小説ヴァルキリープロファイル

4 ロウファ

 ――理由か。
 ――それは、てめぇで考えな。
 あの人は、そう言って命を絶った。
 その真意は、今でもわからない。
 あの人は、僕に何を考えろと言ったのだろう。
 そして、僕に何を伝えようとしたのだろう。

 長剣を両手で構える。こちらが間合いを計っているうちに相手から斬りかかってきた。振り下ろされる剣を払いのけて、そのまま切り返す。相手は背後に跳び退いて躱すと、強靱なバネを生かして跳躍した。頭上から力任せに叩きつけてきた刃を刃で受け止める。重く鈍い衝撃に、足元がぐらつく。
 彼はその隙を見逃さず、地面に降りると間髪容れずに斬りかかった。その一撃はかろうじてやり過ごしたものの、次の一撃は予想外の速さで振り抜かれ、受け止めた衝撃に柄から手が離れてしまった。剣が地面に落ち、喉元には屹然と刃が突きつけられる。
「そこまで!」
 終了の合図と同時に剣が下ろされ、張り詰めた空気が一瞬にして緩む。僕はその場に尻餅をついて息を吐いた。周囲で見ていた者達からいっせいに拍手が起こる。
「まったく、君にはかなわないよ、アンセル」
 苦笑混じりに言うと、アンセルはニッと白い歯を見せて、剣を収める。
「でも、次は スピア でお願いしたいな。剣はどうにも慣れてなくて」
「言い訳とは女々しいですな、ロウファ殿」
 彼はそう揶揄すると、手を差し伸べた。その手をつかんで、僕も立ち上がる。
「いやでも、ロウファさんが愚痴りたくなる気持ちもわからなくはないな」
 そう言ってアンセルの肩を叩くのは、お調子者のラルフ。堅物ぞろいの隊においては貴重な存在だ。
「なんせこの人は、剣を持たせりゃ一騎当千、弓を持たせりゃ百発百中。戦のためだけに生まれてきたような御仁ですからね」
「茶化すなよラルフ。おだてたところで何も出ないぞ」
 アンセルはそう言ったものの、まんざらでもないようだった。褐色の頬も少し緩んでいる。
 彼はアルトリアの人間ではなく、周辺域に住む少数部族の出身だ。今でこそ『蛮族』として討伐の対象となってはいるが、かつては互いに理解し合い、友好的な関係を築いていた時期もあった。彼はその名残と言ってもいい存在だった。歳は僕と一回りも違うけれど、素早い身のこなしと武芸の技術は未だ衰えず、同僚からの信頼も厚い。
 何より、僕が気の許せる数少ない友人でもある。
「自分などまだまだ、ひよっこですよ。あのアリューゼには到底及ばない」
 アンセルの口からついて出た名前に、僕はどきっとした。
「アリューゼか。確かにあいつは凄いけど……なぁ?」
「あんなとんでもない奴を目標にしてたら、どうかなっちまうぜ」
「所詮、俺たちとは違う人間だろ。比べるのが間違ってるんだよ」
 口々に言う同僚たちを、僕は黙って見ていた。言い返したいことは山ほどある。でも、言えなかった。
 僕は、何を恐れていたのだろうか。
 不意に、稽古場の扉が開いた。入ってきた巨体に、先程まで口さがなかった同僚たちが凍りついた。
「アリューゼさん」
「よう」
 僕が駆け寄ると、アリューゼさんは無愛想に応えた。
「いつアルトリアに戻ってきたんですか?」
「つい昨日だ。親父さんが倒れたってロイに聞いてな、さっき見舞いに行ってきたんだが」
 そう言うと、苦笑して。
「いらぬ心配だったみたいだな。会ったなり小一時間ほど説教食らっちまったよ」
「それは災難でしたね」
 僕も肩をすくめて笑った。
「しばらくはこちらにいるんですか?」
「ああ。今度の蛮族退治にもつき合うことになりそうだ」
「本当ですか?」
 思わず嬉しそうに言ってしまったので、周囲から冷ややかな視線を浴びることとなった。
「正規のアルトリア兵が傭兵風情をアテにしてちゃ、いけねえな」
「あ……すみません」
 アリューゼさんにも たしな められて、頭を掻く。
「じゃあな」
「え、もう帰るんですか? せっかくだから稽古つけてくださいよ」
「今のお前に教えることなんて何もないさ」
 そう言い残して、稽古場を出ていった。その扉が完全に閉められるまで、僕はずっと見つめていた。
 相変わらずな人だな。心の中で、そう思いながら。
 でも、本人や他の兵士がどう思おうと、アリューゼさんが同行してくれるのは純粋に嬉しかった。なにしろこの戦は僕にとって初めての実戦となる。これ以上に心強いことはない。
 彼と初めて会ったその日を、僕は今でもはっきりと覚えている。
 ――生き残るには理由が必要だ。死にたくなければそれを見つけろ。
 彼が与えてくれたのは、戦いの技術だけではなかった。それ以上に、ひととしてあるべき姿というものを、その身をもって示してくれた。
 ようやく、真に慕うことのできる人に出会えたのだと思った。

