小説 WILD ARMS 2
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序章
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第一章
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第二章
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第三章
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第四章
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第五章
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第六章
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第七章
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第八章
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終章
不安が、いつまでも消えない。
唇を噛む。汗ばんだ手を握り締める。大きく深呼吸もしてみたけれど、乱れた心は一向に収まらない。
帰りを待つのは慣れているはずだった。この半年、彼女は何度も旅立ちを見送ってきた。留守の間は戦地にいるであろう彼を想い、時には余計な想像をして身を案じたりすることもあった。
けれど。
──何か、違う。
今までとはどこか異なる、不快な焦燥感。居ても立ってもいられないような気持ちが、朝からずっと続いている。
今回の任務が特別な、とても重要なものということは聞いていた。その事実が自分にも昂ぶりをもたらしているのだろうか。
それとも。
やっぱり……これは。
──胸騒ぎ。
頭に浮かんだその言葉を、すぐさま打ち消す。認めてしまったら、待つのが耐えられなくなる気がしたから。
信じよう。信じて、いつも通りに待ち続けよう。
彼の港になるんだって、決めたのだから。
帰ってきたら、いつもと同じように出迎えて、
『おかえりなさい』って──。
項垂れた額に拳を当てて、彼女は祈る。
どうか、どうか届きますように。
この想いを。この気持ちを。
願いを託した、思念に込めて。
遥か遠くの、あのひとのところへ──
「アシュレー」
彼女の拳の内側から、仄かに光が洩れていた。
巨大な槍が刺さってるみたいだと、リルカは思った。
ギルドグラードから山脈を隔てた、南西の高台。人も獣も寄りつかない不毛の地に、目的の魔界柱は聳えていた。毒々しい色をした柱は地面に対して垂直でなく、やや斜めに傾いている。突き立った槍に見えたのはそのせいかもしれない。
──それにしても。
「よくもまあ、こんな気ッ色悪いモノ作ったもんだ」
真っ黒な支柱に、生き物のように脈を打つ青い管。魔法の道具や武器にも奇妙な形をしたものは多いが、これは明らかに異質だった。
「魔界柱なんて、変な名前と思ったけど」
これならピッタリだと、彼女は心の中で納得する。別の世界から持ってきたと言われた方が、確かにしっくりくる。
直視に堪えられなくなって、彼女は顔を背け、ついでに後ろを見た。
ティムが杖を抱えたまま、粗相をした犬みたいに情けない顔で固まっている。緊張しているのか、それともまたテレポートで酔ったのか。
「大丈夫? お漏らしでもした?」
「し、してませんッ。変なこと言わないでください」
こんなときに、という最後の言葉はか細くて、ほとんど聞き取れなかった。
一応、気を遣ったつもりだったのだけど。
「そう。なら、さっさと行くよ」
「え、ま、待って……」
まごつくティムを見限って、リルカは柱へ向けて歩き出す。こちらにしても、あまり構ってやる余裕はない。
もう少し、近づかなければ。
慌ててついてくる少年を後目に、彼女はそっとポーチを開けて中をまさぐる。見慣れた魔法道具の合間に、小ぶりなリンゴほどの球が紛れていた。
バイツァダスト──魔界柱の破壊のために持たされた魔導爆弾。威力は彼女もよく知るところだが、対象に直接ぶつけなければ発動しないのが難点でもある。使うには、投げて届くところまで自力で接近する必要がある。
破壊の決行は十一時。まだ時間に余裕があるとはいえ、何があるかわからないので早めに到着しておきたいところだった。
できたら何も起きてほしくはなかったけれど──。
「リルカさん……」
そんな虫のいい話もなく。
「……ん」
行く手に、人影が見えた。
悪趣味な柱を背にして、誰かが待ち構えている。
リルカは内心でため息をつき、それから一定の距離を置いたところで足を止め、相手を見返した。鬱陶しいくらい長い前髪に、ローブのようなひらひらした軍服。
──あいつか。
「貴様たちか」
男にしては甲高い声が、曇った空に吸い込まれた。
「予感はしていたが……これも天の配剤か」
「廃材? よくわかんないんだけど」
惚けてみせると、小馬鹿にするように見下された。やっぱり苦手なタイプだ。
「えっと……名前なんだっけ。キザイヤミで憶えたから忘れちゃった」
その視線に負けじとリルカも言い放つ。少しは効いたらしく、キザイヤミは生白い顔をやや赤くして答えた。
「オデッサ特戦隊、コキュートスが第一界円。貴様ら咎人が堕ちる冥府の名と知れ」
「冥府でも銘菓でもいいけどさ」
そこ、どいてほしいんだけど、とリルカはひとまず頼んでみた。
「用があるのは、そっちのキモい柱だから。どいてくれたら見逃してあげるよ」
「ふん。口だけは一人前だな」
彼女の提案を、カイーナは鼻で笑って一蹴した。
「貴様こそ尻尾を巻いて逃げたらどうだ。先の対決で力の差は思い知っただろうに」
「逃げるんだったら最初から逃げてるっての。ヘナチョコキザイヤミ」
悪口を上乗せしてやったが、今度はあまり効き目がなかった。
「覚悟の上ということか。ならば何も言うまい。この──」
言いながら胸の前に手を翳す。ローブの飾り石から光が奔り──。
頭上に、巨大な鍵が出現した。
「魔鍵『ランドルフ』の名の許に、望み通り葬ってやろう」
「望んでないって」
やるしかない、か。
リルカも腹を決め、ポーチから呪符の束を出した。前回と同じように、それぞれ魔法の準備を始める。
あのイヤミ男が言う通り、一対一の決闘で勝ち目がないのは──悔しいけれど──認めざるを得ない。
だから。
「作戦通りに行くよ」
一枚ずつ呪符に魔力を込めながら、横のティムに小声で伝える。
「は、はい……やってみます」
今回は、力を借りる。いや、借りるどころじゃない。
この子こそが──頼みの綱だ。
「遠慮しないで、思い切りぶっ放して。あんたならできるから」
発破をかけると、ティムは神妙に頷いてみせた。固いのは相変わらずだけど、さっきよりはマシな顔になっている。
頼んだよ、と最後に念を押してから、リルカはカイーナに向き直る。
「決闘──では、ないな」
カイーナは目を細め、リルカの肩越しに背後のティムを見遣る。少年はあらかじめ渡しておいたクレストカプセルで魔法反射を張っているところだった。
「さしずめ貴様が前衛でひっかき回し、こちらが隙を見せたところでガーディアン発動──といったところか」
見透かされている。でも。
それも織り込み済みの作戦ということには──たぶん、まだ気づいていない。
大丈夫。きっとうまく行く。
心の中で自分を励ましながら、リルカは呪符の束から一枚引き出し、パラソルに魔力を転移させた。
「やっぱり先手必勝ッ」
今回もこちらから仕掛けた。パラソルを振って炎球を飛ばす。
炎はカイーナが突き出した鍵に吸収された。立て続けにリルカは冷気を、岩塊をぶつけるが、やはり手応えは薄い。
難なく魔法を受け切ったカイーナが反撃に転じた。鍵の先端から放たれた光線が彼女の足許に炸裂する。怯んでいるうちに二発目の光線が後ろのティムを襲った。光線はティムを包む膜に弾かれ、そのままカイーナに跳ね返ったが、それも鍵がもれなく吸収した。
そして。
「なッ」
ティムの防護膜が──壊れた。光線の当たった部分からひび割れ、やわな硝子のように砕け散って消失した。
たったの一撃で──!
