小説 WILD ARMS 2
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序章
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第一章
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第二章
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第三章
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第四章
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第五章
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第六章
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第七章
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第八章
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終章
呼ばれたような気がして、マリナは噴水の前で振り返った。
人々が行き交う昼下がりの雑踏。彼女はその中に声の主を捜したが、見当たらない。諦めきれずにしばらく視線を彷徨わせ──空耳だったことを思い知り、溜息をついた。
聞こえるはずがない。だって、その声は。
すっかり気が抜けてしまったマリナは、広場の空いたベンチを見つけるとそこに抱えていた紙袋を置き、自らも腰を下ろした。彼女は店の遣いの途中だった。
西風に散々乱された髪を掻き上げて、空を仰ぐ。暑い季節を間近に控えた青空には、真っ白な雲がもくもくと湧き出している。
馬鹿みたい、とマリナは雲に向かって一人ごちた。
空耳の声の主──アシュレーとは、昨日会って別れたばかりだ。昨晩のうちに雇い主である貴族の館に戻り、今頃は次の任務に出発していることだろう。
──どうして、空耳なんて。
店の軒先で見送った幼馴染みの姿を回想しながら、考える。
彼が特殊部隊の一員となり、長く家を空けるようになってから数ヶ月。その不在を受け容れていたつもりだった。けれど。
久しぶりに声を聞いて、久しぶりに同じ時間を過ごしたことで──一緒にいた頃の日常が、自分の中に蘇ったのかもしれない。
もう、昔と同じじゃないのに。
ひと月ぶりに会った幼馴染みは、また少し変わっていた。
髪が伸びた。日焼けして、頬もやや痩けて精悍になった。顎の裏まで剃刀を当てるようになった。それから。
背も……少しだけ、伸びていたかな。
自分の知らないアシュレー。それが、会う度に、別れる度に増えていく。
不安だった。だから、この前はその気持ちを本人にぶつけてしまった。
──馬鹿みたい。
変わろうが変わるまいが、アシュレーはアシュレーなのに。そんなことは充分わかっていたはずなのに。
けれど、変わっていく幼馴染みを見ると──妙に心がざわつく。掻き乱される。いつしか全く知らないアシュレーになって、帰ってこなくなってしまいそうで。
あの頃の日常が──ぜんぶ失われてしまいそうな気がして。
徐にスカートの隠しに手を入れ、取り出したものを目の前に翳した。
光を受けて翡翠色に輝く、半透明の石。アシュレーから貰った感応石だ。通信ができるかと思って何度か試してみたけれども。
ちっとも、通じない。
掌中に石を収めた手をそのまま膝に置いて、マリナはもう一度嘆息した。
「浮かない顔だねぇ」
顔を上げると、雑踏の中に叔母のセレナがいた。恰幅のいい身体を揺らしてこちらに歩いてくる。
「おばさん。お店は?」
「昼時過ぎたらぱったり客足がなくなってね。今日はもう終い」
パン屋の女主人はそう言ってマリナの隣に腰を下ろした。いい加減だなぁとマリナが呆れると、いい加減なくらいがちょうど良いのさとセレナも悪びれず言い放つ。
「いい天気だねぇ」
「うん……」
二人並んで空を眺めた。海鳥の群れが頭上を過ぎり、港の方へと飛び去っていく。
「マリナ、あんたもう二十歳だろう」
「まだ十九だよ。来年で二十歳」
「そうかい。それじゃあアシュレーもまだ十九なんだねぇ。昨日帰ってきたときは、また一段と立派になっていたものだけど」
今じゃ街のちょっとしたヒーローじゃないか、大したもんだとセレナは目を細める。
ARMSの活躍は、このタウンメリアでもしばしば話題に上るようになっていた。街を急襲したあの巨大な飛空機械を撃退したことで、かの特殊部隊は一躍脚光を浴び、所属するアシュレーにも世間の耳目が集まるようになった。
昨日の一時帰宅の際も、店の前には地元の出世頭を一目見ようと大勢が集まり、彼を出迎えた。その騒ぎを店内で見ていたマリナは随分と辟易したものだけれど。
「おばさんは……ああいうアシュレーを見て、やっぱり嬉しい?」
「そりゃあ、息子同然に育ててきた子だからねぇ。嬉しくないはずがないさ。けどまぁ……あんたが寂しがる気持ちもわかるよ」
そう言って、こちらに目配せする。マリナは見透かされた気分になって。
「別に、寂しくなんか」
強がるように呟くと、セレナにくしゃくしゃと頭を撫で回された。子供にするような行為にマリナは抗議したが、彼女はいつものように笑い飛ばす。
「あの可愛い寝坊助が、今じゃテロリストと戦う部隊のリーダーだ。世間様にも名が知れて、街を歩けば人集りができるまでになっちまった。けどね、あの子自身は、あんたが思っているほど変わっちゃいないよ」
「そう……かな」
マリナの目には、随分と変わってしまったように見えた。
「あの子も戸惑ってるんだ。周りの変化に。あんたと同じようにね」
空を眺めながら、セレナは言う。
「変わってしまうことが不安なのは、あの子も同じなんだ。だからこそうちに帰って、変わっていないことを確かめているのさ。漂流しそうな自分の気持ちを繋ぎ止めてくれる場所。それが──マリナ、あんただよ」
「繋ぎ……止める?」
マリナは横を見る。叔母は青空に目を馳せたまま。
「どうしてあたしが、自分の店に港と名付けたんだと思う?」
「それは……港町だから」
まぁ、それもあるんだけど、とセレナは言い置いてから続ける。
「港ってのは船が帰ってくる場所だろう。長い航海を終えた海の男たちが一服して、次の船出に向けて英気を養う。うちの店もそうした『陸の港』になりたいと思ったんだよ。気紛れで閉めちまう、いい加減な港だけどね」
自分で言ってけらけら笑う叔母に、マリナは困った顔をする。
「今のアシュレーも、船みたいなもんさね。広い海に漕ぎ出して、荒波に揉まれ、ともすると方角を見失って流されかねない。旅する船には──港が必要なんだよ」
「港? 私が?」
マリナが言うと、セレナはこちらを向いて頷く。
「あんたはアシュレーにとっての港なんだよ。あんたが変わりなくここにいるから、あの子も自分を見失わずにいるんだ。だからあんたもそんな浮かない顔してないで、明るくあの子を出迎えてやんなきゃ。船は港の光を頼りに、励みにしてるんだ。光を出し続けていれば──」
遠い海にだって、光は届くよ──。
マリナは再び空を仰ぐ。
掌の中にある石を、そっと握り締めながら──。
白昼の目映い雪原に、呪文が小気味よく響く。
「始原と終末の炎よ灯れ」
リルカは魔力を込めた愛用のパラソルを振って、霜と氷柱まみれの熊に炎の球を放つ。
炎魔法を食らった熊の魔物は衝撃で背後にふらついたが、すぐに持ち直し、再び雪をかき分けてこちらに向かってくる。腹部のあたりの霜が溶けて火傷の痕も見られたが、それほどダメージは受けていないようだ。
「おっかしいなぁ……。見た目からしてぜったい火が弱点だと思ったのに」
少女は亜麻色の髪を揺らして首を捻る。
「魔法に耐性があるのかもな。ARMで片づけよう」
アシュレーは背中の銃剣に手をかけたが、後ろにいたティムがそれを止めた。
「ボクがやってみます」
そう言って少年は前に進み出る。
「え、でもティムってまだ炎の魔法は……」
「覚えました」
リルカに一言返してから、彼は杖を構えた。
「ナパーム……フレア!」
光を帯びたティムが唱えると、たちまち魔物の足許から火柱が噴き上がった。赫々と燃え盛る炎に包まれた巨体が、身悶えしながら雪の溶けた地面に倒れ込む。
炎が止むと、そこには炭と化した魔物の骸が横たわっていた。
「……凄いな」
その威力にアシュレーは思わず唸る。
「風にしても火にしても、威力が桁違いだ。ARMも形無しだな」
同意を求めて横のリルカを見たが、意外にも彼女は無反応だった。しかも。
「リルカ?」
「へ? な、なに?」
慌ててこちらを向く。その表情は普段と変わりないように見えたが。
「いや……珍しく大人しかったから」
「……あのね、わたしだって二十四時間ずっと騒がしいわけじゃないんだよ」
そう言ってすぐにアシュレーから離れてしまったので、それ以上は追及できなかった。
魔物を倒した少年を見つめていた、その横顔が。
──怒っていた、ような──?
