身体を動かすよりも本を読んでいる方を好むような奴だ。平和な時代ならばそれで構わないだろうが、情勢の安定しない今の時代を生き抜くには、やはり戦の技術は必要だ。こいつが一人前の騎士になれるよう、手を貸してくれないか」
 父親が自分のことを話している間も、息子は下を向いて視線を床に落としたままだった。
「なんで俺なんだ? 自分の息子だろう。親父さんが鍛えればいいじゃないか」
「私では……やはり、お互いやりにくい。こいつに必要なのは、私以外の信頼できる師なのだ」
 俺が師匠だって? あまりにも似つかわしくない言葉に内心は笑っていたが、これまで俺たちに施してくれた恩義の手前、結局断り切れずに引き受ける羽目になってしまった。
 親父さんは頼んだぞ、と俺に言ってから、さっさと稽古場を出ていった。後に残った俺とロウファは、向かい合ったまましばらく無意味に立ちつくしていた。
「お前、本当に騎士になりたいのか?」
 低い声で、俺が訊ねた。
「……わかりません。けど、父さんはそれを望んでいる……」
 ようやく口をきいてくれたことには安堵したが、その言葉は気概に乏しかった。
「親父さんは関係ない。お前はどうだってんだ?」
「…………」
 すぐに口を閉ざすロウファに、俺は嘆息した。
 多分、こいつはずっと本でも読んで安穏に暮らしていきたかったのだろう。貴族の身分ならばそれも可能なのかもしれない。
 しかし、親父さんはそれを許さなかった。息子の身を案じての親心なのか、あるいは騎士団長としての名聞を気にしてのことなのかは解らないが、とにかく親父さんは息子を修羅の道へと進ませようとしている。
 俺は、どうするべきなのだろうか。親父さんの望む通り、こいつを騎士に仕立て上げて血生臭い戦場へと送り込めばいいのか。それとも、こいつは戦には向かないと進言してそれを阻止した方がいいのか。
「強くなるのに理由はいらねぇ。誰だって鍛えれば強くなれる」
 そのとき、俺に言えたのはそのことだけだった。
「だがな、生き残るには理由が必要だ。死にたくなければ、それを見つけろ」
 自分の人生は、自分自身が決めるものだ。だが、こいつはこれまで自分の意志というものを持たずに生きてきた。
 まずは、それを見つけることだ。
 生き残るための「理由」と「意志」を――。

 薄暗い森の静寂は、討伐部隊の進撃により一気に破られた。
 森へ入るとすぐに四方から蛮族どもが現れ、見る間に部隊は取り囲まれてしまった。奴らは手に手に粗末な槍を持ち、ざんばら髪を振り乱して茂みの向こうから、幹の上から俺たちを牽制する。頬や剥きだしの腕には奇怪な模様を描いた刺青が彫ってあった。
 いきなりの奇襲に討伐部隊の間に動揺が走る。先頭を進んでいた部隊長が慌てて指示を出そうと口を開きかけたが、声を出す前にそれは遮られた。
 鉄のやじりをつけた木製の矢は、彼の喉仏を的確に射抜いていた。血を吐き、喉からも鮮血を迸らせながら、あえなく馬から落ちる。
 指揮官を失った部隊はさらに混乱の様相を呈する。幹の上から次々と放たれる矢の雨に兵士たちはわらわらと逃げ惑う。戦おうとするもの、逃げようとするもの、何やら指示を飛ばすもの、それぞれが勝手に動き回り、互いに邪魔しあう。先程まであれだけ統制の取れていた集団は、今や見るも無惨に引き裂かれ、分断されてしまった。
 人間とは、かくも愚かで醜悪なものなのか。もはや常軌を逸したように逃げ回る兵士達に俺は嫌悪すら感じた。数を頼みにして用心を怠った部隊長。指揮官を失った途端に取り乱すアルトリアの兵士達。そこにかつての勇猛果敢なアルトリア騎士団の面影は、微塵も残っていなかった。
 この戦は負けだ。そう思ったとき、ひときわ大きな声を間近で聞いた。
「陣形を乱すな! アンセル、みんなを中心に集めるんだ。ラルフは怪我人を一箇所に集めろ。エルムンド、聞こえるか! お前は向こうの兵士を呼び戻せ。いいか、互いに背を向け合って死角をカバーするんだ。敵はそれほど多くない。矢を凌げばなんとかなる」
 森全体に響くほどの大声で命令を飛ばしているのは、ロウファだった。俺は今まで、こいつがこれほど声を張り上げているのを聞いたことがなかった。そもそも他人に命令することさえ滅多にないのだ。騎士団長の息子で、騎士団の中でもそれなりの地位に就いているにも関わらず、奴は自分から直接命令を下すことを殊の外嫌っていた。
 ――僕はそんなに偉い人間ではありませんよ。
 ――そう見えるなら、それは父さんがいるからです。
 はにかんだ笑顔でそう言った奴の顔が、矢継ぎ早に部下に指示を飛ばしている必死の形相と重なる。果たしてどちらが本当のロウファなのだろうか? いや、そうではない。どちらもロウファであることには変わりないのだ。身に余る父親の威光を浴びて困惑しているのは、奴の一つの仮面ペルソナに過ぎなかったのだろう。
「アリューゼさん」
 突然ロウファに呼ばれて、俺は思考を中断して我に返った。そもそも今は戦闘の最中だ。呑気に考え事をしている場合ではない。
「弓兵を、どうにかできませんか? あいにく僕らは対抗できる飛び道具を持ってないので」
「わかった」
 簡単に返事をして、俺は弓兵が登っている樹の根元に歩み寄った。背中の大剣を抜き、幹を睨みつける。弓兵が至近距離から放った矢は幅広の剣を盾がわりにして防いだ。
 気合いを発して剣を横一文字に薙ぐ。刃だけでも身の丈ほどもある大剣は、いとも容易く目の前の幹を切り裂いた。ぐらり、と樹が傾き、盛大に葉擦れの音を立てながら向こう側に倒れていく。弓兵は落ちまいと必死に幹にしがみついていたが、樹が地面を揺らしながら横たわると運悪くそれの下敷きになった。
 俺が次の弓兵に狙いを定めてそこへ向かおうとしたとき、横の茂みから蛮族の大男が槍を振りかざして飛び出してきた。すかさず俺は地面に降ろしていた剣を片手一本で振り上げた。刃は受け止めようとした槍を断ち切り、相手の脇腹から胸板、それに肩口までを一気に抉った。男は驚愕の表情のまま、周囲に血飛沫を撒き散らして倒れる。返り血が俺の青銅の鎧をどす黒く染め上げる。
 それを目の当たりにした他の蛮族共は怯んだのか、威勢よく上げていた叫声をやめて、攻撃の手を緩めた。弓兵も茫然と俺を見つめている。
「今だっ!」
 ロウファがこの隙を見逃す筈はなかった。中央に固まっていたアルトリア兵は二手に分かれて、それぞれ両脇にいた蛮族の集団に突撃していった。虚をつかれた相手はろくに抵抗もできぬまま次々と駆逐されていく。俺は相変わらず樹の上の弓兵を手当たり次第に叩き落とした。
 そうして、意外なほど呆気なく戦は終わった。元々こちらが優位な戦いではあったのだ。奇襲を仕掛けられて無駄に命を落とした者が出たことは失態ではあったが、部隊としては勝利を収めることでどうにか面目を保ったといったところか。しかし、それにしても、ロウファの咄嗟の機転と判断がなければ、壊滅は必死だったろう。
 そのロウファは、怪我を負った兵士の状態を確認していた。兵士達はもはやすっかり奴を信頼しきって、周囲に集まり指示を仰いでいる。騎士団長の息子という箔に媚びるのではなく、ロウファという優れた統率者を奴らが認めた証だ。
 そのとき俺はようやく悟った。ロウファは既に生きる「理由」と「意志」を見出していたのだ。いつ何時も自分につきまとう亡霊のような父親の影――それを無闇に払い除けるのではなく、自分の存在証明アイデンティティに取り込むことで巧い具合にバランスを取っていたのだ。権威ある騎士団長の息子であることを引き受けながら、それとは違う自分を着実に育て上げていく。容易なことではないだろう。大抵は父親の幻影に押し潰され、最終的にはそれに屈服してしまうか、或いはそれからの脱却を計ろうとする。しかし奴はあえて共存の道を選択することで、生きる理由――何物にも左右されない「自己」を確立できたのだ。
 この俺を道標にして、こいつは、正しい道を違わずに選んだ。
 道を選ぶことを放棄した、この俺を。
 暫くして、森の奥から悲鳴が上がった。茂みを掻き分けて、ひとりの兵士がロウファの許に駆け寄る。
「ロウファ殿。奥に奇怪な獣が」
「なんだって?」
「はっ。誠に凶悪な魔物でして。蛮族を追って森の奥に入りこんだ兵士数名が犠牲に」
「くそっ」
 ロウファは地面に降ろしていた槍を肩に担ぎ直して森の奥へと駆け出そうとしたが、そこで自分の立場を思い出したのか、一度振り返る。
「お前たちはそこにいろ! 僕がいない間の指示はアンセルに任せる。頼んだぞ、アンセル」
「承知しました」