いきなりの誤算にリルカは浮足立ったが、すぐに歯を食いしばり、ティムを背に庇って立ちはだかる。
次にティムを攻撃されたら終わりだ。後は自分が体を張るしかない。
何が何でも、守り通す。そして。
隙を──作ってみせる。
反撃の間を与えないよう、リルカは手持ちの呪符を次々に発動する。迸る電撃も吹き荒ぶ旋風も、カイーナは顔色ひとつ変えずに受け流す。
「そんな教科書魔法、いくら使っても無駄だ」
余裕で言い放つ魔導士。だが。
「教科書を──」
その余裕が──油断の元だ。
「なめんなッ!」
パラソルを突き出し、ひときわ大きく気合を発した。傘の先端から衝撃破が生じ、目に見えない弾丸のように前方に発射された。
無属性魔法ゼーバー──彼女が初めて習得した、上位レベルの魔法。まだ魔力の方が追いついてなく、本来の威力には程遠いけれど。
思わぬ手札に驚いたか、カイーナの対応がわずかに遅れた。吸収しきれなかった衝撃破を食らって後ろによろめく。
今だ。
「ティム!」
振り向くと、少年は既にミーディアムを放り投げていた。鞄からプーカが飛び出し、空中で石版と結合する。
「しまったッ」
初めてカイーナが動揺を見せた。鍵を差し向けて攻撃を仕掛けたが一足遅く。
輝きの中で亜精霊と石版は、巨大な岩を外殻に持つ守護獣へと姿を変えた。
星のガーディアン──リグドブライト。
隕石の化身はさらに上空へと舞い上がり、空に穿たれた点ほどに小さくなると、そこから反転して猛然と落下を始めた。
熱を帯び、赫く尾を曳きながら落ちてくる守護獣に対し、カイーナは鍵を構えて防御の姿勢を取った──が。
ふいに手を止め、怪訝な顔をする。ようやく気づいた。
そう、隕石の落下地点は彼ではなく、その背後の──魔界柱。リルカたちは最初からこちらを狙っていたのだ。
自分自身を守るのは、そんなに難しいことではない。魔法で防ぐなり避けるなりすればいい。
問題は、自分以外に護らなくてはいけないモノがあるとき。しかもそれが大きなモノの場合は──そのまま、大きな弱点となる。
「くッ!」
慌ててカイーナが反転し、鍵を掲げた。魔界柱の上に防護壁を張ろうとするが、隕石の守護獣はその熱を感じるほどまで迫っており。
轟音と白熱する光の中で、ついに──接触した。
地面に伏せ、頭を抱えて衝撃に備えながら、リルカは勝ったとほくそ笑んだ。
悪夢を象った絵画のようだと、カノンは思った。
仄暗い森の中、樹木の合間に唐突として青く脈打つ柱が聳えている。目にするのは二度目なので、異様な造形にも驚きはなかったが。
──やはり、禍々しい。
見ていると、どこか生理的な嫌悪を喚起させられる。人間として──いや、生物として受け容れることのできない何かを、この物体は孕んでいる。
「ほう、あれが魔界柱か」
彼女の肩越しに、初老の男が覗き込んで声を上げた。
「大地のマナをエネルギーに転換し、無線で転送するという古代の装置。なるほど聞きしに勝る迫力であるな」
シエルジェから招聘された魔導技術の専門家。確かマクレガーと言ったか。この地点までテレポートで送ってくれたのだが。
「……早く避難しろ」
彼は一旦シャトーに戻る手筈になっている。カノンが急かすと、シエルジェの教授はない髭を擦るような仕草をして唸る。
「うむ。私としては非常に技術者魂に火のつきそうな代物なのだが……わ、わかった。帰るとしよう」
結局カノンに凄まれて、マクレガーはテレポートで戻っていった。
それを見送ってから、カノンは踵を返し、柱に近づく。
周囲に人の姿はない。気配も──いや。
いる。
彼女の鋭敏な感覚がそれを察知した、次の瞬間。
正面から何かが飛んできた。身体を捻って躱す。鼻先に一条の線が横切り、背後の樹の幹に突き刺さる。
──鋼糸。
「貴女がARMSに手を貸すなんて」
どういう風の吹き回しかしら──。
女の声が、森に響いた。
「……雇われただけだ」
カノンは応じつつ、鋼糸を視線で辿る。灌木の茂みに遮られて出所は確認できなかった。
「そう。英雄の末裔も物好きなことね」
何か機械でも使っているのか、声は幾重に反響している。位置を特定されないためだろう。やがて鋼糸が収められ、完全に手がかりを失った。
──どこにいる。
「一度はこちら側に身を置いて、私の仕事の手伝いもした。そんな貴女を」
そちらの『お仲間』は、本当に信頼しているのかしら──。
姿を見せず、言葉のみで動揺を誘う。この女の常套手段だ。
「信頼など……求めていない。私に必要なのは」
居場所。──いや。
「生き続ける『目的』……それだけだ」
沈黙。葉擦れの音ばかりが紛い物の鼓膜を擽る。
「……くだらない」
死角から鋼糸が飛んできた。カノンは間一髪で避け、懐の短刀を抜く。
どうやら気配を殺しつつ、移動しているらしい。人間の数倍の感覚をもってしても捉えきれない。
「アイシャ・ベルナデット。貴女は何故そこまで」
生きようと足掻くのか──。
矢継ぎ早に飛来する糸を短刀で斬り払う。このままでは埒が明かない。
「亡霊の分際で、いつまでこの世界に留まるつもりか」
「私は──」
もう亡霊ではない、とカノンが切り返す。
森の奥から、微かな反応を感じた。
「お前こそ、何故そこまで」
生きたくないと思うのか──。
再び気配が。こちらの言葉に動揺している。
ならば──試してみるか。