「うまくできて、良かったです。……っと」
はにかみながら戻ってきたティムが、途中で雪に足を取られて転倒しそうになる。そこへリルカが駆けつけて。
「ほら~。またフラフラしてる。しっかりしなよ」
肩を貸して支えてやりながら、二人で雪をかき分けてくる。タウンメリアで買ったという揃いのコートを羽織っていたので、傍目には姉弟(妹?)のようでもあった。
「新しい術を覚えるのもいいけど、あんたはまずヘナチョコな体力をどうにかしないと。戦うたびにヘロヘロになってたら身体もたないよ」
「そうなのダ。ティムはヘナチョコなのダ。プーカが組んであげたトレーニングメニューの半分もこなせないのダ」
鞄から頭だけ出した相棒の亜精霊に告げ口され、少年はううと声を洩らして項垂れた。アシュレーはそれを見て苦笑する。
先程のリルカの表情がまだ引っかかってはいたが──概ね仲良くはやっているようだ。
初めての長期任務ということでティムも不安はあっただろうが、ここまでは懸命について来ているし、リルカも不平を洩らしつつもフォローしてくれている。小言をつきながら甲斐甲斐しく少年の世話を焼く彼女の姿は、時折本当の姉のようにも見えた。
「それで、シエルジェまではもう近いのか?」
ティムから手を離して戻ってきたリルカに、アシュレーが尋ねると。
「知らない」
素っ気なく返されてしまった。
「知らないって……」
「だってわたし、テレポートで街から出たんだもん。道なんてわかんないよ」
シエルジェ出身の少女の頼りない返答に、アシュレーは眉根を寄せる。
「仕方ないな……」
荷袋から通信機を取り出して、シャトーに繋ぐ。応答を待っていると。
〈呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーン。ミーちゃんでーす〉
いきなり甲高いエイミーの声が耳に飛び込んできた。だがアシュレーも慣れたもので、軽く受け流してからアーヴィングに代わるよう促す。
〈なんだよー、もっと構ってよ。最近出番少ないからつまんな……〉
〈……失礼しましたアシュレーさん。今繋ぎます〉
途中で相方のケイトの声に切り替わった。ポカリと頭を叩かれたエイミーの姿が目に浮かぶ。
〈アーヴィングだ。どうした?〉
「ああ。積雪で道を見失ったみたいだ。ここからシエルジェまでの距離と方角を確認したい」
〈了解した。少し待っていてくれ〉
通信が一旦途切れ、アシュレーはスピーカーから耳を離した。そして再び周辺を窺う。
山脈に囲まれた、一面の雪原だった。遮るものもなく、天気も良いので隅々まで見渡すことができるのだが。
「シエルジェって結構大きい街なんだろ? 近くにあるなら建物とか見えそうなものだけど……」
「あれ、アシュレー知らないんだ」
リルカが意外そうに言う。
「知らないって、何が?」
「んー……まぁいいや。行ってみればわかるよ」
面倒そうに話を切り上げられてしまい、アシュレーは置き去りにされたような気分になる。
「それよりさ、アシュレー……その、街に着いたら……」
「ん? ああ、行きたいところがあるならつき合うよ。故郷だもんな」
「そうじゃなくてッ。えっと……うー……」
リルカは人差し指を突き合わせて言葉を濁した。
何か隠している。ここに来てからというもの、のべつこの調子である。帰郷が照れくさいのかと最初のうちは思っていたのだが──。
「リルカ、お前もしかして……」
尋ねようとしたとき、通信機の呼び出し音が鳴った。
〈そちらの現在地を把握した。シエルジェはそこから西北西に二キロほど進んだ先だ〉
「え、二キロ?」
アシュレーは通信機を耳に当てたままその方角を向いたが、やはり街など影も形も見当たらない。
〈雪で見えないかもしれないが、その地点に小さな祠がある。シエルジェはその中だ〉
「祠の……中?」
地下、ということだろうか。それなら地上から視認できないことにも納得が行くが。
〈ついでに、シエルジェに着いてからのことを確認しておこう〉
疑問を抱えたままのアシュレーをよそに、アーヴィングは話を進める。
〈先方には既にアポイントを取ってあるので、街に入ったら速やかに教授を訪ねてほしい。この時間であればまだ研究室にいるはずだ〉
「魔法学校のマクレガー教授、か。この端末の解析を依頼すればいいんだな」
荷袋の口から覗いている矩形の鋼板を見ながら、アシュレーは言う。
先週より、オデッサの情報を求めて不時着したバルキサスの機内捜索が行われた。この鋼板はその際に回収した端末だという。内部には記憶装置も見つかり、何らかの記録が保存されてあることが予想された。
しかし、記憶装置には特殊なプロテクトが施されてあり、一般的な装置では読み取ることができなかった。分析によればプロテクトは魔術を応用したもので、通常の技術者には解析不能の代物であるという。
そこで、魔法と機械技術を組み合わせた──いわゆる『魔導器』を研究しているシエルジェの専門家に解析を依頼することになった。マクレガー教授は魔導器研究の第一人者であり、かつてエルゥ族が作ったとされる魔導器の再現作製にも成功している──らしい。
門外漢のアシュレーには説明されても珍紛漢紛だったが、ともかくオデッサの手がかりを得るには彼の協力が必要とのことなので、こうして雪をかき分けシエルジェまで端末を届けに来ているのである。労が多い割には地味な任務だが、記憶装置には敵の機密情報が含まれている可能性も高いため、やはり油断はできない。
〈シエルジェの内部や魔法学校についてはリルカ君がよく知っていると思う。案内を頼めるかな〉
「う……わかりましたぁ……」
横で聞いていたリルカが気の進まなさそうに返事をする。その様子を見てアシュレーは確信する。
「リルカ、シエルジェに帰りたくないのか?」
通信を切ってから尋ねると、リルカはぎくりとこちらを向く。
「な、なんで? 別にそんなことないでござるよ」
声が裏返っているし目が泳いでいる。おまけに語尾がおかしい。
明らかに何かありそうではあるが、可哀想な気もしたので追及するのはやめておいた。どのみち街に着けば判ることだろう。
魔物の気配も消えたようなので、彼らは再びシエルジェに向けて歩みを始めた。
時折方角を確認しながら雪原を進むと、石造りの小屋のような建物が見えてきた。アーヴィングの言っていた祠──だろうか。