 アンセルと呼ばれた若い騎士が頷いた。
「俺も行くぜ」
 俺が言うと、ロウファは僅かに眸を緩ませて微笑んだ。
「アリューゼさん……ええ、お願いします」
 ロウファが駆け出し、俺もその後を追った。

 そこには、想像よりも陰惨な光景が広がっていた。
 樹の幹に染みついた血痕。千切れて無雑作に打ち捨てられた人間の腕と頭。強固なはずの胸当てをあっさり突き破り腸を抉られた、首無しの骸。地面には夥しい血と臓物と兵士であったはずの部分が散乱している。
「ぐ……」
 ロウファが口に手を当てて青ざめた。必死に堪えているようだ。
 おぞましい光景を目にすることにより、俺の感覚は一層鋭敏になった。長年戦場に赴いた経験のある者だけが得ることのできる、一種の勘のようなものだ。おかげでいち早くそいつの気配を察知することができた。
「上だ! 油断するな、ロウファ」
 敵は悠然と頭上から舞い降りてきた。人間の頭に獅子の躯を持ったそれは、鷲のような翼を搏かせて俺たちを牽制する。眸は狂気の色にギラギラ輝き、口許からは鋭い牙が覗いている。そして口の周りは、忌まわしき紅に染まっていた。
 ――人間を喰らっていたのか。俺の中に得体の知れない怒りが沸々と湧き起こった。
「こいつは……合成獣キマイラ?」
 ロウファがこの世のものとは思えない生き物を見据えて、言った。
「キマイラ?」
「ええ。屍霊術師ネクロマンサーがいくつかの動物の一部分を合成することによって、人工的に生み出した獣です。でも、どうしてこの森に」
「はっ。厄介なものを創ってくれるぜ」
 これだから魔術師という奴はいけ好かない。心の中で悪態を吐きながら、俺は剣を抜いた。
 ロウファが巨大な獣の腹を狙って槍を繰り出した。合成獣は翼を翻して揶揄するように躍り上がると、そこから急転回してロウファに襲いかかった。
「うわあっ!」
 毛むくじゃらの太い前肢が、前に突き出したロウファの槍を突き飛ばし、自身も転がり込むように倒れた。鋼鉄の胸当てを突き破って腸を抉るような奴だ。あの前肢の一撃をまともに食らえば致命傷は必至だろう。
 獣は次に俺に狙いを定めた。振り下ろされた腕は背後に跳躍して躱す。それでも獣は執拗に俺を狙って、頭上から横から背後から攻撃を繰り返す。俺は体勢を立て直す間もなく翻弄されるばかりだった。苦し紛れに振るった剣はあっさりと避けられた。
 こいつの速さ……いや、翼だ。あの翼を封じない限り反撃に転じるのは無理だ。しかし、この圧倒的に不利な展開から、どうすれば奴の翼に一撃を与えることができるだろうか。
 獣が一旦俺から離れて、再度上空に昇っていく。すると、敵を挟んで丁度俺の反対側に、ロウファが立っているのが見えた。いつの間にか相手の背後に回りこんでいたのだ。ロウファは槍を大きく振りかぶると、頭上の獣に向かって勢いよく投げつけた。槍は相手に気づかれることなく右の翼を根元から切り裂いた。ロウファは俺に目配せをしている。俺も視線で諒解してすぐに落下する獣の許に駆け寄った。
 翼を斬られた獣が落ちてくる。俺は剣を構える。驚愕の色に瞠然としていた獣の眸が、俺の姿を見た途端に正気を取り戻した。片方の翼だけで必至に躯を安定させ、凄まじい咆哮を上げながら俺に襲いかかる。俺はその場に踏み止まり、剣を繰り出す――。
 手応えは完璧だった。刃は、敵の心臓を的確に射抜いていた。獣は大量の血を吐いて、俺に覆いかぶさるようにして絶命する。
 俺は胸板を貫いた剣を抜くと、ぐったりと寄りかかる巨体を突き飛ばした。無雑作に打ち捨てられ横たわった獣の骸からはとめどなく血が流れ出て、地面をしとどに濡らす。
「危ないところでしたね」
 槍を拾いに行っていたロウファが戻ってきて、俺に声をかけた。
「お前に助けられたな」
 礼のつもりで言うと、ロウファは子供のようにあどけない笑顔を返した。
「どういたしまして。ああ良かった。ずっと恐い顔してるから『余計な手出しをするな』って怒られるんじゃないかと思いましたよ」
「悪かったな」
 まだ屈託なく笑っているロウファに、俺は背を向けた。
 こいつはもう、俺が手を貸さずとも正しい道を進んでいけるだろう。
 だが俺は、俺自身は、どうだろうか。
 隘路に迷い込んではいないだろうか。
 いや、それ以前に、俺に道は示されているのだろうか――。

 アルトリアの中心を突き抜ける大通りは、いつにも増して陰気に見えた。
 俺が幼い頃にはここも大勢の人々で賑わっていた。露店が建ち並び、さまざまな国の珍しい商品が所狭しと並べられ、アルトリアの人間と異国の旅人とが、豪奢な服を着た貴族と平民とが一緒くたになって通りを埋めつくしていた。俺は露店で見たこともない品物を見つけては飽きもせずそれに見入ったものだった。
 あの時代は、平和だったのだ。子供だった俺はそれが長く続かないなどとは、夢にも思わなかった。戦乱の世における一時の休息。それがあの時代の総てだった。
 再び戦乱の渦に巻き込まれた(そう、巻き込まれたのだ。この国はいつも外部からの抑圧を受けるばかりで、自ら動くことはない)アルトリアは、急激に寂れていった。あれほど街を賑わせていた露店はすっかり鳴りを潜め、行商人も旅人もほとんど見かけることはなくなった。おそらくラッセンかジェラベルンあたりに流れていったのだろう。
 道すがらすれ違う奴らの顔には精彩がなく、日々の生活とまるで進展しない世情に倦み疲れているように見えた。だが、他の人間からすれば俺の姿もそのように映ったのかもしれない。俺も、アルトリアの人間であることには変わりがないのだ。この国で暮らしている限り、嫌でもこの空気は肌に染みついてくる。
 倭国料理屋のある十字路を左に折れ、小径に入る。そこから数分歩いたところで見えてくる縹色の屋根の建物が、俺の家だ。さほど大きくはないが、弟と二人で住むにはこれで充分だった。おまけに俺が傭兵になってからは家を空けることが多くなったので、今では殆ど弟が独占しているようなものだ。狭い家の方が足の不自由な奴には好都合ということもある。
「おかえり、兄さん」
 扉を開けて中に入ると、いつものように居間の方からロイが声をかけてきた。俺は返事をせずに居間に上がり込む。
 ロイは窓際に画架を立て、自分は丸木の椅子に座って絵を描いていた。左手にパレット、右手には絵筆を握ったまま、無愛想に見つめ返しているであろう俺の顔を見る。
「お疲れさま。どうだった、久々の遠征は?」
「なんてことはねぇ。いつものように人が大勢死んだだけだ」
 俺はそう答えると、弟の横に立ってカンバスを見た。そこには窓からの風景が緻密に描かれていた。ご丁寧に窓枠まで。
「まだこんなものを描いていたのか」
 俺が言うと、ロイは僅かに肩を竦ませる。
「絵は『こんなもの』じゃないよ」
「ふん」
 俺はカンバスから目を逸らして、嘲るように笑った。
「くだらねぇな」
 その言葉に、ロイは絶句したようだった。腑抜けた表情で俺を眺めている。景色を眺めていた方がまだ活力に溢れていたと思えるくらい。
 俺としても、弟のすることに吝嗇けちをつけたのは初めてのことだった。遠征帰りで多少なりとも気が立っていたのかもしれない。もしくは、あのことが影響しているのか――。
 それに、俺はどうにもこの絵が気に入らなかった。何か引っかかるところがあるのだ。……そう、窓枠だ。どうしてこいつは風景画につまらぬ窓枠などを描いたのだろう。素直に外の景色だけを描けばいいものを、何故こんな余計なものを付け足してしまったのか。ひどく馬鹿げた話だが、俺はこの絵に窓枠があることにどうしても納得がいかなかった。
「つまらないと感じるのは、兄さんが満たされているからだよ」
 ロイは静かに、諭すように言った。
「なんだって?」
「兄さんが絵をどう思っているのかは知らないけど……僕なんて、体がこんなだから、どこか遠くに行くこともできない。ずっと家にこもりきりだと、どうしようもなく空虚になるときがある。そんなときに絵を描くとね、満たされたような気分になるんだ。ただの気休めなのかもしれないけど、でも、僕はこうしているときがいちばん有意義に思えるんだ」
 俺だって理解できない訳ではない。俺が存在理由を戦場に見出そうとしているのと同じように、こいつは消え入りそうな自分の存在を絵に託しているのだろう。
 だが、俺はどうしても赦せなかった。理由はどうあれ、そうやって無責任に物を生み出していくことが赦せなかった。物を生み出すことによって存在理由を確認する。では、その生み出された物の存在理由はどうなる?
