小説ヴァルキリープロファイル
ざぁ…………ざざぁ……ん。
風が森を通り抜けると、木々はいっせいに騒ぎ出す。
ざぁ…………ん。
風が止めば、森はまた元のように静まりかえる。
……ざざぁ…………ん。
風が起きるたびに、木々はなびき、枝を揺らして葉を鳴らす。
小波のような、音を。
森の中に、大きな岩のある場所がある。
まわりの樹は二人がかりでやっと抱えきれるほど太くて、見上げると、うんと高いところから、葉っぱを透したきれいな緑の光が降りそそいでいる。風が吹くたびに光もゆらゆら揺れて、まるで巨大なレースのカーテンがそこに掛かってるみたいだった。
風が通りすぎたあとは、ただひたすら静寂が森を包みこむ。けれど、どこかわたしの見えないところで、森は確実に脈づいている。耳を澄ませばその鼓動が聞こえるぐらいに。
この落ち葉に埋もれかけた岩の上に、ふたりで座って、話をしたっけな。
岩に登って、腰をかけてみる。たったひとりきりで。
「ねえ、ラウリィ」
緑の天井を眺めながら、わたしは彼に話しかける。いつか隣に座って、そっと肩を抱いてくれた、彼に。
「わたし、今度結婚するんだって」
ざぁ……。呼応するように風がひとつ流れゆく。
「お父さまがね、突然写真を持ってきたの。『お前の結婚相手だ』って。そのひとどっかの名家の御曹司で、家もお城に負けないぐらい大きいの。ずっと昔、戦争があったときに国王といっしょに戦って多くの武勲をあげた将軍の家系なんだって。それだけじゃないよ。その相手ってひとも十八歳で将軍にまでなっちゃって、おまけにすごくハンサムで……」
途中で胸が支えて、うつむいた。
「……バッカみたい」
ほんと、馬鹿みたい。
そんなのが一体なんだっていうの。家柄や血筋が結婚するわけじゃない。契りを結ぶのは人間同士なのよ。なのに、わたしはそんなどうでもいいことばかり聞かされて、じかに相手と会ったことすらない。お父さまやお母さまはこの縁談に満足しているみたいだった。娘がそんなひとと一緒になって、ほんとうに幸せになれるとでも思っているのだろうか。わたしの気持ちなんて、これっぽっちも考えてないんだ。
婚約は来週。その次の月には、わたしはどんな声かも知らない御曹司と誓いを交わさなくてはいけない。憧れだったはずの花嫁衣装が、今では死装束さながらに忌まわしいものに思える。
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
少し前までは、なにもかもうまくいっていた。少しのすれ違いはあったけれど、わたしも、わたしのまわりのひとたちも幸せだった。けど、あの日を境になにかが狂いはじめた。わたしとみんなとの歯車がかみ合わなくなっていった。
すべてはあの日からだった。この森で、最後に彼と話をしたあの日。
「ねえ、ラウリィ」
声をかけると、彼はいつもの穏やかな表情でわたしを見る。
「なに?」
「この森って、素敵だと思わない?」
ラウリィは急にきょろきょろと辺りを見回しだした。
「どうしたの?」
「え? いや、あんまり森をよく見てなかったからさ……」
頭をかきながらそう言う彼に、わたしはくすくすと笑った。きっとこのひとは、わたしが森の感想を求めてるから、なにか言わなきゃと思ったんだろう。
「そうじゃないのよ。見るだけじゃなくて、からだ全体で感じなくちゃ。……目を瞑って」
「どうして?」
「いいから、ほら」
右手で彼の目を覆って、自分も目を閉じた。
静寂のあとから、風がやってきて森を掠める。
ざぁ…………ざざぁ……。
「波の音みたいでしょ?」
手を退けて訊ねると、ラウリィも微笑して頷いた。
「ほんとだ。気にしたこともなかったけど」
「わたし、この音が好きなの。この音を聞いてると、なんだかすべてから解放された気分になるの。まるでほんとうの海にいるみたいに」
ラウリィは足を投げ出して岩に座ったまま、緑の空を眺めている。淡い光を受けた瞳は森の脈動に負けないぐらい爛々と輝いていた。
「でもさ、僕も知らなかったよ。たまにミリアが家にもどこにもいないときがあったけど、こんなところに来てたんだね」
「……うん」
膝に置いた手を見つめながら、答える。
「大好きなの、この場所。嫌なこととか悲しいことがあると、決まってこの森に来るの。こうして森の中でじっとしてると、そうした気持ちが風といっしょに吹き飛んでしまうような感じがするの。小さな頃からの、わたしの秘密の場所」
「秘密の場所」
彼はその言葉を繰り返し、呟いた。
「けど、どうしてそれを僕に教えてくれたんだい?」
わたしは下を向いたまま黙った。理由なんてない。ただ、ラウリィには、ラウリィだけにはこの場所のことを知ってほしかったから。
でも、それはどうして?