懐中灯を用意してから祠の入口を潜り、中へと足を踏み入れる。段差の大きな階段を慎重に下り、狭く短い通路を進んだ先にあったのは。
「何だ……ここは」
仄かな光に満たされた、不可思議な小部屋だった。床には複雑な模様が刻まれたレリーフが敷かれ、その中心にも同じような模様が彫刻された石柱が立っている。
「扉だよ。ここが街の入口」
リルカはそう言って、石柱の前に立った。
「ほら、もうちょっと真ん中に集まってよ。魔法陣に乗ってないと効果が出ないんだから」
「魔法陣……ああ、これか」
他の三人も促されるまま円形のレリーフの上に立つ。床の継ぎ目から淡い光が洩れ、彼らを足許から照らし上げる。
「みんな乗ったね。それじゃ、行くよ」
リルカが石柱の模様の一部分を指で押すと、その部分が白く明滅を始めた。
彼女は石柱をぐるりと周りながら、同じように模様を押していく。八箇所ほど白い点が穿たれたところで最初の地点に戻り、そして。
「よっこいしょういちッ!」
軽くジャンプして高いところにある模様に触れた。
すると──。
「うわッ」
石柱全体が輝き出した。アシュレーは腕で顔を覆う。
周囲に光の飛沫が飛散し、きらきらと舞い上がる。石柱から放たれたそれらは壁や床や天井に張りつくとたちまち溶け込み、染み渡り、その形を歪め、変容させた。
石造りの塀。煙突のついた煉瓦の家。街灯に照らされた石畳に、そこを行き交う人々。
輝く光のインクによって塗り替えられた小部屋は──瞬く間に、広大な街並みへと一変していた。
「な……な」
アシュレーは言葉を失った。別の場所に転送されたのかと一瞬思ったが。
瞼に冷たいものが掠めた。雪が降っている。頭を擡げると、黒眼鏡越しに見るような薄闇の空が臨めた。
少し暗いが、祠に入る前の空と変わりない。同じ場所ではあるようだ。
「街をまるごと結界で覆ってるんだ。空が暗いのはそのせい」
リルカが説明する。
「結界……」
「そ。この街は結界の外からは見えないし、入ることもできない。出入りするにはこの扉でパスコードを入力しなきゃならないの」
言いながら足許の魔法陣を示す。今は小さな祭壇のような石段に描かれている。
「この柱がパスコードの入力端末ということか」
ブラッドは石柱に顔を近づけて、つぶさに模様を眺めていた。
「そのウネウネした模様もね、ちゃんと意味があるんだ。魔法使いだけがわかる文字みたいなものかな。そんで、さっき入力したのは」
リルカは急に畏まり、スカートの裾を抓むような仕草をしながら会釈をして。
「『ごきげんよう』」
恭しくそう言ってから、悪戯っぽく笑った。
「この街での挨拶なんだ。ここって結界のせいで一日じゅう暗いからさ、『こんにちは』なのか『こんばんは』なのかわかんなくなっちゃうんだよね。それで面倒だから統一しようって」
「挨拶の言葉をコードに設定しているのか……」
そんな単純でいいのだろうか、とも思ったが、どちらにしてもあの模様を解読できなければ入力できないのだから、問題はないのかもしれない。
「さすが魔法の街ですね、すごいなぁ……」
ティムはまだ夢現のような顔で辺りを見回していた。ライブリフレクターにも乗ったことのない少年には、とりわけ衝撃的な体験だったに違いない。
「それで、魔法学校はどこにあるんだ?」
「ん。それならあっち……」
「リルカッ!」
指をさしかけたところで、彼女を呼ぶ声がした。リルカはビクッと肩をすぼめてから、そちらを向き……顔を顰める。
「うげ、テリィ……」
通りを横断して大股で歩み寄ってくるのは、小柄な少年。ふさふさした金髪を額の中央で分け、制服らしき詰襟の上着を纏っている。
「知り合いか?」
アシュレーが尋ねると、リルカは首がもげそうな勢いで頭を横に振った。
「ぜんッぜん。こんなこまっしゃくれたクソ生意気なチビのことなんか、これっぽっちも知りませんッ」
「それが久しぶりに会った級友への言い草かよ。つうかチビ言うなッ」
どうやらリルカの同級生のようだ。二人して張り合うようにふんぞり返る。
「事実じゃん。女の子に身長抜かされて、だっさ~い」
「うるさいッ。お前みたいな跳ねっ返りは女として認めてないんだよッ」
向き合って並ぶと、確かにリルカの方が背丈は上だった。
「お前、どこ行ってたんだよ」
「教えない」
「教えないじゃないだろ。散々みんなを心配させやがって。この家出娘ッ」
少年の言葉に、アシュレーとティムが同時に声を上げた。
「え、いえ」
「で?」
「違う違う! そんなんじゃないって!」
リルカが慌てて弁解する。
「ちゃんと書き置き……手紙は残しておいたんだよ。だから決して家出とかじゃ……」
「手紙って、これのことか?」
少年は上着のポケットから紙切れを出して、広げた。
アシュレーが首を伸ばして覗き込むと、そこには、
『武者修行の旅に出ます。
心配ないからさがさないでください。
リルカ』
と、殴り書きで記されてあった。
「なんであんたが持ってるのよッ!」
紙切れを奪って懐に隠しながら、リルカが抗議した。
「知らねぇよ。寮長に預かっておけって押しつけられたんだよ」
少年は鼻の頭を掻いて、そっぽを向く。
「リルカさん、武者修行って……」
年下のティムにまで胡乱な視線を向けられ、リルカはすっかり萎れた。
「あうう……だって、ホントのこと書いたら止められると思ったから……」
そう言い訳してから、おずおずと級友に尋ねる。
「それで、寮長……なんて言ってた?」
「爆笑してた」
「ば、爆笑……まぁ怒られるよりはいいけど……」
シエルジェの家出娘は観念したように脱力し、よろよろと魔法陣の手前の階段に座り込んだ。
「お姉ちゃんの代わりにARMSに参加する、なんて、言えるわけないないじゃん。どうせ本気にされないか、バカにされるだけ」
「だからって、何も言わずに出ていくってのは……」
「わかってるよ……ごめんなさい」
膝を抱え、悄気た声でリルカは謝る。アシュレーは嘆息したが、反省の色は見られたのでそれ以上は咎めなかった。
「え……ARMSって、あの特殊部隊の?」
同級生の少年は今更ながらこちらを見回し、目を瞬く。
「ああ。その特殊部隊だよ。ここへは任務で来たのだけど」
「そ、それは失礼しましたッ」
急に鯱張って、上擦った声で言った。
「俺……いや、自分はシエルジェ魔法学校中等部のテリィと言います。皆さんの活躍ぶりはかねがね耳にしておりまして……」
テリィは途中で言葉を切り、チラリとリルカを窺う。