「形の残る物なんざ、興味ねぇな」
 とりとめのない思考を頭からもぎ離して、俺は無理矢理そう言い放った。そして、まだ何か言いたそうなロイに背中を向けて、机の上に金貨の袋と銅像を置く。金貨は無論蛮族退治の報奨金だ。そして銅像は。
「その像は?」
 ロイが振り返りざまに聞いてきた。
「お偉いさんがくれたのさ。戦争で最も人を殺した証なんだと」
 恐らく、ロイが訊きたかったのはそういうことではなかったのだろう。
 国王自身を模したその像は――頭の部分が欠けていたのだ。

 話は、数刻前に遡る。

 遠征帰りの俺たちを、国王は玉座の間に通して出迎えた。玉座に腰かけた国王の横には、巷で噂のお転婆王女、ジェラードの姿もあった。
 王女の話はロウファや親父さんから聞いていたのだが、実際に見るのはこれが初めてだった。取り澄ましたように正面を見据える眸。きかん気の強そうにツンと尖らせた唇。全体としての容姿はまだ十四歳という若さとあどけなさを滲ませていたが、要所においてはその我儘ぶりを窺うこともできた。
「この度はそなたらの働きによって蛮族を退けることができた。心より礼を言うぞ」
 国王ユクスキュル五世は、死んだ魚のような目で一同を見渡してから、言った。兵士達は一様に片膝を突き、頭を垂れて畏まっている。
「部隊長リーベストンの死にも怯まず、よくぞ勝利を収めてくれた。アルトリアもこれで安泰じゃろう」
 呑気なことだ。今や大国ヴィルノアが喉元に刃を突きつけているも同然の情勢だというのに。この国王は周辺域の不穏分子を一掃できただけで安心している。
 根本的に、器が小さいのだ。一つの国を治めるのに相応しい人間ではない。これでは遅かれアルトリアは潰れてしまう。
「殊に、アリューゼよ」
 突然名前を呼ばれて、俺は顔を上げて直に国王を見た。
「そなたの活躍は副隊長ロウファより聞き及んでおるぞ。誠に天晴れじゃ」
「光栄です」
 俺は口ばかりでそう返した。心の内で苦笑しながら。ロウファは好意のつもりで進言したのだろうが、俺にしてみればいい迷惑だ。
「そなたには特別に、報奨金と銅像を授けよう。近う寄れ」
 促されて、俺は立ち上がると国王の前に歩み寄った。
 国王は隣の官吏から金貨の袋と銅像を受け取ると、それを大儀そうに俺の前に差しだした。奴らにしても、傭兵の俺ごときにこんな扱いをするのは不本意なのだろう。騎士団長の息子であるロウファが言い出さなければ、表彰など行うこともなかったに違いない。
 俺は腕を伸ばしてなるべく謙虚に受け取ろうとしたが、その銅像の形を見た途端、思わず唖然としてしまった。
 それは、国王の姿そのままの胸像だったのだ。顎髭を生やし、どこを見ているのかわからない間の抜けた面が目の前に二つ並んでいる様は、もはや滑稽としか形容できない光景だった。こいつはこんなものを造らせて俺に手渡そうというのか。厚顔無恥も甚だしい。
 どうにか体裁を取り繕って金貨と銅像は受け取ったが、自分が抱えているそれを再度見ようという気は起きなかった。
「お心遣い、感謝します」
 とりあえずそれだけ言うのが精一杯だった。言った後で吐き気まで覚えた。
「うむ。これからもアルトリアのために尽くすがよい」
 国王のその言葉を皮切りに、兵士達の間にアルトリア万歳の大合唱が始まった。俺はその中で心底うんざりしていた。
 アルトリアのために、だと? そんなのは金で雇われた傭兵に対して使う言葉ではない。それはつまり、自分の兵士は信用ないと言っているのと同じようなものではないか。騎士団の弱体化は貴様の責任だろう。それを棚に上げて、今度は傭兵に頼ろうという腹づもりなのか。
 ならば、この表彰も、俺をアルトリアに繋ぎとめておく為の口実なのだな。銅像は言うなれば鎖だ。枷だ。これを持っている限り俺はアルトリアのために戦わなければならない。そう思い込ませるつもりなのだ。
 俺は視線を落として銅像を見た。そして、くつくつと笑いが込み上げてきた。最後には堪えきれずに声を上げて笑った。
「ははは……哀しいな、王よ」
 その声に玉座の間は静まりかえった。国王も王女も兵士達も目を丸くして俺を見ている。
「残念だが、こんな茶番に乗せられるほど俺は莫迦じゃない。取り入ろうとしても無駄だ」
「な、なにを……」
 狼狽する国王を前にして、俺は抱えていた銅像を片手で掲げた。
「王よ。あんたはこの国のことがよく解ってないようだな。ヴィルノアの影に怯え、いつ攻め込まれるかもしれないと不安な日々を送っている民の声も、どうやらあんたには届かないらしい。このままではアルトリアはめでたくあんたと心中だ。悪いがそんな国のために尽くそうとは思えねぇな」
 俺は背中の剣の柄に手をかけた。国王の顔が強張る。俺は一気にそれを抜き放って刃で銅像の頭を叩き壊した。銅の破片が周囲に飛び散り、国王は玉座に潜り込むように頭を抱えて蹲る。掲げたままの銅像は、頭の部分が無様に吹っ飛んでいた。いや、むしろ醜い頭が無くなったことで、像としてあるべき姿になったような気さえした。
「これで俺を繋ぎとめようとした鎖はなくなった」
 最後に捨て台詞を残そうと口を開きかけたが、国王の横で顔を真っ赤にして拳を震わせている王女の姿を見ると、それ以上言うのは憚られた。この娘にはえもいわれぬ気魄が漲っていたのだ。もしかしたら父親よりも肝は据わっているのかもしれない。
 俺はそのまま踵を返して、玉座の間を立ち去ろうとする。
「ぶっ、無礼者っ!」
 思い出したように王女が急に罵声を浴びせだした。
「父上の心遣いに対する非礼、万死に値するぞ!」
 俺は振り向きも立ち止まりもせず、茫然と見送る兵士達の間を悠々と歩いていく。
「ええい。誰かそやつを引っ捕らえろ! 何をしておる! ええい面倒じゃ。剣を貸せ。妾が直々に引導を渡してくれるわ!」
「ひ、姫っ。おやめください。そんなものを振り回しては危のうございます」
「ええい放せ! 妾は我慢ならぬ。その無礼な男に一太刀浴びせんことには気がすまぬっ!」
 王女の所為で俄に騒々しくなった玉座の間を、俺は後にした。
 扉を閉めると、王女の怒鳴り声もそれを諫める士官の声もかき消えた。軽く嘆息して正面を向くと、廊下の先で、闇に紛れるようにして誰かが立っているのに気づいた。
「派手にやらかしたようだな、アリューゼよ」
 それは国王の側近ロンベルトだった。数年前から国王に取り入った新参者であるにも関わらず、王の絶大な信頼を得て、今では国政の重要な部分を任されるに至っているアルトリアの重鎮。常日頃から穏やかな表情を崩さないが、その実は頭の切れる、油断のならない男だ。
「……なるほどな。この表彰は貴様の入れ知恵だったか」
 確証はなかったが、鎌をかける意味で俺はそう言った。
「ふふ。何の話だ?」
 見透かしたように、ロンベルトは不敵な笑みを浮かべてはぐらかした。やはりこの男の腹の内を探るのは容易ではない。
「気をつけろ。下手な勘繰りは自らの身を滅ぼすぞ」