「ヴィクトリアの娘」
森に向かって、カノンは呼びかけた。
「あの内戦の後、お前は」
口を塞がんと頭上から鋼糸が降り注ぐ。カノンは跳び退いて躱す。
「敢えて仇敵に仕えることを選んだ」
次は四方から。背後の幹に回り込んで防いだ。
「スレイハイム王家の懐刀──ヴィクトリア家に伝わるこの暗器『刹』を、お前は」
王家に叛いた者のために使っている──。
「何故だ」
カノンは森に問うた。
自分と同じように、裏返しの復讐なのか。
それとも、この世界を諦めて──ただ流されているだけなのか。
「答えろアンテノーラ。……いや」
鋼糸によって破砕した木片が降り注ぐ中、彼女は最後の揺さぶりをかけた。
「ヴィクトリアの娘──『テレーゼ・ヴィクトリア』よ」
「黙れぇぇぇッ!」
金切り声と共に無数の鋼糸が一斉に襲いかかった。全身を貫かれる寸前で、カノンは真上に跳躍して回避する。
感情の乱れ。それが気配を露わにする。
──見つけた。奥の大きな橅の、枝葉の陰。
カノンは近くの樹にしがみつき体勢を変えると、幹を蹴ってそちらへ飛んだ。
橅の木を突き抜け、目の前に驚愕の表情をした女が現れる。そのまま短刀を繰り出したが、女は辛うじて後ろに避け、枝から落下した。
カノンは今まで彼女のいた枝に着地し、地面を見下ろす。
「意趣返しにまんまと嵌まるとはな。お前らしくもない」
刃が掠めたか、左腕を抱えて蹲りながら、アンテノーラは忌々しげにこちらを見返した。
海に棲む怪物の角のようだと、ブラッドは思った。
早朝、帆船二隻でタウンメリアを発ってから四時間。水平線にあの柱が姿を見せてからは半刻ほど経っただろうか。
海中に突き立つ青黒い柱は、近づくにつれその奇怪な形状が際立った。周囲に立ち込める海霧とも相俟って、あの世にでも迷い込んだような気分にもなった。
「ブラッドさん」
舳先付近の甲板でそれを眺めていると、背後から船長が声をかけてきた。
「このまま接近しても、大丈夫ですかい。その……アレの影響を受けたりとかは」
船長は横目で柱を窺いつつ、ブラッドに尋ねる。いかにも水夫然とした強面だが、やはり見慣れないものは怖いようだ。
「問題ない」
あれ自体は、単なるアンテナに過ぎない。昨日の説明を聞く限りは、こちらを攻撃するような装備もないようだ。
だが。
「……いや」
霧の合間に、それが見えた。
「船を止めろ」
「え? あ、は、はいッ」
船長は慌てて船尾に走り、操舵手たちに命令を飛ばす。
速度が落ち始めた。前に引かれる感覚を覚えながら、ブラッドは前方のそれを刮目する。
柱の手前、霧と波のあわいに揺らめく一艘の舟。こちらの帆船に比べると木の葉のように小さな舟だったが。
その木の葉の上に、櫂を持った大男が直立していた。
向こうもこちらに気づいたか、櫂を下ろして別の何かを手に取る。
金属の棍棒のような──巨大な武器。
「総員退避だ。隣の船に避難しろ」
船を停止させて戻ってきた船長に、ブラッドは再び命じた。
「へ、へぇ? 避難ですかい? 俺も?」
状況が呑み込めていない船長が目を丸くする。スレイハイムの英雄は前方を顎で示してから、重い声で続けた。
「これからこの船は戦場になる。巻き添えを食いたくなければ逃げろ」
ようやく察した船長が、再びすっ飛んでいく。
程なく同型の随行船が横づけされ、梯子が渡された。船員たちの避難が進む中、ブラッドは引き続き海上の男を牽制する。
男の乗る小舟からこちらの船までは、五十メートル余り。高さにしても十メートル以上の開きがある。尋常でない身体能力の持ち主とはいえ、足場の不安定な船上からこの距離を跳び移るのは不可能だ。かと言ってこれ以上接近すれば、帆船に搭載した大砲の餌食になるのは目に見えている。向こうもそれが判っているから近づかないのだろう。
どう出るか。
注視していると、男が武器を小脇に抱え、別の何かを手にした。そして。
いきなりそれを、こちらに放り投げた。高々と放物線を描き、振り仰ぐブラッドの頭上を越えて背後へと落下していく。
砲弾──いや、単なる鉛の錘か。ワイヤーらしき鉄線に繋がっている。
鉛錘は避難が済んで無人となった甲板を突き破り、下の船倉に落ちた。床板の穴から伸びたワイヤーはブラッドの脇を横切り、舳先から海上を渡って──。
舟の上の……男の手元に。抱えているのは巻上機か。
男はその円筒の機械に武器を差し込み、前に突き出すと武器を作動させた。巻上機が回転し、ワイヤーが勢いよく巻き上がる。
巻上機に引き寄せられた男は足を踏ん張り、小舟を波乗りの板さながらに操って海面を滑走する。帆船の手前まで迫ると、そのままワイヤーの巻き取りに任せて上昇して。
こちらが迎撃する間もなく、甲板の高さに達した。船縁に手が届くとそれを支えにして身軽に翻り、ブラッドの目の前に降り立った。
「よう、英雄さん」
隻眼の大男は武器から巻上機を外して海に捨て、それからニヤリと笑った。
特戦隊コキュートス──第三界円。禁術により身体能力の増強を施された、元解放軍の兵士。
「大した離れ業だな」
ブラッドは微動だにせず見返す。
「大砲ドカンで終わりなんて味気ないだろ。やっぱりサシで白黒つけねぇとな」
特にあんたとは、とトロメアは笑みを残したまま片目を剥いて凄んだ。
「バルキサスでは時間切れで終わっちまったからな。今日は」