「その……リルカはどうして皆さんと一緒に?」
「当たり前じゃん。わたしもARMSなんだから」
早くも立ち直ったリルカが口を挟む。
「はぁ? お前がARMS? 雑用係とか召使いじゃなくて?」
「ホンっトに失礼なヤツだなぁ。あんたが耳にした活躍の中にもわたしが入ってるんだよ」
どう、悔しい? と意地悪く下から顔を覗き込むリルカに、テリィは口をあんぐり開けて唖然とした。
アシュレーは彼女の首根っこを掴んで横に退けさせてから、少年の方に尋ねる。
「これからマクレガー教授に面会したいのだけど、研究室の場所、知ってるかな?」
「ああ、教授に用事ですか」
テリィは再び表情を繕って、答えた。
「それならご案内します。自分も下っ端だけどマクレガー研究室の一員なので」
「うそ、あんたマクレガー研究室に入ったの?」
今度はリルカが大口を開けて驚いた。
「凄いだろ。飛び級でエリートコースだぜ。お前じゃ一生かかっても入れないだろうなぁ」
「うっさいッ。チビのくせして自慢すんな、このチビ」
余裕綽々で挑発するテリィに食ってかかるリルカ。まだ会ってから間もないが、この二人がどういう関係なのかは鈍いアシュレーでも察しがついた。
「あれ、ブラッドさん、どこ行くんですか」
背後のティムから声が上がった。振り向くと、ブラッドは高台を降りて通りに向かおうとしていた。
「昨日からマイトグローブの調子が悪くてな。調整できる店を探してくる」
「え、でもここって魔法の街だろ。ARMの店なんてあるのか?」
「それくらい」
「ありますよ」
リルカとテリィが同時に答えた。発言が被ったことが不愉快だったか、リルカの方はすぐにぷいと横を向く。
「ARMの研究はシエルジェでも盛んに行われています。魔導器に使われる装置も結局はARMですからね。マイスターも何人か在籍しています」
テリィは有名なマイスターがいるという店の場所をブラッドに教えた。ブラッドは礼を述べると踵を返し、逞しい背中を揺らして喧噪に消えていった。
「それでは、皆さんも。魔法学校はこちらです」
テリィはそう言うと、リルカを無視して先導を始めた。
「このチビ、いつか殺す。隙あらば殺す」
彼の背後では、殺意を抱く級友がしきりに傘で突く真似をしていた。
シエルジェは、とある魔道士が弟子の育成と研究のために設立した魔法学校を起源としており、それに付随する形で発展してきた街である。
ダムツェンから海を隔てた南方に位置するこの街は、領土としてはシルヴァラントに属している。しかし自由な気風で繁栄してきた学術都市に国家の支配はそぐわず、そのため政治行政に関しては本国の干渉を受けることのない自治領として、独自の治世が保障されることとなった。現在は天文学や化学、それにロストテクノロジーの研究も行われているが、やはり魔法技術における知名度はファルガイア随一であり、それゆえシエルジェも『魔法の街』として人口に膾炙するようになったのである。
街の中心部を占めるのは、シエルジェの起源であり象徴的存在でもある魔法学校。一軒の炭焼き小屋から興ったという学舎も生徒の増加とともに拡張の一途を辿り、今では校舎だけで数棟、学生寮や研究施設までも含めれば十数余もの建物が、小さな街が丸々収まるほどの敷地内に点在している。
アシュレーたちが面会を希望していたマクレガー教授の研究室は、西棟の二階にあった。テリィの案内により部屋に通され、在室していた教授に件の端末を渡すことができた。
そこまでは、順調だったのだが。
「……然るに私はそこで大きな挫折を味わい、生涯における最大の窮地に陥った訳であるが、結果としてそれが私の技術者魂に火をつけることになり……」
教授はかれこれ小一時間、滔々と語り続けている。
「あ、あの」
ちっとも終わりが見えないので、勇気を出してアシュレーが止めた。
「何かね、質問は後にしてほしいのだが」
「いえ、その、端末の解析の方は……」
「ああ」
マクレガー教授はこちらに背を向け、隅にある箱型の装置を覗き込む。その中に端末を挿入したところまでは確認していた。
「ふむ。プロテクトは解除できたようだ」
「え? やってたんですか?」
どうやら解除にかかる時間の穴埋めとして、自慢話──もとい、自身の研究成果を披露していたらしい。
「データのプロテクトに用いられる術式など数が知れているからね。特定してしまえばさほど難しいことではない」
事も無げに教授が言う。色々と癖はあるようだが、優秀な技術者なのは間違いないようだ。
教授はよれよれの白衣を靡かせて箱の横に移動し、机上に置かれた硝子の板のようなものを眺める。遠目ではわからないが、恐らく解析結果が投影されているのだろう。
「ふうむ……これは」
節くれ立った手を口許に当てて唸ったところで、アシュレーの通信機が鳴った。
「ああ、状況だけど、今教授に面会して……」
「アーヴィングからの通信かね」
そうですと応じると、教授はこちらを向きもせず、部屋の隅を指さして。
「それならそこの投影機に繋ぐといい。私も久しぶりに顔を見たい」
示された先には円形の台座があった。台座の中心には街の扉と同じような模様が描かれている。これも何かの装置か。
「通信機、お借りします」
言われるままテリィに通信機を預ける。研究員でもある彼は手慣れた所作でそれを台座に固定し、装置横のレバーを上げる。
一瞬、部屋の照明が明滅して、それから台座の内側が仄かに輝き始めた。光は像を結び、形を為し──顔色の悪い銀髪の貴族の姿となった。
「映像通信、か。それにしても……」
硝子も鏡もない空間に直接、しかも立体映像を投影している。素人目にも高度な技術であることは瞭然であった。
「教授が再現した魔導器のひとつです」
テリィが小声で囁いた。どことなく自慢げなのが癇に障ったのか、隣のリルカが再び不機嫌になる。
「久しいな、アーヴィング君。少し痩せたんじゃないのか」
「ご無沙汰しております。教授はお変わりないようで」
半透明の指揮官が一礼する。向こうにもこちらの映像は届いているようだ。
「最後に会ったのが四年前か。あのときは既に私の許を離れて天文学に傾倒していたようだったが……まさかあれからすぐに退学してしまうとはな」
「挨拶もせず出て行って申し訳ありませんでした。色々と込み入った事情がありましてね」
構わんよと教授は口許だけで笑う。どうやらアーヴィングもマクレガーの教え子だったらしい。