 そう言い残すと、奴は廊下を歩いてその場を立ち去った。その背中を見ながら、俺は親父さんが言っていたことを思い出した。
 ――ロンベルトはどこか信用ならない。奴の言動には注意した方がいい。
 恐らく、親父さんも感じたのだろう。奴の、あの不穏な空気を。

 珍客は、翌日の昼にやってきた。
「仕事を依頼したいんです」
「……マジか?」
 こうして俺の家を訪ねてきての依頼は珍しくない。だが、その日の客はどう見ても俺に仕事を頼むような人間とは思えなかった。
 依頼人は、まだ年端もいかない娘だった。青いリボンのついた帽子を深々とかぶり、やけに似合わぬ丸眼鏡をかけている。小綺麗な身なりや品のある立ち居振る舞いからすると、貴族の令嬢といったところだろうか。
 何の苦労も世情も知らなさそうな娘が、この俺にどんな依頼をしようというのか。突然のことに、俺はどう対処していいものか困惑してしまった。
 或いは、これは俺をからかうための悪戯かもしれない。だとしても、それにむざむざ引っかかるような俺ではないが。
 どう返答したらいいものか迷っていると、娘が別の場所で内密に話をしたいと言い出した。俺は窮してロイを見た。
「暇なんでしょ。相手してあげたら?」
 弟は何でもないようにそう言った。この状況を面白がっているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
 結局俺は断り切れずに家を出た。普段とは違う交渉相手に俺はどうにも調子が狂っていた。
「お嬢さん、名前は?」
 大通りへと続く小径を歩きながら、俺は訊ねた。
「え、な、名前ですか?」
 娘は驚いたように俺を見て、口籠もった。
「名前は……ええと、そ、そう。アンジェラ、アンジェラです」
 まるで今思いついたことのように自分の名を告げる。実際その通りなのだろう。
 偽名さえもろくに使いこなせない娘が、俺に仕事を依頼するはずもない。やはり何か裏があるのだ。
「で、アンジェラお嬢さんの依頼とやらは何なんだ?」
 俺は幾分口調を崩して言った。もちろん相手を油断させるためだ。
「とりあえず、どこか店に入りませんか? 道端では落ち着いて話もできないでしょう」
 名前を言うときはあれほど動揺していたのに、その言葉は不思議と滑らかに発せられた。逆に俺はそのことに警戒感を抱く。
「店っつってもな……」
「ああ。あそこがいい。あの店に入りましょう」
 そう言ってアンジェラが指差したのは、倭国料理の店だった。アルトリアの中でもとりわけ異彩を放つ建物。俺の家から割に近い店だったが、その奇抜さ故に入ったことはなかった。
 倭国の料理がどんなものなのかは俺も詳しくは知らない。ここいらでは食わないような物も食うようなことは聞いていたが、それにしても同じ人間が食っている物なのだから、食えないことはないだろう。
 俺は軽い気持ちで承諾して、店に入った。そして、別の意味で後悔する羽目になる。

 メニューを見せて貰ったが、さっぱり解らなかった。前知識がないだけに、そこに書いてある名称と料理のイメージとがまったく結びつかないのだ。俺は諦めてメニューをアンジェラに渡し、勝手に決めてくれと言った。
「え~と。これとこれとこれと……」
 すると彼女は、手当たり次第にメニューの品目を読み上げて、ウェイトレスに注文しだした。
「これとこれと、それから……」
「おいっ! それ全部食うつもりか?」
 俺が堪りかねて口を挟むと、アンジェラは何でもないように俺を見て。
「全部? 食べきれなかったら残せばいいではないか」
 そうして、結局メニューに載っていた大半の料理を注文してしまった。
 ……まさか、ここの勘定も俺が払うのではないだろうな。嫌な予感がしたが、その場は黙っておいた。
「それじゃあ、早速依頼の内容を聞かせてくれ」
 俺が切り出そうとするのを、アンジェラはまあまあと制して。
「そう焦らずとも時間はあります。料理が来てからでも遅くはないでしょう」
 そう言う彼女の表情は妙な期待感に満ちていた。まるでこれから来る未知の料理を待ち侘びているように。
 俺はそこで考え直した。もしかしたらこれは策略などではないのかもしれない。俺は単に、勝手に家を飛び出した深窓の令嬢の我儘に付き合わされているだけなのではないのか。
 しかし、その相手がどうして俺なのか。この娘と俺はまったく面識がないはずだ。
 ――面識が、ない?
 何かが俺の脳裏に引っかかっている。この娘を、俺は知っている? どこかで会っているのか?
 自分の頭の中だけであれこれ詮索しているうちに、最初の料理が運ばれてきた。待ちかねていたはずのアンジェラだったが、その皿を見た途端、さっと顔色が変わる。
「な……なんじゃこれは? スープなのか……いやしかし、これは、泥水ではないか!」
「これは倭国料理の一つで、味噌汁といいます」
 気色ばむアンジェラに、給仕の女は淡々と答えた。そのうちに次の料理が運ばれてきて、アンジェラはまたも仰天する。
「こっ、この魚は生ではないか! ひっ、いま頭が動いたぞ!」
「鯛の活け作りでございます」
 料理は次から次へと運ばれてきて、テーブルを埋めつくしていく。しまいには一つのテーブルでは足りなくなって、隣のテーブルを横につけてそこに皿を置いた。程なくしてそのテーブルも満杯になってしまった。
 アンジェラは相変わらず物凄い剣幕で給仕に怒鳴り散らしている。だが……この状況は、どこかで見たような気がする。やはりアンジェラに関しては、何か重大なことを忘れている。
「何だこのねばねばした物は!?
「納豆でございます」
「これは怪物の足ではないか! ここではクラーケンの子を食わせるのか!?
「蛸の酢の物にございます」
「このサラダはどうしたことだ! 鄙びておるではないか!」
「浅漬けでございます」
 俺は深々と溜息をついた。確かに倭国の料理はこの国の食い物に比べれば奇妙な物ばかりだ。だが、それ以上に世界は広いのだ。遠く海を隔てた倭国の人間は、この料理を何の抵抗もなく食している。それは事実なのだろうし、何ら不思議なことではない。深窓に生まれ、親の庇護のもと何不自由なく育った娘にそういう認識を持てと言う方が無理なのだろう。この手の娘にとっては、自分のいる世界が総てなのだ。
「……妾はこんな屈辱を受けたのは初めてじゃ」
 アンジェラは拳を震わせて給仕を睨みつけている。……妾?
「ええい。喉が渇いた!」
 そう言ってテーブルのグラスを手に取ると、一気にそれを飲み干した。そして、すぐに吐き出す。それは酒だったのだ。
「げほっ、げほっ……なんだこの水は!? さては一服盛って殺そうという魂胆か! こんなことをして……どうなるか……」
 アンジェラの顔がみるみる紅潮していく。一気に酒を呷った所為で、急激に酔いが回ったのだ。
「万死に、値するぞぉっ!」
 そう叫ぶと、全身の力が抜け落ちたようにばたりと倒れた。
 万死に値する?
 妾……万死に値する……アンジェラ……アン、ジェラ?