 けれど。
 それなのに。

 どうして――こんな事になってしまったのだろうか。

 空はひたすら青かった。眩しいほどに。
 眼前を一陣の風が吹き抜け、草葉をざわざわと揺らす。
 偉大なる大地を背にして感じるは、自然の果てしない広さと、自らの矮小さ。
 ――この命ひとつ失ったところで、世界は変わらず動き続けるのだろう。陽は沈み、また昇る。星々は巡り、月日のうちに循環する。大地も季節の名の許にその様相を変化させる。世界はあくまで僕の存在に無頓着だった。
 そう考えると不思議な気がした。それでは世界とは何だろう? どこに存在する? 他者との共通概念の中か、それとも自らの うち にか。それなら何故僕が死ぬことで世界は終わらない? 僕は、世界にも見捨てられてしまったのか。
 ……混乱している。僕は思考を放棄した。こうしている間にも灯は小さくなり、消えなんとしている。ひどい吐き気と、耳鳴りと、凍えるような寒さを感じたが、それらも次の瞬間には全て意識の渦に呑み込まれて、何を感じているのかも判らなくなっていた。
 左手に力を込めてみると、微かに反応した。まだ腕は動くようだ。のろのろと手を自分の腹に這わせて、それから目の前に翳した。
 空の青が、赤に侵食された。指先から紅の滴が落ちて、頬を濡らす。
 僕は、死に逝こうとしていた。

「ロイさんが!?
 僕は席を立って気色ばんだ。
「先程、投獄されたようだ」
 父さんは仮面のように強張った表情で、言った。
「どうして止めなかったんですか。ロイさんの体で牢になんて入れられたら……。父さんだって知ってるでしょう!」
「……案ぜずとも、明日には処分が下る」
 僕は言葉を失った。重罪人は家族ともども即刻処刑される。頭では理解していたが、いざ身近に突きつけられると、これほどまでに残酷なものだとは。
「父さんは、本当にアリューゼさんが罪を犯したと思っているんですか」
「そんなことは関係ない。愛娘と腹心を失った陛下が直々に命じたことだ」
 まるで他人事のような態度だった。
「それに、たとえ王女やロンベルトのことが間違いだとしても、数十もの近衛兵を殺したことは紛れもない事実だ」
「父さん!」
 苛立ちを堪えきれずに、机を叩いた。
「あなただって騎士団を束ねる長でしょう。陛下にだって多少はものを言える立場だ。それならどうして……」
「青いな、ロウファ」
 僕の言葉を無視するかのように、父さんはそう言い置いて、部屋を出ていった。
 信じられなかった。
 握りしめた拳を力なく解いて、膝の横に擦りつける。
 我が子のように面倒を見ていたアリューゼさんを、ロイさんを、こうも簡単に見放すものなのか。
 ――臆している。
 怒れる陛下に進言すれば、自分の首が飛ぶかもしれない。あの人はそれを恐れている。
 地位や身分に縋りつき、保身に奔るのは俗物だ、武人たるもの常に己の信念を貫くべしと僕に教えたのは、一体誰か。
 父さん、あなたも所詮はただの俗物だったのか――!
 傍にあった花瓶を叩き割る。それからその場に蹲り、手で顔を覆った。汗が首筋を伝っていくのを感じた。
 僕は、どうするべきなのだろうか。
 進むか、それとも留まるか。どちらを選んだとしても、後に待ち受けるのは決して明るいものではないだろう。
 けれど、逃げることは許されない。アリューゼさんが命を絶ったその瞬間から、呪縛は僕の身を苛んでいる。
 たった一人の死が、僕の運命を一変させてしまった。
 ――いや、「たった一人」などではない。
 アリューゼさんという存在が、僕にとってどれだけ大きかったことか。失ってみて初めて気づいた。
 僕がここまで歩んでこられたのは、あの人が示してくれた標があったからなんだと。