「どちらかがくたばるまで──か」
ブラッドが応じると、巨漢のテロリストもおうよと口を曲げる。
「生き残った方が勝つ。いかにもはみだし者らしい、わかりやすいルールじゃねぇか。俺は、俺たちの居場所を──誰にも譲らねぇッ!」
啖呵を切ったトロメアが襲いかかる。ブラッドは背後に退避し帆柱の裏に回る。トロメアも追いかけ武器を力任せに振り回した。薙ぎ倒された帆柱が船縁を割って海へと落ちる。
間合いを測りたいブラッドに対して、トロメアはあくまでも距離を詰め、肉弾戦で叩きのめそうとする。大男たちの激しい攻防に舵輪は吹き飛び甲板は割れ、帆柱はことごとく折られていく。
このまま立ち回っていては、船が沈む。
むしろ──それが狙いか。こちらの船を二隻とも壊して沈めるのが奴の本意なのかもしれない。
その前に、決着をつけなければ。
ブラッドが反転攻勢に出た。隙をついて背後に回り込み、近くにあった舫い綱を取って巨体に巻きつけた。大型船を係留する頑丈な綱に、さしもの怪力も動きを封じられ。
体勢を崩した、その一瞬に。
ブラッドは手甲を嵌めた拳を背中に打ち込み、そのまま手首の撃鉄を弾いた。
至近距離で放たれた弾丸が炸裂し、トロメアが吹き飛んだ。巨体は船尾楼の下の扉をぶち破り、船長室の奥へと消える。
一瞬の静寂。ブラッドは破れた扉を凝視する。
瓦礫が崩れ、踏みしだく音。そして。
暗がりの中から、のそりと大きな影が姿を現した。
「痛ッてぇなぁ……ったく」
右手の武器を引きずり、左手で頸の後ろを掻きながら、トロメアは潰れた船長室を抜け出して前に立つ。服が破れて半裸となった身体には、痣ひとつ、血の一滴すら流れていない。
やはり、この程度の武器は通用しない。
この化物じみた男を倒すには──。
ブラッドは身構えながら、隣に停泊する船を一瞥した。
まるで地獄へと誘う灯台のようだと、アシュレーは口許を歪めた。
柱から視線を下ろし、前を向きながら肩を上下させる。息が上がっている。当然だろう。
かれこれ十分以上、銃弾を避け続けているのだから。
ジュデッカは眉間しか狙わない。予めカノンからその歪な趣向を聞いていたので、どうにかここまで無傷で済んでいたが。
──反撃の隙がない。
こちらが銃を構えようとすると、妨害するように攻撃が来る。射的の的さながらに、ここまで一方的に弾を浴び続けていた。
この男、かつては渡り鳥でも指折りの射撃の名手だったという。そもそもARMの腕で敵うはずがないのだ。本当ならばとっくに頭を撃ち抜かれていてもおかしくない。
弄ばれている。あるいは──時間稼ぎか。
仲間と示し合わせて、四体の魔界柱を同時に破壊する。こちらの目的は当然相手も承知しているだろうから、その刻限まで柱に近づかせない腹積もりなのかもしれない。
それなら。
──仕方ないか。
アシュレーは覚悟を決め、頭を低くして身構えた。
一方、丸眼鏡のテロリストは銃をだらりと垂らし、無防備を装っている。憎々しいことこの上ないが、これが奴の作法なのだろう。ある種の居合い抜きのようなものか。
こちらが下手に動けば──。
アシュレーが銃剣を掲げようとした、その刹那。
銃声。寸前で横に逃げたが。
「ぐッ……!」
体勢を低くしていたせいで、鉛の弾が肩を撃ち抜いた。衝撃と激痛に膝を折って肩を庇う。
だが、これで。
「あ、しまった」
ジュデッカも片目を瞑って声を上げた。そしてすぐに止めを刺そうと引金を引きかけたが、それより一瞬早く。
「アクセスッ!」
絶望と欲望。痛みによって喚起された感情を爆発させ。
纏った漆黒の甲冑が、放たれた鉛の弾を跳ね返した。
──災厄の黒騎士──。
変身したアシュレーはすぐさま地面を蹴り、ジュデッカの許に詰め寄ると。
右腕を繰り出し、手刀で腹を抉った。
噴き上がる鮮血を浴びながら、黒騎士は腕を収めて相手を見る。
終わったか。いや。
「嫌だナァ、もウ」
ジュデッカの顔が削げ落ち、眼鏡が落ちる。皮膚が溶け、痩せぎすの身体もみるみる赤黒く変質していく。
「結局、コウナルノカ」
赤黒い魔物は、鈍く光る両眼をこちらに向けて、牙を剥いた。
ここからが──本番か。
静けさが戻ってから、リルカは伏せていた頭を起こした。
まだ砂埃が舞っている。もうもうと漂う砂塵が風に浚われ、徐々に視界が開ける。
魔界柱は。カイーナは。
固唾を呑んで見守っていると、後ろのティムが声を上げた。
「プーカッ」
少年は駆け寄って、近くに転がっていたプーカを抱き上げる。
守護獣に変身していたはずの亜精霊が元に戻り、しかも気を失っている。
と、いうことは──。
「うそ……」
リルカは愕然とした。
砂塵の晴れた台地に聳え立つ魔界柱は──無傷のまま残っていた。
防護壁が……間に合った? あの一瞬のうちに隕石を跳ね返すなんて──。
「う、ぅ……」
柱の近くにカイーナが倒れていた。呻きつつ両手を地面に突き、頭を上げる。衝突の余波を食らったのか服は破れ、頭も身体も砂まみれだった。
オデッサの魔術師は何度か蹌踉めきつつも立ち上がり、こちらに歩き出す。
色白の顔は痣と傷だらけで、食い縛った口の端からも血がこぼれていた。
「……ろしてやる」
袖で口許を拭ってから、リルカの前に立った。
「閣下の……大願。その邪魔をする奴は」
こちらを睨む翠の瞳は、どこまでも真っすぐで、純粋な──。