 その科白で、俺はようやく彼女の正体に感づいた。そうだ。こいつはつい昨日も、俺に向かって同じ言葉を投げかけたではないか。
「お前、まさか!」
 机を叩いて叫んでみたものの、当の本人は床に突っ伏したまま動かない。どうやら眠ってしまったようだ。
 俺は彼女を背負って店を出た。当然ながら、勘定は俺がすべて払って。

「一体どういうことなの?」
 アンジェラ――ジェラード王女を俺のベッドに寝かしつけると、背後でそれを見ていたロイが訊いた。
「さあな。変装してまで俺に仕事を依頼する理由なんて、わからねぇよ」
 ロイは首を捻りながら居間へと引き揚げていった。
 俺は椅子に腰掛けて、王女の顔を眺めながら先程までのことを思い起こした。
 ロイには理由など解らないと言ったが、実は思い当たる節があった。
 ――父親を侮辱した仕返し、か。
 俺は娘の前で父をこき下ろしたのだ。誇り高きアルトリア王の娘として、黙っていられる訳がない。あの時も茫然自失の父をよそに一人激高していた。
 ――どうにかあの無礼な男に一泡吹かせてやれぬものか。娘は密かに画策し、そして実行に移した。しかしそれは失敗した。今となってはどのような作戦だったのかは知る由もない。どちらにせよ、十四の娘が考えつくようなことだ。うまく事が運んだとしても成功したとは思い難い。
 それでも、こいつにとっては真剣そのものだったのだろう。慣れぬ変装までして城を抜け出したのだ。途中、倭国料理に興味を引かれて脱線してしまったものの、王女にとっては並大抵の決意ではなかったに違いない。
 国政を顧みない愚昧なる王。ロンベルトやその他の重鎮どもの傀儡ともいうべき王。多くの者達に恨まれ、蔑まれるような人間であったとしても、娘にしてみれば、たった一人の父なのだ。
 ……俺は、間違っていたのだろうか。目の前であんなことを言うべきではなかったのだろうか。
 いや、どちらが正しいという問題ではない。立場が違えば価値観も変わる。そこに自分がいて、他人がいる限り、相容れない部分は必ず存在するのだ。
 だが。
「う……ん?」
 ジェラードが寝惚けた眼を擦って起き上がった。そして俺の顔を見ると、ようやく自分の置かれた状況に気づいて目を見開く。
「こ、ここは?」
「俺の家だ」
「ええっ? そ、それでは……ああっ、もう夕方ではないか。帰らないと……あ、依頼は明日で良いか?」
「ああ」
 机の上に置いてあった帽子と眼鏡をひったくると、まだ正体がばれていないと思っているのか、俺やロイに顔を背けながらそそくさと家を出ていった。
「行っちゃったね。……ねえ兄さん、これでよかったの?」
 ロイの問いには答えずに、俺は立ち尽くしたたまま王女が出ていった扉を眺めていた。
 ――次に会ったときは、謝ってみてもいいか。柄にもなくそんな事を思いながら。

 翌日、俺は依頼を受けた。と言っても変装した王女の依頼ではなく、然るべき筋からのものだ。青いリボンの帽子のアンジェラは、あれから俺の前に姿を見せることはなかった。
 依頼の内容は何のことはない、ヴィルノアまでの荷物運びだった。アルトリアからヴィルノアへは徒歩で七日はかかる。往復ならば二週間。あまり長期間家を空けたくない俺は報酬次第では断るつもりだったが、依頼主である黒衣の女が示した額は王からもらった報奨金よりも多かった。さすがに不審に思った俺は荷物の中身を問うたが、女は答えなかった。
「荷物の中身に関しては、詮索しないこと。もし運搬の途中で覗いたりでもしたら、報酬は貰えないと思って」
 それどころか、女はそんなことを条件に付け加えた。焦臭いものを感じたが、俺には関係のないことだと割り切って、結局は引き受けることにした。
 そして、出発の日。早朝のアルトリアの街外れには依頼主の女と見知らぬ男、それに木箱を積んだ荷馬車が用意されていた。木箱には鎖が雁字搦めに掛けられ、厳重に錠まで設えてあった。
 女は仕事のパートナーだと言って男を紹介した。
「いや驚ぇたぜ。あんたが相棒とはな」
 男は下卑た笑みを浮かべながら言った。齢は三十半ばといったところか。痩けた頬と無精髭は精悍と言えば聞こえはいいが、その無作法な立ち居振る舞いやだらしのない身なりでは、自らの品性下劣をさらに引き立てているようにしか見えない。
 俺が軽く睨んでいると、男は戯けたように手を振って、その汚い手袋を填めた手を俺に差し出した。
「そう怖い顔すんなって。俺はバドラック。よろしくな、アリューゼさん。ご高名はかねがね聞いてますぜ」
 俺はその手を無視して、馬車に繋がれた馬の具合を確かめた。御者台の上には革袋が三つ――恐らく俺たちの食料と水だろう――置かれていて、人間が乗れる余裕はなかった。引いて歩くしかなさそうだ。
「悪いけど、のんびりしている時間はないの。さっさと行ってくれる?」
 女が急かすと、バドラックはへいへい、と荷馬車の反対側に回った。
「報酬は?」
「ヴィルノアに着いて、無事荷物を送り届けたら渡すわ。ギルドでこの紙を見せて」
 そう言って、女は証明書らしき紙を俺に手渡した。
「さ。行って頂戴」
 馬の横に立って手綱を握ると、俺は馬を進ませた。のろのろと栗毛の馬が歩き出し、石畳の上を車輪が回る。
 そうして、俺たちは霧深い街を抜け、ヴィルノアまでのひたすら長く続く街道を進んだ。得体の知れない荷物と共に。

 山を越えれば、後は平坦な道が延々と続くばかりだった。ヴィルノアまで残り三日の道程、何事もなく終わるものだと思っていた。
「行くぞ」
 休憩もそこそこに俺は立ち上がり、まだ横になったままのバドラックに声をかける。
「おぅい。そんなに急かすなよ。どうせだから、もっとのんびり行こうぜ」
 バドラックはそう言ったが、俺が有無を言わさず馬を進めるのを見ると、舌打ちして慌てて荷馬車の背後についた。
 山々の屏風を背景に、平原を貫く街道を俺たちは淡々と進んだ。後ろからバドラックがしきりに話しかけてくるが、俺はその殆どを聞き流した。
 俺はこのふざけた相棒を、根本的に信用していなかった。その馴れ馴れしい態度も、物事の全てを嘗めきったような口調も、ことごとく気に入らなかった。親しげな言動の裏に潜む狡猾さを、俺は感じずにはいられなかった。それは、同じ稼業に身をやつしているからこそ判り得るのだろうが。
 ハイエナだ。こいつは猛獣の後をつけ回し、残した肉を貪るハイエナそのものだ。卑屈で、狡猾で……残忍。決して油断してはならない。
 俺の押し殺した沈黙とは裏腹に、バドラックは声を出して大欠伸をした。
「ふぁ~あ。こんな仕事でたんまり金が貰えるんだから、たまんねぇぜ」
 汗ばんだ背中をぼりぼり掻きながら、独り言のように言う。
「まったく。ロンベルト様々だぜ」
 思いもよらぬ名前を耳にして、俺は振り返った。
「ロンベルト? アルトリアの重臣の?」
「ん? ああ。ロンベルトって言やぁ、あいつしかいねぇだろうが」
 何でもないように言うバドラックに、俺は眉を寄せた。
「依頼主はあの女じゃないのか?」
 そう訊いたとき、視界の端に何かが映った。俺は馬を止める。察しのいいバドラックも背後に目を遣った。
「なんだ、ありゃ」
 土煙を上げて街道を駆けてくる一団が見える。馬だ。それに、乗っているのは兵士だ。銀色の甲冑が陽に照らされて眩く輝く。見慣れたアルトリア騎兵の鎧。
「ありゃあ騎兵だぜ! しかもあんなに大勢で。戦でもおっぱじめるつもりかぁ?」
 バドラックの口調に余裕があったのは、まさかあの一団が自分たちに関係しているとは思わなかったからだろう。だが、俺は妙な胸騒ぎがしていた。無論、その原因は。
 慌ただしくこちらにやって来る一団からそっと目を逸らし、木箱を見上げると、俺は口許を曲げた。迂闊だった。いくらあの女に釘を刺されていたとはいえ、一度でもこの箱の中身を確認しておくべきだった。
 案の定、アルトリア騎兵は俺たちの前で制止をかけ、次々と馬から降りて荷馬車を取り囲んだ。
「アルトリア国王の命だ。至急、荷物を確認させてもらう」
 一団を先導していた部隊長らしき男が言うと、他の兵士が俺たちを押し退けるようにして木箱の周囲に集まり、鎖を取り外しにかかった。俺たちのことなどどうでもいいといった感じだ。
 錠が壊され、張りつめていた鎖が緩んでじゃらじゃらと荷馬車の台に落ちる。その様子を俺はつぶさに見つめていた。木箱の蓋に手がかかる。俺は唾を飲み込んだ。
「おい。なにボーっとしてやがんだ。とっととずらかるぜ」
 横からバドラックが小声で言うのを聞いて、ようやく今の状況に気づいた。中身が何であれ(どうせろくなものではないだろうが)他者に知られてしまった時点でこの仕事は失敗だ。ならばこれ以上、雇われの俺たちが依頼人に肩入れする義理はない。まずは自分の身の確保が先決だ。
 幸い、兵士は荷物に気を取られて、俺たちをまるで見ていない。逃げるなら今しかない。
 右手には人の背丈ほどもある藪草が群がる草原がある。バドラックと示し合わせて、そこに飛び込もうと二人同時に駆け出したとき、背後から声があがった。
「いました!」
 ――いました? 全く予想もしなかった言葉に、俺は思わず立ち止まって、荷馬車を振り返った。
「あっ!」
 バドラックも同じように振り返って、声を上げた。俺は声にすらならず、息を呑んで目を瞠った。
 開け放たれた木箱の奥から、兵士が抱きかかえるようにして荷馬車から降ろしたのは、一人の人間……それも少女。別の兵士が布を持ってきて、白い肌の裸身を覆い隠す。振り乱した金髪はだらりと下に垂れて、流れ落ちる蜜のように蕩々と輝く。穏やかに瞑目する、そのあどけない横顔を見紛う筈もなかった。
 荷から出てきたのは。
 ――青いリボンの帽子と似合わない眼鏡。
 あの、お転婆王女。
 ――愚鈍な父を殊勝にも慕う、誇り高きアルトリアの娘。
 ジェラードだった。
「ヤバいぜ相棒。さっさとここから離れようぜ」
 茫然と立ち尽くす俺に、バドラックが鋭く声をかける。俺は拳を握りしめた。だが、今の俺にできるのは、バドラックの言う通り、この場から逃げることのみだった。
 割り切れぬ思いを肚の底に残しつつ、俺は叢へと飛び込んで身を隠した。兵士は王女への対応に掛かり切りで、俺たちを捜そうという気配はなかった。
 ――何故だ。
 ――何故、あの女は王女をヴィルノアに送ろうとしたのだ?