「それで、端末の解析だが」
ひとつ咳払いをして、教授は切り出した。
「ざっと見た感じでは、内容の大部分は通信の記録のようだ。重要な情報も含まれているかもしれないが……いかんせん量が多い。後半日ほど時間を貰えればノイズを落として抽出できるが」
「お任せしますよ。これからの戦いで優位を保つためにも、連中の情報はなるだけ欲しい」
アーヴィングが言うと、教授は了解したよと請けた。
「それと、地図があった」
「地図ですか」
何処の、と問う貴族に、教授は未確認だと返事をする。
「ファルガイアのどこかの地点であることは間違いなさそうだが、場所についてはこれから特定する。まぁ、こちらの方は大して時間はかからんだろう。ちなみに地図のファイル名は『A-プラント』とある」
「プラント?」
首を傾げるティムに、でっかい工場のコトだよとリルカが大雑把な説明をする。
「兵器の生産施設だろうか……。だとしたら」
「そこを叩けば、奴らにとって大きな痛手となるな」
予想以上の成果に、アシュレーの胸はにわかに昂ぶった。
アーヴィングは地図の地点特定を優先して行うよう改めて教授に依頼し、それから隊員に向けて指示をした。
「教授の作業が完了するまで諸君は現地で待機とする。雪道の強行で疲れただろうから、今夜は宿でゆっくり休むといい。それから──リルカ君」
「は、はいッ」
「君は後で職員室に行って、きちんと休学手続きを行うこと。既に私から話は通してある」
「あう……お手数かけます……」
恐縮するリルカの隣でテリィがバーカと呟いて、それから悶絶する。足を踏みつけられたらしい。
アーヴィングの映像が消え、テリィがまだ顔を歪めながら装置から通信機を外す。その隙にリルカはさっさと研究室を出て行ってしまった。
「すみません、あのバカが迷惑かけて」
テリィは通信機をアシュレーに返しながら謝る。まるで身内のような口振りにアシュレーは苦笑しつつ。
「リルカにはいつも助けてもらってるよ」
そう言うと、テリィは訝しげな視線を向ける。
「ええ? 本当ですか?」
「ああ。けど……」
閉められたばかりの扉に目を遣りながら、アシュレーは言った。
「本人は、まだ気づいてないかもしれないな」
用意された休学届にサインすると、リルカは席を立ってそれを教壇の先生に手渡した。
「確かに、受け取りました」
受け取った書面に目を通してから、主任のマリー先生が言う。
「ひとまず休学の期間は定めず、無期限ということにしておきます。ARMSでのお仕事が済んだら、いつでも帰ってらっしゃい」
「はい……ありがとうございます」
優しい眼差しを避けるように、リルカは下を向いて返事をした。
魔法使いというより「いいトコのお嬢さん」といった感じのマリー先生。清楚な白いブラウスに腰まで伸ばしたさらさらの髪。物腰も柔らかく、言葉遣いや仕草も上品だ。
だけど。いや──だからこそ、リルカは少し苦手だった。元から苦手だったし、それに──。
「リルカさん」
呼ばれて顔を上げる。先生の顔からは笑みが消えていた。
「その……何の慰めにもならないことはわかってるの。でも、本当に……」
ごめんなさいと、辛そうに先生は頭を下げた。
「止めるべきだったのです。嫌な予感はしていたのに、そのまま続けさせてしまった……私のせいなのです」
額に手を当て深刻に息をつくマリー先生を、リルカは無表情で見つめる。
「あの子はとても優秀でした。掛け値なしの天才だった。だからこそ……私もあの子の力を過信してしまったのです。あのような危険な実験も、彼女ならできるかもしれないと期待してしまった。それが……間違いでした」
優秀だった。天才だった。間違いだった。
積み重なった過去形が、リルカの心を冷たくする。
──そう。
いなくなったヒトの話は、ぜんぶ過去になってしまうんだ。
気持ちを置いてけぼりにして月日は流れ、過去はもっと過去になって、記憶は曖昧になり、知っているひともどんどん少なくなって。
そうしていつしか、薄っぺらな言葉でしか表すことができなくなるんだ。
優秀だった魔法使い。エレニアックの魔女っ子。
それが──わたしの大好きなお姉ちゃん。
「迷惑かもしれませんが……あの子に代わってあなたを見守ることが、私にできる唯一の贖罪だと思っています。どうか、決して無理をなさいませんよう。元気な姿で再び学校に戻ってくることを願います」
言うだけ言って、マリー先生は教室を出て行った。
リルカは教壇のすぐ手前の机に座り、足をぶらつかせながら無人の教室を眺める。
辛かったんだろうな、とリルカは思う。ずっと溜め込んでいたものを、思わず吐き出してしまったという感じだった。
でも。
こっちだって色々と溜まっているんだ。他人の吐き出したモノを受け止める余裕なんて──ない。
あれから一年近く経ったけれど、まだ気持ちの整理はついていない。頭の中は寮の自分の部屋と同じように、ずっと散らかったまま。ちっとも変わっていない。
時間が経てば、外に出ていろんなことを経験すれば、そのうち整理もつくと思っていたのに。
──逃げただけ、だったのかもしれない。
部屋から逃げても、散らかったモノは片づかない。結局は部屋に戻って、自分でひとつずつ片づけるしかないんだ。
でも。やっぱり──。
「帰ってくるなり、居残りか」
リルカは振り向く。入口に憎たらしい顔がこちらを見ていた。
「このくらいの時間まで、よく居残り勉強させられてたよなぁ。終わらないって泣きベソかいて」
「そんなわたしを、あんたはいちいち見に来てたよね」
リルカは机から下りて、真顔で見つめ返した。テリィは少したじろいだものの、すぐに意地の悪い顔に戻る。
「ふん。バカはからかい甲斐があるからな」
「そうだねぇ。相手してくれるのが嬉しいんだよね。構ってちゃんのお子様テリィ」
「なッ」
間抜け面のまま固まるテリィの横を素通りして、教室を後にする。
「おい、リルカッ」
背中に声を浴びせられて、リルカはしぶしぶ振り返る。
「なに。気安く名前呼ばないでよ」
「お前、本当にARMSを続ける気なのか?」
「そうだよ」
「そうだよって……」
テリィはまた言葉を失いかけたが、すぐにキッとリルカを睨み。
「お前な、自分が何してんのか、わかってんのか」
「わかってるよ」
「わかってねぇッ」
つかつかと歩み寄り、息がかかるくらいの距離で向き合う。リルカはその視線を避けるように顔を背ける。