「みんな……ころしてやる」
憎悪に、満ちていた。
──怖い。
むき出しの殺意を突きつけられて、リルカは初めて肚の底から恐怖を感じた。
そう、これは決闘でもゲームでもなく。
──人と人との、殺し合いなんだ。
頭ではわかっていた。なのに、それを今さら実感して。
足が──竦んでしまった。
「リルカさん……」
ハッとして、振り返る。
気絶したプーカを抱えたティムが、放心したように見つめていた。
──いけない。
怯んだ気持ちを、もう一度奮い立たせる。
自分だけではない。この子の命も、今はわたしが預かっている。
しっかりしないと──。
「ティム」
「は、はい」
「交代。あんたが前に出て」
「え?」
ティムはきょとんとして、それから言葉の意味を理解して焦り出す。
「今度はあんたがあいつを引きつけて。さっきわたしがやったみたいに」
「そ、そんな。でも」
「デモもストライキもない。時間ないんだから言う通りにするッ」
強い口調で背中を押してから、一転、優しい声色で。
「大丈夫。あんたならわたしと違って、いい勝負できる。その間に必ず何とかするから……お願い」
「わかり……ました」
ティムは不安そうな顔のまま頷き、プーカを鞄に仕舞うとカイーナの正面に立つ。華奢な背中は小刻みに震えていた。それでも懸命に、母親の形見の杖を構えて向かい合う。
──がんばれ男の子。
心の中で励ましてから、リルカは再び魔法の準備を始める。
もう魔力は残りわずか、使えても一回か二回が限度だろう。そもそもまともに使えたところで、自分の下手くそな魔法ではあの鍵使いは倒せない。
だから。
わたしなりの魔法で。わたしにしかできない魔法を使って。
絶対にぜったい──生き残ってみせる。
「殺してやるッ!」
カイーナが特大の火の玉を放った。対するティムは風の術で跳ね返す。
むきになった子供のように、頭に血の上った魔導士は魔法を連発する。ティムも必死に応戦し、ぎりぎりのところで踏み止まる。吹雪が雷が光線が飛び交い、地面が裂け、枯れた荒野にいくつもの竜巻が起こる。
魔法と術が激しくぶつかり合う中、リルカはじりじりと移動を始めた。カイーナは目の前の敵を倒すことに躍起になっていて、こちらを見向きもしない。結局気づかれることなく魔界柱の後ろに回り込み、陰からタイミングを見計らう。
「しぶといな。だが──これで」
焦れたカイーナが鍵を掲げた。異界の扉を開き、魔物の召喚にかかろうとする。
──今だ。
扉に集中したその隙を突いて、リルカは最後の魔法──フリーズを背後から繰り出した。
「なッ」
カイーナは咄嗟に身を翻す。その足元に氷柱が突き立った。
魔法を放ったリルカはすぐさま駆け出す。氷柱はただの目くらまし。本当の狙いは。
「何のつもりだ。こんなもの……ッ!」
氷柱の横から、飛び出した。いきなり姿を現した少女にカイーナは面食らっている。
リルカはさらに詰め寄ると、左手を伸ばして。
胸倉を掴んだ。
手が届く。ということは。
「油断したね」
「な、なに?」
「魔法使いしかいないと思って」
物理攻撃への対策を──怠った。
「教えてあげる。魔法使いでも──」
リルカは持っていたパラソルを地面に落とし、固めた拳を振りかぶって。
「殴れるんだッ!」
思いきり、頬を殴った。
細作りの身体が軽々と地面に投げ出される。思った通り、弱い。きっと喧嘩なんてしたこともないのだろう。
一方こちらはお手のものだ。テリィとの決闘ではいつも最後に取っ組み合いになって、そして必ず勝っていた。
もちろん魔法の勝負としては、反則なのだけど──。
少女は馬乗りになって、生っちょろい顔に容赦なく拳を叩き込む。今は決闘ではないから、反則もない。叩きのめした方が勝ちだ。
「や、やめろッ」
カイーナが裏返った声で止めさせようとするが、構わず殴り続けた。鳩尾に拳をねじ込んでから立ち上がり、そして止めとばかりに。
股間を、踏みつけた。
声ならぬ声を上げてカイーナは悶絶した。後ろで見ていたティムもなぜか悲鳴を上げた。
反撃がないことを確認すると、リルカは拳を収め、肩で息をする。手がじんじんと疼いた。力いっぱい殴れば殴った方も痛いのだと、初めて思い知った。
「り、リルカさん……」
「なに?」
まだ興奮が冷めきらない顔で振り向くと、やはり喧嘩と縁のなさそうな少年は縮み上がった。
「な、なんでもないです……」
ズボンの前を押さえて、涙目で首を横に振る。また恐がられる要因を作ってしまったかもしれない。
リルカはため息混じりに深呼吸し、それから下を向いて呟く。
「こんなの……魔法使いのやり方じゃない。でも」
生き残らなければ、意味がない。
だから、みっともなくても、魔法使いのプライドを捨ててでも。
「二人とも、生きて……帰りたいんだ」
帰れなくなった人のぶんまで、わたしは。
生きていないと──いけないんだ。
「……ぁ、う……」
ひとしきり悶えていたカイーナが、ようやく身体を起こした。背中を丸め、膝立ちのままこちらを恨めしげに睨む。頬には青痣が浮き、目の上は腫れ上がり、曲がった鼻からはしきりに血が滴っていた。
「こんな、屈辱を……こ、この、僕が」
譫言のように呟きながら、ふらふらと立ち上がる。そして鍵を構えた。
「え? ちょっと」
魔法を──使うつもり?