「ミリア?」
彼が顔を覗きこむ。わたしは気づかれないように、そっと拳を握りしめた。
「……海に、行くんだよね。戦争で……」
小声で言うと、ラウリィも顔を曇らせた。
「知ってたのか」
「うん。……だからね、お母さまが、あなたのことは忘れろって……」
言ってからひどく後悔した。こんなこと、言うべきじゃなかったんだ。
「無理もないよな。国のお偉いがたは勝つつもりでいるらしいけど、冷静に考えりゃ、勝敗は目に見えてる」
「そんなこと言わないで!」
わたしの声に、ラウリィは目を丸くする。
「帰ってきてよ……」
「大丈夫だよ。役立たずな兵士ほど最後まで生き残るものなんだ。逃げ足は早いから」
そう茶化したけど、わたしは笑えなかった。しかめっ面をしていると、彼は首を傾げて。
「なんだよ。変な顔して。僕の言葉が信じられない?」
「信じられるわけないじゃない」
「じゃあ……」
不意にラウリィがわたしの肩に手を回し、抱き寄せた。
「あ……」
困惑のかたちに開きかけた唇に、彼の唇がそっと重ねられる。それはほんの一瞬だったけれど、彼のぬくもりが、優しい感触が、わたしの胸を弾ませ、暖かく包みこんだ。
「ラウリィ……」
彼の胸に顔を埋めて、言った。
「絶対に、必ず戻ってきてよ……」
「ああ」
わたしの背中を撫でながら、彼も言葉を返した。
「僕は死なない。何があっても、君をひとりきりにはしないよ」
ざざぁ…………ざぁ……ん。
引いては寄せ、寄せては返す森の小波。わたしたちはぬくもりを確かめ合うように、ずっと抱き合っていた。
ざざぁ…………ん。
あのぬくもりが、
冷たい、
深い、
海の底に。
軍は全滅して、誰ひとり帰ってこなかった。
帰ってきたのは、空っぽの棺。
ざぁ…………ん。
今でも彼は、
冷たく、
暗い、
海の底に。
ひとりきりにはしない。
わたしは、それを信じてずっと待ってたのに。
彼の穏やかな笑顔が、
空っぽの棺を開ければ、
森の小波が、
海の底に。
ざぁ…………ざざぁ……。
「やめてぇっ!」
頭を抱えるように両耳を塞いで、わたしは叫んだ。
「こんな音、聴きたくない……」
風はわたしを弄ぶように吹き荒ぶ。
よりによって、どうして小波なんだろう。愛するひとは、その波の合間に呑まれて還らぬひとと成り果てた。波の音なんて、もう、聴きたくもない。
「どうして、どうして……」
ようやく風がおさまると、わたしは岩の上で泣き崩れた。
この上で交わした約束が、今となってはとても悲しい。
空っぽの棺。そんなものを弔ったって、何にもならない。
あのひとが死んだなんて、信じられるはずがない。
信じたくない。
もう一度あのひとの顔を見るまでは。
でも、もう決して会うことはできない。
「ラウリィ……」
嗚咽まじりに彼の名を呟く。風がまた吹き、木々を揺らしたけれど、もう耳を塞ぐ気力もなかった。
わたしはどこにも行き着くことができない。
先に逝ってしまうなんて、ひどすぎる。
わたしを置いて行かないでよ。
どうか、神さま。もう一度だけ。
もう一度だけ、あのひとに逢わせて……。
頬になにかが触れたような気がして、わたしは目を覚ました。
どうやらあのまま眠ってしまったみたいだった。日はとっぷりと暮れ、遠くではフクロウが鳴いている。薄暗い森の空気は肌に触れるとひんやり感じられた。
けれど、わたしはあまり寒くはなかった。どうしてだろう? この包みこむようなぬくもりは……。
「……え?」
そこでやっと状況がつかめた。わたしは誰かに抱かれている。背中にあてがわれた手。安らかな胸の鼓動。