 それならば。
 僕は最後まで、あの人の標に従おう。
 たとえそれが、破滅の道だとしても――。

 石の階段を降りきると、廊下の向こうに緊張した様子でこちらを窺う兵士の姿が見えた。
「ロウファさん?」
 僕を認めると、牢番は怪訝な視線を向ける。
「どうしたんですか、こんな時間に。それに……」
 視線は僕から、右手に握られていた槍に向けられた。
「ロイさんと話がしたい」
 牢番の視線を無視して、僕は言った。
「こんな時間に? もう遅いから、明日にしてくださいな」
 牢番は素っ気なく言った。
 彼は、ロイさんが明日に処刑される身だということを知らないのか。
「そんな猶予はないんだ」
 僕は牢番を押し退けて詰所に入り、壁に掛かっていた鍵の束を取った。
「ち、ちょっと……」
 慌てて詰め寄る牢番に、すかさず槍を突きつける。
「応援を呼んだ方がいいぞ。お前一人では太刀打ちできまい」
「ひっ、ひえぇ……」
 おぼつかない足元で階段を駆け上っていくのを見届けると、僕は槍を床に落とし、鍵を手に牢へと向かった。
 ロイさんは一番奥の牢に収監されていた。詰所での騒ぎを聞いていたのか、目を丸くしてこちらを見ている。
「ロウファ君、一体どうして……」
「今開けます」
 錠を解いて格子の扉を開けると、僕は中に入った。
「ロイさん。あなたは生きなければならない。アリューゼさんのためにも」
「けど君は……」
「あまり時間がないんです。すみません」
 有無を言わせずロイさんの細い身体を背負うと、牢を出た。
 階段を上って城の廊下に出る。すぐさま隣にある倉庫へと駆け込み、しばらく身を潜めた。数人の足音が廊下を通って地下牢へと消えていくのを確認すると、再び廊下に出て城門へと急ぐ。
 閉ざされた城門の閂を外して、重い扉を力任せに蹴った。わずかに開いた隙間に身体をねじ込ませてどうにか城を出ると、城壁沿いに走る。
 城の裏手には、示しあわせた通りに知り合いの冒険者が待っていた。
「後は頼みます」
「ああ」
 彼にロイさんを預けると、来た道を戻ろうと踵を返した。
「待って。君は一緒に行かないのかい?」
 ロイさんの言葉に、僕は振り返らずに答えた。
「僕は、もう逃げられない」
 ――そう。
 アリューゼさんから僕へと受け継がれた呪縛は、確実に僕の裡に宿り、蝕んでいる。
 逃げることなど、考えられなかった。
「ロウファ!」
 ロイさんを抱えたまま、彼が叫んだ。
「お前がそういうつもりなら、俺は止めねぇ。だけどな、これだけは言わせてくれ」
 歩きかけた足を止め、黙って聞いた。
「お前は……馬鹿だよ。大馬鹿だ」
 暗くて表情はわからなかったが、その声は心なし震えているように感じた。
「……ありがとう、カシェル」
 彼らに背を向けて、僕は城門へと歩いていった。

 冷たく重い空間に靴音が響いた。一歩ずつ確実に近づいてくるその音を、僕は目を閉じて聞いていた。
 音が止まり、しばしの静寂が訪れた。僕はゆっくりと目を開ける。格子の向こうに、父さんが立っていた。
「お前の処分が下った」
 父さんは押し殺した声で言った。言葉を発するのも億劫だという感じに。
「間もなくお前はこの国から出される。二度と戻ってきてはならない」
 僕は無言のまま、彼を見つめた。
「何か言うことはないのか?」
 父さんが訊いても、僕は黙っていた。
「本来ならば処刑は免れなかっただろう。だが陛下は寛大なお方だ。私の献言を聞き入れ、そのように下された」
「僕はそんなことを頼んだ覚えはありませんが」
 そう呟くと、父さんは鼻白んだ。
「ロイさんのときは何も言わなくても、僕なら言うんですね。それとも陛下への献言は、あなた自身のためですか?」
「愚かな……」
 眉間に皺を寄せて頭を振ったが、すぐに向き直り、仮面の表情に戻る。
「親として、最後に訊きたいことがある」
 父さんが言った。
「何故、あのような軽率な行動に出た? お前はアリューゼと違い、正しい判断のできる男だと思うておったのに」
「僕は僕の信念に従って行動したまでです」
 憮然とした顔をきっと見据えて、答えた。
「それはアリューゼさんとて同じことでしょう。父さんには理解できないかもしれませんが」
 しばらく睨み合っていたが、不意に父さんの方から目を離して、背中を向けた。
「もう会うこともないだろう。さらばだ、我が息子よ」
 そう言い残すと、牢を去った。聞き慣れた靴音が次第に遠ざかり、やがて消えた。
 僕は、再び瞑目した。
 ――さようなら、父さん。
 僕をここまで育ててくださったことは、とても感謝しています。
 けれど、僕とあなたは親子でありながら、どこか通じ合えないところがありました。
 二人の間は、常に氷の壁で仕切られているようでした。
 僕はあなたの姿を見ることができる。あなたにも僕が見える。けれど、お互い触れることは適わない。手を伸ばしても感じるのは氷の冷たさばかり。親としての温もりなど、そこには微塵もなかった。
 僕は渇望していたのかもしれません。温もりのある存在を。心の底から慕うことのできる人物を。それがアリューゼさんだった。
 彼を失った今、僕にあるのは、ただ――。
 ――哀しみです。