「ARMSって、テロリストと戦ってんだろ。しょっちゅう危険な目にも遭ってるんじゃないのか」
「そうだね。もう二三回は死にかけたかな」
「ふざけんな」
「ふざけてないってば!」
我慢できず、リルカも声を荒らげた。
「もう決めたんだから。お姉ちゃんの代わりにARMSで頑張るって。そりゃ危ないコトもあるけど、それでも今まできちんとやってこられたんだから、あんたにウダウダ言われる筋合いはないのッ」
「嘘だな」
語気鋭く切り返されて、リルカは思わず怯んだ。
「お前、実はずっと無理してんだろ。自分が場違いなんじゃないかと思い始めてんじゃないのか」
否定しようとしたが、言葉が出なかった。
──図星だったから。
ひた隠しにしていた、自分のイヤな部分。そこに土足でずけずけと入り込まれたみたいで──悔しかった。
顔に出る前に、リルカは背中を向けた。
「お前はお姉さんとは違うんだよッ」
その背中に、テリィは容赦なく言葉をぶつけてくる。
「どんなに背伸びしたって、お前はお姉さんにはなれやしねぇんだ。いい加減に気づけよ、このバカ……」
テリィは途中で言葉を呑み込んだ。
振り返って、刺し殺してやるくらいに睨んでやったから。
「……だいきらい」
首を戻して、早足で離れる。
廊下の角を曲がり、テリィの視線を感じなくなると、ようやく肩の力が抜けた。
「……ああ、もう……」
ふらふらと壁際に近づいて、額で壁をこつんと小突いた。煉瓦の冷たさが上せた頭にじんわり沁みていく。
「やっちゃったなぁ……」
憎まれ口を叩いて、怒鳴り合って、捨て台詞まで吐いて。
こんなのちっとも、わたしじゃない。
シエルジェに戻ってから、すっかり調子が狂ってしまった。「いつものリルカ」を演じきれず、ボロばかり出している。
「だから帰りたくなかったのに……」
色んなモノを残したまま、リルカは故郷を出た。戻ったらその「色んなモノ」と嫌でも向き合う羽目になることはわかっていた。
どうにかやり過ごすことができたらと思っていたけれど──やっぱり無理だった。むしろ下手に立ち回ったせいで、真正面からぶつかってしまったかもしれない。
自己嫌悪から抜け出せず何度目かの溜息をついたとき、ふと寄りかかっていた壁の装飾が目についた。
青い雫型の石が、レリーフの中心に填まっている。
校舎の廊下やエントランスには、創設者である魔導士の私物とされる道具が陳列してある。それらがどういうアイテムなのか、生徒は入学のときに校舎を回って一通り教えられるのだが。
確か、この石の名前は。
──なみだのかけら──。
鮮やかな青から、目が離せなくなる。吸い込まれる。
魔法の道具は、それだけで人を魅了する力を秘めている。持ち主の心が強くなければ取り憑かれてしまうこともあるという。
いけないと思う間もなく、意識が青く染まっていく。
空の色に、海の色に、涙の色に──塗り潰され、乾いた心をひたひたと満たしていく。
やがてそれは少女の内側から、ほんのわずかだけ溢れ出て。
目尻に──ひとしずくの涙を作った。
「リルカ?」
名前を呼ばれ、一気に意識が引き戻される。
はっとして慌てて振り返った、そのはずみで。
なみだのかけらが──目尻からこぼれ落ちた──。
「あ……」
リルカは頬を押さえる。
目の前には、アシュレーが立っていた。
驚いている。涙を──見られた。
いちばん見せたくないものを、よりによって──。
「あ……う……」
誤魔化そうと笑顔を作ったが、うまく笑えない。
言い訳しようと口を開いたけれど、言葉が出てこない。
そうしている間にも、緩んだ瞳からはぽろぽろと零れてしまって。
止めようと思えば思うほど、止まらなくなって。
見られてしまったことが、悔しくて。
恥ずかしくて。
いろんなモノが、頭の中でごちゃ混ぜになって。
「あうう……ぁ、うぅ……」
リルカは屈み込んで、嗚咽を上げた。
止まらない。一年分の涙が、後から後から溢れてくる。
立ちつくす青年の足許で、演じることを放棄した少女は──ただひたすら、泣き続けた。
シエルジェの魔法学校には、別館として博物館が常設されてある。収蔵品の多くは著名な魔導士が愛用した道具や装備品であり、その一部が展示され無料で閲覧できるようになっていた。学校が管理する施設としては最も新しく、開設から十年と経っていないが、それでも敷地の中央に鎮座する巨大な建物と時計台は学術都市の新たなシンボルとして、住民たちにも浸透しつつあるという。
「凄かったなぁ、最後の」
売店で買った飲み物の瓶を片手に、アシュレーが感嘆する。
「大きかったもんねー。三メートルはあったかな」
リルカも隣で両手を広げて請け合う。気分転換にと誘われて一通り見学を終え、今はロビーの休憩所で休んでいるところだった。
彼らが最後に回った博物館の上階は、未知の生物や未解明の技術を紹介したスペースとなっていた。中でも『枯れた遺跡』で目撃されたというモンスターの想像模型は、その奇怪な形状もあってひときわ強烈なインパクトを放っていた。
「『枯れた遺跡』は行ったことあるけど……あんなのが棲んでいそうな場所とは思えないけどなぁ」
「いたんだよ、きっと。暗がりから、こうウネウネって」
腕を出して真似をしてみせるとアシュレーは笑って、それから笑いごとじゃないなと困った顔をする。
「もう、あの遺跡に入れなくなった気がする」
「どうする? オデッサのアジトがあそこだったら」
リルカも笑った。
何だか、久しぶりにちゃんと笑った気がした。
「ここにはよく来ていたのか?」
「ん。四、五回くらいかな。最後に来たのは二年前だっけ。お姉ちゃんと一緒に……」
二年前の記憶を思い返していると、アシュレーの視線を感じた。神妙そうに見つめている。
──ああ。
ずっと気を遣われていたんだろうな、とリルカは思う。
「やっぱり気になるよね。お姉ちゃんのコト」
「いや、その……」
アシュレーはばつの悪そうに頭を掻く。
以前から気にされていたのは知っていた。それでも聞かれなかったのは……リルカがそれとなく避けていたのを察したからか。
「アシュレーは優しいね」
「……何だよいきなり」
怪訝な顔をする青年に、リルカは敢えて言葉を返さなかった。
そして、遠い目をする。
近くて遠い、あの頃に──思いを馳せる。
「お姉ちゃんはね、わたしに似てたんだよ」
「え?」
意外そうな反応に、リルカはムッとした。
「なに、その『え?』ってのは」
「あ、ええと、その……」