「やめなよ、そんな状態で使ったら」
「うるさい! よくも、よくもよくもッ!」
駄々っ子のように喚き散らしながら、鍵を掲げる。胸の飾り石が煌めいて、異界の扉が──。
彼の真後ろに、生じた。
「え?」
意図しない作用にカイーナが驚いて振り返った、次の瞬間。
奇妙に歪曲した穴から、ぬっと巨大な魔物らしき手が突き出て、目の前の彼を掴んだ。
「な、う、わああぁぁッ!」
抗う間もなく、魔物の手によってカイーナは闇の中に引きずり込まれる。
異界の扉は魔導士をすっかり呑み込んでしまうと、何事もなかったように閉じられた。主を失った銀の鍵も程なくかき消えた。
本当に、瞬く間の出来事だった。
リルカはひとしきり呆気にとられ、それから肩を落として、ぽつりと呟く。
「……『心乱れしとき、魔法用いるべからず』」
それが、魔法使いが一番最初に習うこと。
「教科書バカにするから、そういうことになるんだ」
やりきれない気持ちを吹っ切るように、彼女は亜麻色の髪を振って前を向く。
そしてポーチから取り出した球を手に、聳える柱に向かっていった。
赤髪の刺客を油断なく見据えながら、カノンは焦れた。
所定の刻限──魔界柱の破壊決行が迫っている。早く片をつけなければならない。だが。
──仕留めきれない。
攻撃を仕掛けても、のらりくらりと躱される。その身の熟しもさることながら、やはり一番厄介なのは。
スレイハイムの名家、ヴィクトリア家に代々継承される暗器『刹』──古代の技術を用いたこの特殊鋼糸は、彼の血族の脳波にのみ反応し、意のままに操ることができるという。鞭のように撓り、時には針のように硬化し、さらには電気まで自在に送り込める。半ば機械の身体であるカノンには脅威だ。
直接触れないよう注意しつつ、執拗に絡みつこうとする糸を幾度となく斬り払った。それでも新たな鋼糸が彼女の手元から次々と繰り出され、カノンを襲った。まるで尽きる様子がない。
このまま小競り合いを続けるわけにはいかない。武器を──あの鋼糸を、封じなければ。
カノンは義眼を凝らし、相手の手元を見る。
一体どこから糸を出して、どこに潜ませているのか。見極めようと何度も試みているが、どうしても判らない。手品師さながらの早業で、体の内部から放たれているようにしか見えない。
もし本当にそうならば、お手上げだが。
──もう一つの、可能性は。
確証はない。だが、もはやそれしか考えられない。
賭けてみるか。間違いならば致命的な反撃を食らうのは必至だ。それでも──。
カノンは迷わず動いた。直感と本能。彼女はずっとそれに従って生きてきた。
その直感が、願わくば──。
跳躍し、樹上から攻める。
アンテノーラが腕を蛇のように撓らせ鋼糸を放った。木から木へと飛び移り、カノンは回避していく。
──正しいことを。
橅の大木に辿り着くと、手頃な枝を刈り取り、外套を脱ぎ、それらをまとめて下に落とした。
枝葉に隠れて地面に降りたと勘違いしたアンテノーラが、そちらに鋼糸を放つ。
その一瞬の、間隙を縫って。
カノンは樹から飛び降ると同時に右腕を放った。短刀を握った義手が横からアンテノーラを襲う。
気づいた彼女が前に屈む。だが、その動きも計算のうち。
刃は彼女の後頭部を掠め──背中に下ろした赤髪を、
まとめて、切り裂いた。
「しまッ……!」
狼狽するアンテノーラ。それを後目にカノンは短刀を手放し、彼女から切り離した髪をまとめて掻っ攫うと、速やかに義手を引き戻す。
ワイヤーが巻き取られ、義手は元の手首へと収まった。
その手には──赤髪の束が。
「あ……あ」
項から下の髪を失ったアンテノーラは、腰が砕けたように座り込む。その反応でカノンは直感が正しかったことを悟った。
鼻で息を吐き、奪い取った髪の束に目を落とす。
嫋やかに波打つ紅の髪。その合間に、無数の鈍色の糸が紛れていた。有機体に巣くう──無機質な機械。
まるで自分みたいだと、そんなことも考えながら。
カノンは予備の短刀を懐から抜き、髪を放り投げると。
空中で刃を振るい、何度も切り刻んだ。
有機体の切片が、無機質の欠片が、辺りに舞い散り、森に戦ぐ風に吹かれて──何処かに消えた。
それを見届けてから、カノンは再び女に目を向ける。武器を奪われたオデッサの刺客は無防備に座り込み、短くなった赤髪を垂らして下を向いている。もはや戦意は……ない。
「去れ」
感情を殺した声で、カノンは言った。
「決着はついた。柱は壊され、オデッサも滅ぶ。お前はこのまま──」
「……駄目よ」
ゆらりと、彼女が面を上げた。乱れた赤髪の間から覗く双眸は虚ろで、焦点が合っていない。
「それじゃあ、駄目なの。私は──」
いきなり立ち上がり、身構えた。突き出した右手にはカノンの短刀が握られている。落としたものを拾ったのか。
「止せ。無駄だ」
彼女が扱えるのは、あの特殊な鋼糸のみ。普通の得物は素人同然のはずだ。やり合っても勝負は見えている。
そう諭そうとしたとき、不意に。
アンテノーラが、穏やかな微笑を浮かべた。そして。
刃の先を、自らに向けて。
躊躇なく──胸を突いた。
「何故だッ」
カノンが駆け寄り、頽れる身体を受け止める。豊かな乳房の間に短刀は深々と突き立っていた。柄に手を伸ばしたが、指先が触れる前に思い止まる。
刃は心臓に達している。抜けば大量出血して──死を早めるだけ。
「何故だ。どうして、お前は」
そんなに、死に急ぐ。
理解できなかった。
腕が千切れても、気が狂うほどの激痛に苛まれても、カノンは生きようと足掻いた。
それが当然だろう。誰だって、どんな生物でも最後まで生きたいと思うものだ。なのに。
どうして、この女は──。
「わからない……でしょうね。正直に生きてきた、貴女……には」
大量の血を零しながら、アンテノーラは絶え絶えに言葉を発する。
「わたしも……そんなふうに、生きたかった。でも……だから、せめて」
うそつきには、なりたくなかったの。
──嘘吐き?