 ――ロンベルト。
 ――これは全てあいつが仕組んだことなのか?
 ――あいつは、いったい何者なのだ?
 取り止めのない疑問が次々と脳裏を過ぎったが、思考は錯綜し、混乱し、答えなど出よう筈もなかった。そして、残ったのはただ一つの事実。
 俺が、王女誘拐の片棒を担がされたということ。
 腰を低くしながら奥に進むと、草原は灌木帯に変わった。燃え上がる炎のように張り出した枝葉は身を潜めるのに絶好だった。俺たちはひとまずここで様子を見ることにした。
「はあ。なんだかえらいことになっちまったぜ」
 バドラックはこの期に及んでも他人事のような口調だった。どっかりと樹の根元に座り込み、懐から煙草を取り出して火を点ける。
「にしても、ロンベルトの野郎、しくじりやがって」
 煙を吹かしながら言い放つバドラックに、俺はいきり立った。
「てめぇ、知ってやがったのか!」
「な、中身は知らねぇ。けど依頼主はいつもロンベルトだったんだ」
 俺はひとつ息をつき、座り直すと別の疑問をぶつけてみた。
 ロンベルトは何者なのか。
「あの兵士達はロンベルトが依頼主だと知っているのか?」
「は? なわけねぇだろうが。ロンベルトはなぁ、ヴィルノアのスパイなんだよ」
 その事実よりも、そんなことを抜け抜けと言ってのけるこの男に嫌悪を感じた。
「奴もコソコソ動いてるだけかと思ったら、どえらいことをやってくれるぜ。王女がヴィルノアの手に渡っちまえば、アルトリアは向こうの言いなりだろうからな。大したタマだぜ、まったくよ」
 乾いた笑みを浮かべるその面に一発ぶちかましてやろうかと思ったが、寸前で辛うじて堪えた。ここで癇癪を起こしたところでどうにもならないのだ。
 そもそも、俺は何をそんなに怒っているのだ?
 アルトリアに不穏分子が蔓延っていることに対して?
 俺はそんなに愛国心のある人間だったか?
 それとも――。

 ……アリューゼ……。

 誰かに呼ばれたような気がして、俺は顔を上げた。空耳だと思いつつもそっと耳を澄ませたとき、別の声が飛び込んできた。
 男達の悲鳴。そして、この世のものとは思えぬ咆吼。場所は――街道の、荷馬車を捨てて逃げた、あの地点。
 俺は反射的に立ち上がり、街道に向かって駆けた。背後からバドラックが何事か文句を言いながらついてくる。草原をかき分け、道に差し掛かったところで凄まじい異臭が鼻を刺した。紛うことなき、死の匂い。
 どうして俺はいつも、このような場面に出くわしてしまうのだろう。俺の身辺には常に死がつきまとっている。これも死神と呼ばれる所以なのか。
 壊れた荷馬車。腸を抉られ臓物を吐き出したまま息絶えた馬。そこいらに転がる銀色の甲冑はどす黒い血に彩られ、大部分が首を失っていた。
「ひっ!」
 足許に、虚ろな目でこちらを見ている生首を見つけたバドラックが、息を呑んだ。そんなものなど、馬車の周囲にいくらでも落ちている。
 俺の視線は、その数え切れぬ死の中心に立っている、忌まわしき存在を捉えていた。熊ほどの体格に、発達した筋肉を剥きだしにしているそれは、まだ息のある兵士の首を掴んで高々と掲げている。昆虫の殻のような皮膚は艶々と赤く光り輝いていた。
 赤い悪魔。
「たっ、た、たすけ、て……」
 その足許で腰を抜かしていた一人の兵士が、俺たちの姿を見つけると、ずるずると這うようにしてこちらに向かってきた。そいつが座り込んでいた場所には失禁した跡が残っている。
「おい。あいつはなんだ。王女はどうしたんだ?」
 俺が訊ねると、兵士は瘧のように震えながら、答えた。
「く、くすり……」
「なに?」
「薬を飲ませたんだ。ロンベルト様から、王女の意識がなかったら飲ませるようにと……そうしたら」
 兵士は顧みもせずに指で背後の悪魔を示す。
「あれが、お姫様だってのか?」
 バドラックが額に玉の汗を浮かべながら、言った。
 ジェラードが、悪魔に変身した?
 ロンベルトの薬で?
 薬?
「グールパウダーか」
 バドラックが言った。
「グール、パウダー?」
「ああ。人間を魔物に変えちまう薬。ネクロマンサーの常套手段だ」
「……ロンベルトが、ネクロマンサー?」
 その事実に全身が強張る。この数年間、アルトリアは奴の意のままに操られていたも同然だった。それが、魔術師のスパイだったとは!
 顔色は悪いくせに、バドラックはやけに冷静に状況を推察する。
「王女の失踪に気づいた王は部隊を派遣した。ロンベルトは焦っただろうな。このまま誘拐が露見すれば自分がスパイだとバレちまうのも時間の問題だ。けど、奴は機転をきかせた。兵士に薬を持たせて、意識がない場合に使うよう指示する。自分がやったんだから、発見された時点で意識がないことぐらい承知済みだ。ロンベルトが犯人だと知らねぇ兵士は迷わず薬を使う」
「王女は魔物と化し、真相を知るものは残らず死ぬ……」
 恐らく、王女すらも。
 何かが砕ける音がして、俺は王女であったはずの悪魔を見た。筋肉の張り出した手に握られた兵士は、既に白目を剥いて絶命していた。さらに力を込めると、首はぶつりと千切れて地面に落ちる。首無しの胴体がその上に折り重なるように落とされる。足許には夥しい血が池を成していた。
 そして、悪魔は俺たちを見た。暗い眼窩の奥で危険に光る、その眸で。
「やべっ。お、俺は逃げるぜ。あんな化け物相手にしてられっか」
「あっ、ま、待って。僕も……」
 バドラックが一目散に駆け出し、兵士が蹌踉めきながら後に続いた。俺は向かってくる悪魔を睨んだまま、立ち竦んだ。
 逃げるつもりはなかった。だが、戦う気も起きなかった。背中の剣が早く抜けと俺を急かしている。両腕が鉛のように重い。腕だけではない。両足も首も、メドゥーサに睨まれたが如く硬直してしまっている。
 決して怯えていたわけではない。恐怖は微塵も無かった。ただ、奴の二つの眼光を眺めているうちに、何故だか途方もない虚脱感に襲われたのだ。戦場でも、こんな気分になったことはなかった。
「アン、ジェラ……」
 知らずと俺はその名を呟いていた。父を侮辱した俺に仕返しするために使った、もう一つの名。一杯の酒で酔い潰れ、俺のベッドで安らかな寝息を立てていた、その横顔。娘の幻影が目の前で明滅し、やがて消え失せ、赤い悪魔の姿と化す。
「グ……」
 悪魔は俺の呟きに反応した。鋭い爪の生えた手で顔を覆い、苦しむような仕種をしている。
 意識が残っているのか? 僅かな期待を胸に悪魔を刮目したが、奴はそれを振り払うように、天に向かって咆哮を上げた。
「アンジェラ」
 俺はもう一度呼びかけてみた。しかし、悪魔はもうその名には反応を見せなかった。後にはばつの悪さばかりが残り、真剣にそんなことをしている自分が莫迦莫迦しくなった。
 こいつは王女ではない。剣を抜け。戦え。俺の中の何かがしきりに警告している。
 戦う?
 戦って、こいつを殺したところで、何が残る?
 何も残りはしない。全てが消えて無くなるだけだ。自分以外は。
 俺は、そんなことを望んでいたのか? 全てを消し去るために、俺は剣を振り続けていたのか?
 生き残るための、意志。
 俺の意志は、そんなものだったのか?