言葉を濁すアシュレーに大袈裟にむくれてみせ、それから口許を緩める。
「まぁ、中身が月とスッポンだったのは認めるけどさ。でも見た目はホントに似てたんだよ。……ううん、そうじゃないか」
自分の方が、姉に似せていたのか。
髪型も、着るものも、話し方や振る舞い方も、ぜんぶ彼女の真似をしていた。
わたしにとっての憧れだったから──。
「この服もね、お姉ちゃんのお下がりなんだ。仕立て直してはあるけど」
マントとセットになった、赤いワンピース。
自分には派手すぎて似合わないと思った。けれどお姉ちゃんが似合うよと言ってくれたから──喜んで着た。
お姉ちゃんになれたみたいで、嬉しかった。
──だけど。
「でも、お姉ちゃんの服には……こんなのついてなかったんだよね」
マントを手繰り寄せて、裾についている金属の飾りを持ち上げる。
「コレのこと、前に話したっけ?」
「確か……魔力を増幅させる器具って」
「そ。ついでに言うとコレも同じ効果があるの」
リルカは胸許についている星型のブローチを抓んで示す。
「魔力の量ってね、八割は生まれたときに決まっちゃうんだ。生まれつきすんごい魔力を持ったひとは、それだけで大魔法使いになれるのが約束されたようなものなんだけど」
まぁ、お姉ちゃんがそうだったんだけど、とつけ加えてから続ける。
「逆に最初から持ってる魔力が少ないひとは、どれだけ頑張って鍛えても、すんごい魔力のひとには全然かなわないんだよね。だからこういう増幅器をつけてかさ増しするわけ」
増幅器をつけて、ようやく半人前。
それが──認めたくないけれど──リルカの今の実力だった。
「小さいときからずっと、わたしはお姉ちゃんの真似をしてきた。言い訳じゃないけど、お姉ちゃんもわりとちゃらんぽらんな性格だったんだよ。そのせいでわたしもこんな仕上がりになっちゃったんだけど……でも、ひとつだけ、どうしても、絶対に真似できないものがあった。それが」
──魔法の才能。
姉にあって自分にない、唯一のもの。
そしてそれが、彼女と自分との違いを決定づけた。
「リルカは、お姉さんのこと……」
「好きだよ。でも……やっぱり、嫉妬もしてたかな」
彼女にできることが、自分にはできない。
そのことがとても悔しくて。けれど、どうしようもできなくて。
いつしか、そんなことができる彼女自身を恨むようになっていた──。
「好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。そういうことが普通にあるのがヒトの心なんだと、わたしは思う。だから、お姉ちゃんのこともときどき嫌いになったし、嫉妬もした。けど、それでも大好きだったのはホントなんだよ。だって、あのとき」
あのとき。
閉ざされた扉の前で、リルカは。
「悲しかったんだ……ホントに」
俯いて、瞳に力を込める。もう泣かないと決めていた。
「やっぱり、お姉さんは……その」
「死んでないよ。いちおうは、ね」
言葉を選びあぐねて戸惑うアシュレーが少し可笑しくて、おかげで気が紛れた。
「一年くらい前に事故があったんだ。別々の空間を魔法で接続するっていう難しい実験で、うまく行けばライブリフレクターみたいに離れた場所を行き来できる装置が作れたんだけど」
「失敗……したんだな」
「うん……実験のリーダーだったお姉ちゃんが、異空間に閉じ込められちゃって」
離れた二つの地点を接続するため、その間にある実空間を圧縮し、魔法で作った異空間に落とし込む。
そして複雑なパズルのようになった異空間に直接入り込んで、実空間に繋がる『扉』を開けなければならなかったのだが──。
やり方を間違えた彼女は、逆に『扉』に閉じ込められ。
「今も……異空間に?」
目を見開いて驚くアシュレーに、リルカはこくりと頷く。
「あっちは時間が流れていないんだ。だから死ぬことはないけれど、その代わり」
永遠に、開かずの扉の向こう側に。
「助け出すことは……できないのか?」
「お姉ちゃんがミスったせいで、パズルがいっそう複雑になっちゃった。解き方もわからないまま入っても、また誰か閉じ込められるだけ。だから……先生がパズルの入口を封鎖しちゃったんだ」
本当ならば、封鎖する必要などなかった。けれど。
わたしが──無断で入ってしまったから。
自分が姉を助けるんだと、無茶をしてしまった。
「お姉ちゃんの声は聞こえるんだ。話もできた。けど姿は見えない。でっかい扉が邪魔で……押しても叩いても魔法をぶつけてもビクともしない」
程なくしてリルカは教授たちによって救助された。下手にパズルに手をつけず、力ずくで破ろうとしたのがむしろ幸いした。
そして、再び彼女が侵入することを懸念した教授たちが──入口を封鎖したのだった。
「助けに来た先生に連れ出されるとき、わたしは泣きじゃくって、取り乱しちゃって。そのときお姉ちゃんが……わたしに話しかけていたんだけど」
──ね。リルカ。
──もう──で。
──わたしは──の──、とても──から。
────でも、──を──で。
────だよ。
「最後にお姉ちゃんが何て言ったのか、後になってすごく気になって……でも、もう聞けないんだよね。バカだなぁ、ホントに……」
堪えきれずに鼻を啜ったが、アシュレーは聞かなかったことにしてくれた。
リルカは顔を上げ、声を励ましつつ話を続ける。
「事故からしばらくして、お姉ちゃん宛に手紙が来たの」
「アーヴィングの……手紙か」
姉に届いた、新設部隊への参加要請。
それを読んで──彼女は決心し、街を出た。
「お姉ちゃんの代わりが務まるなんて、本気では思ってなかった。わたしだってそこまでバカじゃない。ただ、街を出る言い訳が……ほしかっただけ」
姉の不在は、彼女の周囲に様々な変化をもたらした。
やたらと同情され、励まされ、腫れ物に触るように扱われ、これまで以上に姉と比較され──。
そして、何よりも辛かったのが。
「シエルジェは、お姉ちゃんの思い出が……多すぎるんだよね」
廊下に、教室に、寮の部屋に──姉の影を見て、その度に言いようのない喪失感と、ほのかな罪悪感を覚え。
居たたまれなくなったリルカは、結局──逃げた。
「けど、あんな書き置きを残して家出なんて……アーヴィングに断られたら、どうするつもりだったんだ?」
「さあ。なーんも考えてなかった。とにかく街から出たいって、それだけだったから」