その意味を質そうと顔を覗いたが、虚空に向けられた眼球は既に何も映じておらず。
薄く開いた唇が、今際に紡いだのは。
「とう……さ、ま」
そうしてヴィクトリアの娘は事切れた。
カノンは仰け反った骸を抱いたまま、煩悶する。
なぜ死ななければならない。どうして生きることを拒んだ。
死ねば何もかも失うだけだ。どれほど辛かろうと苦しかろうと、生きて、生き抜いて、生き続ける──そうでなければ、辛さも苦しみも全部無駄にになってしまうではないか。
だから、あたしは──。
知らずと力の籠っていた眦を緩め、それから静かに骸を下ろし、仰向けに横たえさせる。見開いた目を閉じさせ、口許の血も拭ったが、胸の短刀はそのままにしておいた。
全てを終えるとカノンは立ち上がり、今し方まで生きていた女を見下ろす。
森の中で木洩れ日を浴びて瞑目するその姿は、普段よりも幼く見えて、あどけなく眠る少女のようで──。
無性に、哀しくなった。
顔を背け、踵を返して、落ちていた外套を羽織ると彼女は歩き出す。
その義眼は、木々の向こうに立つ柱を捉えていた。
そろそろ限界かと、ブラッドは三白眼を動かして辺りを見回す。
船上はすっかり荒廃していた。甲板は穴だらけで下の船倉や船室が覗けたが、そこも何だかわからないがらくたで埋没している。自身が立っているのも樽やら荷箱やらの残骸の上。帆柱は当然のこと、舳先や船縁すらも失われ、巨大な木材の塊が辛うじて海に浮いている──そんな有様と化していた。
「この船も、だいぶサッパリしたなぁ」
視線に気づいたトロメアが、武器を担ぎながら言う。
「ぼちぼちあっちの船に移るか? 同じように暴れてサッパリさせてやるぜ。そしたら手前ェら」
陸に帰れなくなるなぁ──。
隻眼の巨漢は、そう放言するとげらげら笑った。
やはり、それが狙いか。だが。
「それはお前も同じだろう」
小舟は既に沈没している。奴にしても隣の船は帰るために必要なはずだ。
「けッ。トロメア様をなめんなよ。俺ァ板切れ一枚あれば帰れるんだよ」
「……なるほど」
ブラフなのか本気なのかは測りかねたが、ひとまず納得してみせた。
そして、瓦礫の上で右腕を構える。
限界ぎりぎりまで、この船で粘る。危険な作戦だが、確実に倒すためにはこれしかない。
隣の船で見守る船長に視線で合図してから、ブラッドは右腕のARMを放った。手甲から射出された弾は高速回転する相手の武器に難なく阻まれる。
トロメアは武器を稼働させたままブラッドに飛びかかる。ブラッドは瓦礫を滑り降り、撓む床板の反発を利用して回避した。頭上から振り下ろされた三本の刃が床を粉砕し、新たに空いた穴に瓦礫がなだれ込む。
残る足場は──。
既に折れた舳先の手前。トロメアを発見した際に立っていた場所だ。僅かに残る帆柱の基礎を飛び石代わりに、そちらへと跳んでいく。
一方トロメアもブラッドの通ったルートをそのまま辿って執拗に追撃する。刃を閉じて棍棒状になった武器を寸毫の差で躱しながら、ブラッドはじりじりと後退する。
そうして、遂に──船首の先端へ。踵に床の感触はなく、背後には暗い海が広がっている。
「追い詰めたぜ」
ニヤリと口許を吊り上げるトロメア。対するブラッドは。
両手を頭の上に挙げて──降参の姿勢を取った。
「なんだぁ? おいおい、英雄さんよ」
それはねぇぜと元解放軍の男は眉尻を下げる。
「こうして敵味方に分かれちまったけどよ、手前ェは今でも俺たちの憧れなんだ。スレイハイムの英雄が、そんなみっともねェ真似は」
「幻想だな」
相手の言葉を遮り、ブラッドは言う。
「なんだと?」
「『英雄』なんてのは、重荷を背負おうとしない連中が見る……陳腐な幻だ」
だから、間違えるんだ。
今度はブラッドが口を曲げて笑った。
唖然とするトロメアが気を緩めた、その隙に。
隣の船からロープが投げ込まれた。頭上に降ってきた綱の端を、ブラッドは挙げたままの手で掴む。
「なぁッ!?」
思わぬ助勢に慌てるトロメアの足許に、ブラッドは手甲のARMを撃ち込んだ。最後の足場を壊してから、ブラッドはロープを腕に巻きつけて船から飛び降りる。
海に落ちる寸前で綱が引かれ、そのまま海上を渡って隣の船の右舷に到達した。ロープを手繰って側面を駆け上り、船縁を一気に乗り越えると甲板に転がり込む。
「ブラッドさんッ」
船長が駆け寄ってくる。ブラッドはすぐに起き上がり船首へと急ぐ。
「準備は」
「完了してますぜ。照準も合わせてある。後は、ぶちかますだけだ」
舳先の手前、船首楼の中央に設置されていたのは、箱型のARM。
──ボフールの造った、対モンスター用ミサイルユニット。万が一を想定してこちらの船に積み込んでおいたが、正解だったか。
六つの砲口は既に隣の船に向けられている。甲板から船倉に転落したトロメアは、積み荷と瓦礫に填まって抜け出せないでいた。
その様子を確認してから、ブラッドは装置のレバーを引き上げて。
ひといきに、発射させた。
ミサイルは尾を曳きながら飛翔し左舷を突き破る。時間差で弾頭が炸裂し、壊れかけの船を内側から粉砕した。爆風がこちらまで届き、黒焦げになった何かの破片が辺りに降り注ぐ。
巨大な帆船が泡と共に沈みゆくのを、ブラッドは隣の船から見守る。船底が中央から割れ、船尾側が先に沈没した。続けて船首が傾き、船底に溜まっていた瓦礫が海へと滑り落ちる。
そうして、最後に残ったのは。
船底の一部と思しき板切れと──その上で片膝をついて蹲る、血塗れの巨漢。頭の左側は焼け焦げて爛れ、隆々とした肩口も大きく抉れていた。
「やって……くれるじゃ、ねぇか」
顔の右半分だけを歪ませて、トロメアは船上のブラッドを振り仰ぐ。
「すまん」
ブラッドは目を伏せ、重い声で言った。
「いいって、ことよ。これが……戦争だ」
「……そうだな」
戦場では、これが日常だ。誰かが惨たらしく死に、誰かが無様に生き残る。
だからこそ──。
「ひとつ、頼まれちゃ、くれねぇ……か」
限界が近いのか、頭をふらつかせながらトロメアは続ける。
「俺の部下のこと……どいつも屑みたいな馬鹿どもだけどよ、それでも」
「居場所が必要……か」
ブラッドが言うと、満足そうに頬を緩めて。
「よろしく、頼んだ、ぜ。英雄さん」
そのまま前のめりに倒れ──飛沫を上げて海に落ちた。大きな背中が暗い淵に呑み込まれ、やがて消えた。
泡の浮く海面を眺めながら、ブラッドは言葉を投げる。
「確かに、頼まれた」
せめてもの餞にと瞑目し、その志に敬意を示してから。