「ふっ……ふふ……はははっ」
 ひとしきり自嘲的に笑うと、俺は崩れるように座り込んだ。もはや、何もかもがどうでもよくなった。胡座をかいたままがくりと項垂れて、瞑目する。敵に捕らえられた騎士が処刑を待つように。
 悪魔が腕を振り上げる。次の瞬間には、俺の首は胴体と切り離され、そこらの生首に混じって地面に転がっていることだろう。
 だが、そこで何かが起こった。突然のことに、何が起きたのかは咄嗟には判断できなかった。
 俺の頭上で光が生じ、炸裂するのを感じた。同時に悪魔は吹き飛ばされ、背中から地面に倒れる。俺は空を仰いだ。眼前を、一片の白い羽根が通り過ぎてゆく。
 羽根――大いなる白い翼。それを搏かせて天から降りてくるのは。
「人間よ。なにゆえいたずらに死に赴かんとする」
 女の声が、平原に響き渡った。或いはそれは俺だけに聞こえたのかもしれない。凛々しく、そして気高い。
戦士もののふは戦の内にこそ自らを見出すが道理。忌まわしき敵を前にしてなにゆえ戦わぬ」
 艶やかな肢体を蒼穹の鎧に包み込み、羽根飾りの付いた兜から零れるは、星粒の如く煌めきを放つ白銀の髪。金糸で刺繍がしてある豪奢なスカートが、風もないのに波打ち翻っている。茫漠とした光を放ちながら、静かに地面へと降り立つ。足が地面に着いたところで、背中の翼は霧散するように消滅した。
 人の姿をしていたが、人間とは思えなかった。この世のあらゆるものを凌駕し、圧倒する雰囲気が全身から感じられた。
 ――神々しい。俺は初めてそう形容できる存在を目の当たりにした。戦場に降り立つ、美しくも勇ましき女神。
「戦乙女ヴァルキリー」
 とうの昔に忘れていたはずのその名を、本人を目の前にしてすぐに思い出した。神話伝承の類には疎い俺でも、彼女の言い伝えは知っていた。戦場で勇敢な戦士の魂を狩る戦乙女。神界への導き手。だが、俺に言わせれば……ただの死神だ。
 ヴァルキリーは腰の剣を抜くと、立ち上がろうとしている悪魔に歩み寄る。俺は思わず手を伸ばして叫んだ。
「やめろ! そいつは……」
 戦乙女が徐に振り返り、俺を見る。その果てしなく深い眸に射抜かれて、俺は何も言えなくなった。干渉するのは不可能だ。存在の次元が違う。
「娘は既に不死者グールと成り果てた。意識が悪しき方に呑まれきらぬうちに、穢れし肉体に閉ざされた魂を解放してやらねばならぬ」
 そう言って、ヴァルキリーは悪魔と対峙した。いくら神といえども、体格は普通の娘とそう変わるところはない。巨大な敵を前にすると、その華奢な体つきが一層際立って見えた。
 悪魔が腕を振り翳して襲いかかってきた。ヴァルキリーは軽く跳躍して躱すと、剣を両手で握り直して素早く振るった。太刀筋が光の軌跡となって迸る。首の付け根から脇腹までを裂かれた悪魔は耳障りな悲鳴を上げた。青黒い返り血が戦乙女の髪や鎧に降りかかったが、それらは瞬時にして蒸発するように消えた。
 ヴァルキリーは正気を逸して振り回す相手の腕を掻い潜り、その分厚い胸板に剣を突き立てた。剣は弾けて無数の光の粒となり、粒はさらに光の糸を紡ぎ、光の螺旋となって悪魔に絡みついた。悪魔の動きが止まる。
 ヴァルキリーが飛び上がった。その背には再び光の翼が生じている。空中で制止をかけ、足許の悪魔を見下ろす。
「ニーベルン・ヴァレスティ」
 そう唱えて腕を掲げると、そこに光が凝縮され、形を成して彼女の手に握られた。自らの背丈の倍ほどもある、巨大な槍。
「裁定を受けよ」
 ヴァルキリーが槍を投げつけた。槍はそれ自身が生きているかの如く脈々と輝きを放ちながら悪魔に向かってゆく。そして、悪魔の腹の中心を寸分違わずに貫いた。絶叫はすぐに止み、悪魔はありったけの血を地面に吐き出す。槍が消滅し、光の拘束が解かれると、生気を失った巨体は力なく頽れた。
 俺は、茫然とその骸を眺めた。眸からは光が消え失せ、ぴくりとも動かない。腹と口からは止めどなく血が流れ出ている。これが、あの王女の最期の姿なのか。こいつは、こんな姿で死ななければならなかったのか。
「肉に拘るな、人間よ。肉体など、所詮は魂を閉じ込める檻に過ぎぬ」
 俺の煩悶を見透かしたように、ヴァルキリーは言った。
 その時、骸が淡い光を放ち始めた。光は胸許に収束し、拳大ほどの玉となってふわりと浮かび上がった。光の玉は月のように煌々と輝きながら、緩やかに上昇していく。その先には、戦乙女が。
 ――肉体から、魂を解放する。
 そこでようやく感づいた。あれはジェラードだ。ジェラードの魂だ。解放された魂は戦乙女に導かれ、逝く先は――。
「待て。待ってくれ!」
 俺の制止も虚しく、ヴァルキリーは空に溶けこむように消えた。王女の魂を伴って。
 後に残ったのは、横たわる異形の死体。多くの人間の生首と胴体。そして、自分。
 ――結局、俺の居場所は、戦場ということか。
 皮肉めいた笑みを浮かべながら頭を振ると、俺は街道を歩き出した。山の向こうの、アルトリア俺の故郷へと。

 騒ぎを起こすつもりはなかった。国に戻ったら真っ先に城へ行き、王に全てを報告するつもりだった。
 だが、改めて思えば、それは甘い考えだったのだろう。既に事態は最悪な方へと傾いていた。もはや俺ごときが抗ったところで、どうにもならない所まで来ていたのだ。
 街の門の前には、アルトリア兵の部隊が待ち構えていた。俺の姿を見つけると、すみやかに散開して包囲する。そいつらの顔には見覚えがあった。蛮族退治に出向いていた連中だ。俺は見回してロウファの姿を捜したが、奴はここには来ていなかった。
「何の真似だ、これは」
 俺が言うと、意匠の凝った鎧にマントを羽織った男が進み出てきた。蛮族退治の時には見なかった顔だ。差詰め新たに任命された部隊長といったところか。
「アリューゼ。お前にジェラード王女誘拐及び殺害の嫌疑がかかっている。命が惜しくば大人しく捕まるんだな」
「なんだと?」
 四方から剣が、槍が、戦斧が突きつけられる。そこで俺はようやく悟った。
 ――ロンベルトか。
 誰かが背後から俺を打ち据えた。膝をついて項垂れる俺に、兵士は両脇から腕を抱え込むようにして拘束をかける。
 今俺が何を言ったところで、この連中は聞きもしないだろう。アルトリアは既にロンベルトの意のままだ。ヴィルノアのスパイが国を蝕んでいることを疑う者は、誰一人としていない。
 このまま捕まるのは簡単だった。俺自身はどうなろうと構わなかった。だが――。
 網膜に焼きついている、異形の悪魔。その無惨な死。
 ジェラードを殺した、あの男を。
 ロンベルトを。
 ロンベルトを。
 殺すまでは。
「ロンベルトぉっ!!