もしかしたらお屋敷のメイドとかやってたかもねと冗談を飛ばしたが、アシュレーは眉間に皺を寄せる。
「ま、おかげさまでARMSに拾ってもらったから、路頭には迷わずにすんだよ」
「あのなぁ……」
呆れるアシュレーに、リルカはいつものように笑ってみせた。
──が、それも長くは続かずに。
「でも……やっぱりときどき考えちゃうんだよね」
「考える?」
「わたしがココにいていいのかな、って」
半端な気持ちのまま参加したARMS。力不足を感じつつも、自分なりに頑張ってきたつもりだったけれど。
「なんの取り柄もないフツーの魔法使いが、みんなと一緒にテロリストと戦ってるってのが、なんかこう……不釣り合いな気がするんだよね。元々選ばれたのはお姉ちゃんなんだし、なんていうか……場違いかなって」
テリィと同じ言葉を使ってしまったことが悔しくて、唇を噛む。
「そんなことは……」
アシュレーは途中で口を噤んだ。否定しても慰めにならないことに気がついたのだろう。
そう。結局は──自分の気持ちの問題なんだ。
「それでもさ、いちおう唯一の魔法使いだったから、それなりにみんなの役には立ってきたと思うんだ。でも、ティムが入ってきて……」
「ティム?」
アシュレーに聞き返されて、しまったと片目を瞑る。
そこまで話すつもりはなかったのに。
──しょうがないか。
嫌われるのを覚悟で、リルカは全てをさらけ出す。
「ティムは魔法使いじゃない。それはわかってる。でもポジションは被ってるから……どうしても、比べちゃうんだよね」
自分と比較して、その度に自分の力のなさを痛感して。
せっかく見つけた自分の居場所が、奪われてしまいそうで──。
「ここに来るときに、魔物と戦ったでしょ。ティムが火の術であっさりやっつけて」
「ああ」
「あのとき、思っちゃったんだ」
思い出してしまったんだ。
「『やっぱり才能には勝てないのかな』って──」
「……ああ」
かつて姉に対して抱いていた嫉妬。それが再び蘇ってきて──。
ほんの一瞬だけ、この子のことが。
嫌いになってしまったんだ──。
「わかってる。そんなの僻みだって。わかってるんだけど……思っちゃったものは、どうしようもないんだよねぇ……」
汚い自分の本性に気づいて。見たくないモノを目の前に突きつけられて。
少女は膝を抱えて、俯いた。
長い沈黙が続いた。閉館間際の博物館は人気もなく、しんと静まり返っていた。
「でも、ティムのことは嫌いじゃないんだろ」
「うん」
「お姉さんは?」
「好きだよ。大好き」
「今でも、お姉さんみたいな魔法使いになりたい?」
「なれないよ」
「それでも、なりたいと思ってる」
「……うん」
リルカの前には、いつも彼女がいた。
憧れだった。嫉妬もしていた。好きだったし、嫌いだった。
ずっと彼女のことを考えて、生きてきた。
その彼女が目の前から奪われ、憧れも嫉妬もぜんぶ消えて。
目標を見失った少女は──迷ってしまった。
──ああ。そっか。
わたしは、ずっと迷子だったんだ。
迷ったことすら気づかずに、あちこち行ったり来たりして。
いつしか、ひとりぼっちで泣いていた──。
「迷ったときは、最初に戻ってみるといい」
アシュレーの穏やかな声が、耳に心地よく響く。
「僕もARMSに入ってから、これでいいのかって時々迷うことがある。そんなときはタウンメリアに戻って、自分の気持ちを確認するんだ。家に帰って、この場所で決意したことをもう一度思い出して、迷いを吹っ切る」
「それで……吹っ切れるの?」
「完全には無理だけどね。それでも、もう一歩進むための活力にはなる」
そうやって一歩ずつ進んでいくしかないんだと、自分に言い聞かせるように青年は言う。
「リルカの原点はお姉さんなんだろ。だったら、そのままお姉さんを目指していけばいい」
「無理だよ。才能ないし」
「ないのか」
「さっき説明したでしょ。魔力の量が……」
「八割は生まれつき、か。けど残り二割は何とかできるんだろ」
「たった二割だよ。そんなもの伸ばしたって……」
「めいっぱい伸ばせば、八割だけの人には勝てるかもしれない」
リルカは閉口して、それから頭を抱えた。
「簡単に言うなぁ……なんも知らないくせに」
「そう。知らないからな」
アシュレーは少し戯けてみせ、それから正面を見遣った。
「お姉さんも魔法のことも、僕は話でしか知らない。僕が知っているのは、才能ないくせにお姉さんになりたくて背伸びしている女の子のことだけ」
「うわ、ヒドい言われよう」
「自分で言ってたじゃないか」
「ヒトに言われると腹立つんだよ」
リルカはぷうと頬を膨らませて、その顔を抱えた膝に載せた。
「そのままでいいと思うよ、僕は」
「いいのかな」
「僕は今のリルカしか知らないし、今のリルカのままで」
僕は好きだよ──と、アシュレーは言った。
「すッ」
好き──?
それって──いや、待て、勘違いしちゃダメだ。
そう、そういう意味ではないんだ。だって、このひとには──。
「はぁ……」
リルカはまた頭を抱えた。
「ひどいなぁ、アシュレーは」
「さっきは優しいって言ってたじゃないか」
「優しいから、ひどいんだよ」
そう言うと、踏ん切りをつけるように勢いをつけて椅子から跳び下りた。
「わかったッ」
そしてアシュレーの前に立つと、宣言した。
「リーダーがいいって言うなら、わたしも今まで通りで行かせてもらいますんで、そこんとこよろしく。だけど」
もしも、また心が挫けそうになったときは──。
「……また、つき合ってくれる?」
「今日みたいなので良ければ、いくらでも」
アシュレーは屈託なく笑った。
その笑顔が、冷めた心に再び火を灯す。
──ああ、やっぱり。
薄々感づいていたことでは、あったけれど。
この気持ちは、たぶん──間違いなく──そうなのだろう。
せっかく隠していたことをさらけ出したのに。
また、隠しごとが増えてしまった──。
「ねえ、アシュレー」
この際打ち明けてしまおうと、リルカは思いきって口を開いた。
「わたしね、たぶん」
あなたのことが──。
機械音が響いた。足許の荷物から出ている。
アシュレーは通信機を取り出して応答する。そして──顔を曇らせた。
「緊急事態だ。すぐに戻ろう」
「どうしたの?」
リルカが尋ねると、青年は険しい表情のまま、告げた。
「解析中の端末が……研究室から盗まれた」
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