よかった。なにもかもあの時のままだ。
「……ミリア、寒くない?」
おずおずと、いつもの口調で彼が訊ねてきた。
「寒いよ」
わたしは答えた。
「だから、もうちょっとだけ抱いていて」
返事のかわりに、彼は背中をさすってくれた。でもこれじゃあ、恋人というより子供が親にあやされているみたいだ。そう思うと、なんだか可笑しくなってきた。
「ねえ。わたし、ずっとあなたのこと待ってたのよ」
笑ったおかげで、素直に口が開いた。
「ごめん」
彼は言った。
「僕も、ふんぎりがつかなかったんだ」
風はまったく吹かなかった。夜の森は闇と静寂ばかりが支配している黒の王国だった。
わたしは胸に抱かれたまま、彼の鼓動を、息づかいを聴いていた。すぐにも頭を上げて愛しいひとの顔を見たかった。けれど、なぜだか、そうすることはできなかった。姿を見てはいけない。見れば彼はきっと消えてしまう。そんな気がした。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「なに?」
わたしは、自分でも驚くぐらい冷静に、言った。
「あなたは、ほんとうに死んだの?」
森が静まりかえった。まるで時が止まってしまったかのように。
「ああ」
少し間を置いて、彼は答えた。
「僕は死んだよ」
わたしは唇を噛みしめた。彼の背中に回した手が小刻みに震える。涙は流さなかったけれど、かわりに、こころが泣いていた。
「約束、守れなくて、ごめん」
「いいのよ、そんなの」
わたしは静かに言った。この空気を乱さないぐらいの、小さな声で。
「こうして逢いに来てくれただけで、わたしは嬉しいよ」
ありがとう。心の中で、そっと呟く。
「約束は、守れなかったけどさ」
わたしの髪を梳くように撫でながら、彼は言った。
「僕はずっと君を見守っている。だから安心して。寂しくなったらこれを握って、空を見上げるんだ。僕はいつでもそこにいるから」
「え……?」
わたしの手を取って、なにかを握らせた。暗くてよく見えなかったけれど、冷たい金属の感触だけは掌から伝わってきた。
「さあ。もうおやすみ。次に目を覚ましたときには、きっと――」
耳許でささやくような彼の声に誘われて、次第に意識が薄らいでいく。もっと話がしたかったのに、強烈な眠気の前にわたしはどうすることもできなかった。
でも、よかった。もう一度ラウリィと話ができて。
神さま、ありがとう。
そして。
さようなら、ラウリィ。
〈閉ざされた時は、音を立てて動き出す〉
〈すべてはあるがままに〉
早起きな鳥の声で、目を覚ました。
わたしは岩の上に横たわっていた。まわりには霧が立ちこめていて、頬を撫でる空気は湿っぽい。朝露に濡れた葉から滴が落ちて、岩の上に染みをつくった。森の中はまだ薄暗かったけれど、すでに日は昇っているのだろう。
わたしは岩から降りた。そして、握りしめていた掌を前に出して、広げてみる。
銀色の鎖と、それに繋がれた銀細工。ペンダントのようだった。親指の先ほどの銀盤には、鎧をまとい、剣を掲げて勇猛果敢に敵に立ち向かう女性の姿が刻まれていた。
戦乙女。
「……そっか」
きっとあのひとは、戦乙女に選ばれたんだ。
なんだか、嬉しくなった。あのラウリィが、神とともに戦う戦士になったなんて。
「ねえ、ラウリィ」
ペンダントを握って、空を仰いだ。樹の先のほうの葉っぱは朝日に照らされて、きらきらと輝いていた。
「わたしも、頑張るよ。だから、そこで見守っていてね」
ざざぁ…………ん。
風がひとつ吹いて、森が揺らめいた。まるで、わたしの言葉に応えてくれたみたいに。