 力ずくで兵士の拘束を振り解くと、俺は立ち上がって背中の剣を抜いた。
「なっ!」
 動揺する兵士どもを一太刀のもとに弾き飛ばし、俺は駆け出した。門を潜り、大通りを突っ切って、真っ直ぐ城門へと。
「あ、アリューゼ!」
 門番の兵士二人も有無を言わさず薙ぎ倒し、城内へと入りこむ。廊下の先から警護の兵士がばらばらとやって来る。心なしか今日に限ってその数が多い。ロンベルトに警護を強化するよう言われていたのかもしれない。俺の、この行動を予想して。
 どこまでも周到な奴だ。俺は歯軋りしながら剣を握り直す。そして、一気に兵士の群に突っ込んでいった。
 雑魚がいくら束になろうとも所詮は雑魚だ。狂戦士ベルセルクさながらに突進してくる俺に兵士は怯み、ろくに刃を交えることもなく斬り捨てられていった。
 最後に残った兵士を捕まえて、ロンベルトの居場所を訊いた。
「おい。ロンベルトはどこにいる」
「そっ、そんなこと……」
「答えねぇなら、今すぐその生白い首を刎ねてやる」
 至近距離で脅すには大きすぎる剣を無理に首の横に押し当てて、もう一度訊ねた。
「ひっ。し、執務室は四階の西塔の手前、だっ」
「そうか」
 青ざめる兵士を放り捨てて、俺は再び走った。階段を駆け上り、まだしつこく食い下がる兵士を振り払い、西塔へと続く廊下を弾丸のように駆け抜けた。そして、ようやくその扉に突き当たった。
 両開きの扉を足で蹴り上げる。勢いよく開かれたその先に――奴がいた。
「やっと見つけたぜ、ロンベルト」
 俺は剣を片手に提げたまま、部屋に入り込んだ。
「まさかここまで来るとはな。見上げたものよ」
 ロンベルトは指で眼鏡をツイと押し上げて、口許を曲げた。
「てめぇと話すことなど何もない。今すぐここでぶっ殺してやる」
 部屋の中心に立って、俺はロンベルトと対峙した。
「ふふ。無理だよ。お前に私は殺せない」
「ほざけ」
 俺はこれ以上ないほど奴を睨みつけた。今すぐにでもその首を刎ねてやりたい気分だった。だが、奴の嫌らしい笑みがやけに目障りで、それ以上近づくことを躊躇させていた。
「ああ、そうだ。一つだけお前に訊いておきたいことがある」
 余裕たっぷりに、ロンベルトが言った。
「グールは本当にお前が倒したのか?」
 俺は眉を顰めた。ロンベルトは気にもせずに続ける。
「いやな、あのグールパウダーは私の自信作だったんでね。強靱な肉体、圧倒的なパワー、そして底知れぬ獰猛さ……どれを取っても最強だと自負していた。そのグールを倒す者がいるとは、正直信じがたいのだよ。……どうなんだ。本当にお前が倒したのか?」
 グールを殺したのは。
 王女を殺したのは。
 光の翼。蒼穹の鎧。美しく舞い上がる戦乙女。
 いや、違う。
 王女を殺したのは――俺だ。
 俺が木箱の中身を確かめさえしていれば、この悲劇は起こらなかった。
 俺が、王女を陰惨な死へと追いやったのだ。
「ああ」
 俺は奴の足許に視線を逸らして、言った。
「俺が、殺した」
 ロンベルトは黙っていた。俺の態度の変化を察知したのだろうか。暫く考えこんでいる素振りだったが、やがて元の不敵な笑みに戻って、言った。
「……まあいい。それならそれで結構だ。グールを倒すほどの肉体……ふふ。さぞやよい実験材料になってくれるだろう」
「なに?」
 僅かに狼狽する俺に、ロンベルトは人差し指を突き出し、下に向けた。足許を見ろ、という風に。俺が首を曲げて下を見ようとした、その瞬間、部屋の床が金色に輝きだした。
「!」
 足許に奇怪な模様が浮かび上がった。危険を感じてそこから跳び退こうとした時、模様から電撃が迸って俺の身体を駆け巡った。
「ぐおおおっ!」
 身体の内側を抉られるような痛みに俺は呻いた。足が、腕が言うことを聞かない。血が沸騰し、今にも血管を突き破って噴き出すのではないかと思うほど熱かった。眼前を火花のようなものがちらちらと行き交っている。その先に立っているロンベルトの姿が歪む。
「ふふ。苦しいか? 術師の部屋に入る際には足許に注意することだな。どんな法陣や結界が張ってあるやもしれん。……それ、もうすぐ全身が痺れて動けなくなるぞ」
 憎々しげに語るロンベルトの声も、次第に遠ざかってゆく。全ての感覚が失われつつあるのだ。奴の術を見破れなかった愚かしさに、我ながら呆れ、そして後悔した。剣を取り落とし、視界が闇に溶けてゆく。このまま、何も果たせず死に逝くしかないのか――。
 視界は殆ど闇に覆われた。だが、いつしか瞼の奥に、一条の光が宿っていた。光はみるみる膨れ上がり、闇を呑み込み、そして爆ぜた。
正しき者へとジャスティフィケーション!〉
「なにぃっ!」
 俺が意識を取り戻したときには、法陣は弾け飛び、金色の光も電撃も消え失せていた。軋む身体を励ましつつ剣を拾うと、気合いを発して、愕然と立ち尽くすロンベルトの許へ駆けた。
「うおおおおおぉっ!」
 大剣を突き出す。驚愕と恐怖でロンベルトは動くことができない。幅広の刃が、ついにその腹を貫いた。
「ぐ……ふっ。何故だ……なぜ、法陣が……」
 剣を抜くと、ロンベルトは血を吐いて倒れた。ローブが紅に染まり、床を汚してゆく。まだ未練があるのか、肘をついて上半身を起こすと、俺の顔を見、そして少し視線をずらしたところで、目を瞠った。
「……ふ、ふふ。そういうことか。まさかお前が、戦乙女の加護を得ていようとはな……」
「なに?」
 俺は背後を振り返った。そこには何者かの影があった。蜃気楼のように揺らめくそれを凝視すると、蒼穹の鎧と白銀の髪が見えた。戦乙女――ヴァルキリー。
「お前が術を破ったのか」
 問いかけてみたものの、相手は反応しない。こちらからの声が聞こえないのかもしれない。
「……待てよ。……アリューゼ……戦乙女の、加護を受けし……」
 ロンベルトが何やら不可解なことを呟いて、笑い出した。死を前にして錯乱しているのか。
「そうか……そういうことだったか……。ふ、ふふふ。結局は……お前を、利用しようとした私が、莫迦、だったという……こと、か……」
 言い終えると、がくりと地面に突っ伏して、それきり動かなかった。
 暫くの沈黙の後、俄に廊下が騒がしくなった。バタバタと慌ただしい足音が近づき、兵士数人が部屋に雪崩れ込んできた。
「ひぃっ、ろ、ロンベルト様が!」
 血を流して倒れているロンベルトを見つけると、顔を引きつらせ、そしていきり立った。
「アリューゼ! アルトリアに仇をなす賊め!」
 俺が賊だと?
 兵士が集団で斬りかかってきた。俺は大剣でまとめて相手の武器を弾き飛ばすと、一人ずつ屠り捨てていく。確実に、一切の感情を持たずに。
 ――成る程。確かに今の俺は、傍目には賊以外のなにものでもないだろうな。
 気がつけば、そこには死体の山が積み上がっていた。俺はそれを前にして、高らかに笑い声を上げる。何がそんなに可笑しいのか、自分でもわからなかった。
「俺を迎えに来たんだろ、ヴァルキリー?」
 俺は背後の戦乙女に挑戦的な視線を投げかけて、言った。
「残念だが、俺はお前の世話にはなれねぇらしいぜ。死なないんだからな」
 ヴァルキリーは相変わらず感情の失せた眸で俺を見るだけで、何も言わない。
「真に強い戦士の魂は神界に導けないってか。ははは!」
「自惚れるな人間よ。強さが全てではない」
 ようやくヴァルキリーが口を開いた。とりあえず聞こえてはいたようだ。
「ふん。言ってくれるぜ、死神が」
「無礼者っ!」
 突然、別の声が飛び込んできた。聞き覚えのある声にその姿を捜すと、案の定、ヴァルキリーの隣にしかめっ面をした少女が現れた。
「戦乙女は死神ではないっ。その不埒な言動……」
「万死に値する、ってか?」
 俺が言うと、ジェラードは顔を真っ赤にして口を閉ざした。久しぶりに見るその姿に、知らずと安堵の笑みが零れた。
「一つだけ訊きたい」
 俺はヴァルキリーに向き直って、言った。
「お前は死神とどこが違う」
「……死神は、お前に終焉しかもたらさない」
 ヴァルキリーは言った。
「だが、私はお前に道を作ってやることができる」
「道?」
「そうだ。だから、自らの足で歩くがよかろう」
 道――か。
 戦うことに溺れ、理由もなく剣を振り続けているうちに、いつしか俺は進むべき道を失っていた。
 もはや俺の道は閉ざされたものだと諦めていた。
 だが、ここに行き場が無くとも、別の意味で生きてゆけるというならば。
 彷徨う迷い人のような俺にも、道を示してくれるというならば。
「アリューゼさん!」
 扉の方を向くと、誰かが声を上げて部屋に駆け込んできた。一人はロウファだ。そして、もう一人は。
「親父さん……」
 ロウファを制して前に進み出てきたのは、アルトリア騎士団長。ロウファの父親であり、俺の養い親でもある。
 親父さんは屹然と俺を見つめていた。皺の浮いた顔立ちに迷いは微塵も感じられなかったが、眦だけは微かに震えていた。ロウファは死体の転がる部屋を見渡すと、どうしてと呟きながら膝をつく。まるで自分が殺したかのように、顔面は蒼白だった。
「アリューゼ。私にも剣を向けるのか?」
 押し殺した声で、親父さんが言った。俺は元より、そんなつもりはなかった。剣を地面に捨てると、大きく嘆息する。
「アリューゼさん。理由を……どうして、どうしてこんなことをしたのか……」
 ロウファが声を詰まらせながら、問い質した。俺は、足許に横たわる兵士の腰に差してある短剣を抜くと、刃の具合を確かめる。
「理由か」
 腰が抜けたように座り込むロウファを一瞥してから、切っ先を自分に向けて、両手で握る。
「それは、てめぇで考えな」
 最後にそう言い残すと、腕に力を込め、一気に自分の腹を刺し貫いた。
 これで、終わりだ。或いは、始まりかもしれないが。
 霞む視界に、光の道がまっすぐ続いている。ようやく、ようやく見つけることができた。
 俺が進むべき、正しい道を。