 城を出て、城下町を真っ直ぐ歩いた。両脇を兵士二人――かつての同僚たち――に固められて。
 身につけることを許されたのは、粗末な麻の衣服一枚のみ。武具はおろか、食糧や僅かな路銀すら持たせてはくれなかった。
 早朝のアルトリアは濃い霧が立ちこめていた。薄暗く人気もない街並みは寥々として、どこか陰気だった。
 ここには亡霊が住んでいる。僕は思った。
「お別れだな」
 街の入口まで来ると、兵士は僕を門の向こう側へと押しやった。振り返ると、二人の兵士は無言のまま、入口を遮るようにして立っている。
 僕は彼らに背を向けて、歩き出した。
 この地ではないどこかに。一歩でも遠くへ。
 どこへ行くのか。何をするのか。そんなことはどうでもよかった。
 とにかく、この国から離れたい。その一心で僕は足を動かした。
 何もかも失ってしまったが、僕にはまだ命が残っている。
 そう、あるいは、ここから僕は再出発できるのかもしれな

 ……………………。

 鈍い、衝撃が、背後、から――?

 首を下に動かすと、棒のようなものが腹から突き出ていた。いや、これは矢の先端――?
 ゆっくりと、永遠のような時間をかけて振り返る。
 街の入口に兵士の姿はなかった。代わりに立っていたのは。
「アン、セル……?」
 遠目からでもよく判る褐色の肌。それは紛れもなく、彼だった。右手には弓を握っている。
 そして、彼の陰からすっと姿を見せたのは。
 ――父さん――――!

 ああ、そうか。そういうことか。
 父さん。あなたは一体どこまで愚かで、哀れなのか。
 アンセルをどうやって誑かしたのかは知らないが、どうせろくなやり方ではないだろう。
 そうやってあなたは、私益のために罪を犯していくのですね。

 背中に手を回して矢をつかむと、激痛を堪えつつひと息に抜いた。たちまち腹から血が溢れ出て、服を染め上げる。痛みはあったものの、不思議と意識ははっきりしていた。ちゃんと二本の足で立てるし、視界も普段と変わらない。
 僕は再び歩き始めた。一歩ずつ、踏みしめるように。道は蛇のようにうねりながら、平原を突っ切っていた。

 平原の真ん中で、僕は死に逝こうとしていた。
 あれからどのくらいの時間が過ぎたのだろう。気がつけば、ここに倒れて空を眺めていた。
 痛みは痺れへと変わり、やがてそれも感じなくなった。意識が薄れていくのを、別の自分が意識していた。奇妙な話だ。
 空の青が徐々に光の中へとかき消えていく。風の音も、耳鳴りも聞こえなくなる。世界はついに僕の裡にて終焉を迎えようとしていた。
〈終焉などではない〉
 どこからか声が聞こえた。光に包まれた不思議な空間に、ひとひらの羽根が揺れながら落ちていくのを見た。
〈お前は何を望む?〉
 ――あなたは?
〈答えよ。お前は何を望む?〉
 望むものがあるとすれば。
 ――慕うべき存在。正しき方へと導いてくれるもの。
〈ならば、私がそれを もたら そう〉
 そう宣い、光の中より姿を現したのは――。
〈義に篤き戦士よ、私とともに逝くがいい。お前が失ったものを、取り戻す為に〉