スレイハイムの英雄は頭を上げ、海霧に霞む柱を一瞥した。
姿が違っても嫌な奴だと、アシュレーは心の内で顔を歪ませた。漆黒の殻が張りついた顔では表情を変えようがないけれども。
目庇越しに、相手を見る。筋肉の捩じれた細長い腕を垂らして佇むその姿は、あの拳銃使いの面影など微塵もない。だが。
巫山戯て挑発し、揶揄って賺す。気紛れに襲いかかったと思えば、すぐに手を緩めて逃げ回る。まるで掴みどころがない。
武器は違うが、基本的な戦法は人間でいた頃と全く変わりなかった。むしろそこに俊敏さが加わったことで、嫌らしさに磨きがかかったと言えるかもしれない。
「凄イネェ、コノ身体」
魔物の頭を動かしながら、ジュデッカは変わり果てた自分の姿を見回す。
「コンナニ動イテモ、チットモ疲レナイ。マルデ夢ミタイダ。イヤ、夢ナノカナ?」
──夢じゃない。
そう言い返したかったが、黒騎士となったアシュレーは言葉を発することができない。
「アア、君ハ喋レナイノカ」
それを察したジュデッカが言う。こいつは変身前と変わらず饒舌だ。
「ソノ点デハ、僕ノ方ガ上ナンダネ。ナンデ喋レナイノカ、ソッチノ方ガワカラナイケド」
どうして喋れないのか──。
アシュレーもそのことは長らく疑問だった。だから何度目かの変身後に、思い切ってマリアベルに尋ねてみたのだが。
彼女の答えは──。
──『心』が、その身体に馴染んでいないのじゃろう。
受け容れたといっても、やはりどこかで魔物の肉体であることを拒絶しているのだという。腕や脚の構造以上に、声帯の仕組みは人と魔物で大きく異なるらしい。心と肉体が完全に接続し同調しなければ、魔物の声帯を震わせることはできない。
──つまり、ジュデッカは。
自分と違い、完全に魔物の肉体を受け容れた、ということか。
アシュレーは戦慄する。そちらの方が信じられなかった。何の違和感も葛藤も抱かず、魔物であることを肯定できるなんて──。
こいつは最初から、人の皮を被った魔物だったのではないか。今の姿こそが、この男の本来の姿であると──。
「マア、ドウデモイイカ。ドウデモイイヨネ」
目の前の魔物は、なおも減らず口を叩く。
「セッカクノ疲レナイ身体ナンダカラ、モット楽シモウジャナイ。同類ノ僕タチガ」
同類じゃない。
「同ジヨウニ戦ッテ」
同じじゃない。
「夢ミタイニ、イツマデモ──」
夢では──ない──。
沸々と湧き上がった怒りに任せて、アシュレーは突進した。ジュデッカは軽々と跳躍して躱し、小馬鹿にするように真後ろに着地する。
柱を破壊する刻限が迫っている。もう猶予は許されない。今すぐこいつを──倒さなければ。
アシュレーは願う。裡に宿りし欲望のままに。
力を。
この敵を倒せるだけの、力を。
聖女でも、魔神でも構わない。どうか──。
「ナンダ?」
渦巻く感情を糧にして、内なるものを激しく燃やす。その焔に呼応したのは──。
「アチッ!」
変化を察知して近づいたジュデッカが跳び退く。アシュレーは。
燃えていた。
内側の焔がそのまま黒騎士の甲冑に宿り──黄金色に輝いていた。
それはほんの数秒のことで、すぐに収束してしまったが。
「ナンダカ嫌ナ感ジダナ。ココハ──」
未だ全身を駆け巡る熱量を感じて、アシュレーは両手を突き出し。
逃げ出そうと腰を浮かしかけたジュデッカに向けて、その熱を──放出した。
掌から発せられた光の砲撃が魔物の下半身に命中し、そして。
腰から下を、瞬時に蒸発させた。
燃えたのでも溶けたのでもなく──わずかな煙と共に、消滅した。
「ア、アア……あ」
胸から上のみとなったジュデッカが地面に落ちて転がる。全身を痙攣させて呻くうちに、変身も解けていく。
「……ああ、もう。つまらない」
すっかり人間に戻ったジュデッカは急に脱力し、それから地面の上でもぞもぞと身体を捩って、背中の拳銃を取る。
「ちっとも楽しくないから、もういいや。これで──」
そして銃口を自らの蟀谷に当てると。
「おしまい」
引金を引く。
かちり、という音だけが寒々しい空に響いた。
「ハズレか。けけ、け」
半分だけの拳銃使いは、弾切れの銃を投げ出して仰向けになったきり──動かなくなった。
「最期まで……まともになれないのか、お前は」
奇妙な笑い顔で息絶えた骸に、アシュレーは眉を顰める。自身の変身も砲撃を放った直後に解除されていた。
弔う気分にもなれなかったので、そのまま放置して荷袋を置いた場所まで戻ろうとしたが。
「う……ッ」
突然、胸の内側に痛みを感じて前に屈む。
なんだ──これは。
まるで、自分の一部がごっそり抜け落ちたような──。
──近ヅイタ。
コレデ、モウスグ──。
「だれ……だ」
空耳か。それとも。
続く言葉に耳を澄ませたがそれはなく、いつしか痛みも治まっていた。
──何だったんだ。
今の声、どこかで──。
「……ッ! まずい」
我に返り、ポケットの時計で時刻を確かめる。破壊決行まで一分を切っていた。慌てて荷袋からバイツァダストを取り出すと、柱へと急ぐ。
どうにか時間ぎりぎりに間に合った。タイミングを見計らい、青黒く脈打つ柱めがけて魔導爆弾を投げつける。着弾した地点から閃光が迸り、直後に展開した闇がそれを覆った。
柱を丸々包み込んだ闇はすぐに収斂して消滅し、後には暗鬱な空と、断崖に建つ小屋ばかりが残った。まるで最初から存在していなかったように、あの奇怪な柱は跡形もなく消失していた。
しばらく様子を窺ったが、何も起きなかった。復活する兆候は……ない。
それを認めてから、アシュレーは通信機を取ってシャトーに繋ぐ。
「こちらアシュレー。対象の破壊を完了した」
すぐにアーヴィングが応答した。既に待機状態だったのだろう。
〈こちらからも確認した。他の三体についても同様に〉
破壊が確認された──。
仲間たちも無事に任務を果たしたようだ。
「ひとまずは……成功だな」
〈ああ。本来ならば君達を労うべきところなのだが──残念ながら、まだ終わりではない〉
指揮官の言葉に、アシュレーも緩みかけた頬を引き締める。
〈次なる目標は、空中要塞ヘイムダル・ガッツォー。そして〉
オデッサ首魁──ヴィンスフェルト・ラダマンテュス。
〈こちらの見込み通り、エネルギーの供給が途絶えたことで当該機のステルスも解除されたようだ。予めファルガイア全域に網を張り巡らせていたのだが、先程シエルジェ南方海域の上空にて機影を確認した〉
「そうか……これで」
王手だ。
〈諸君らは速やかに帰還し、引き続き捕縛任務に当たってもらいたい。今日この日を以て、オデッサとの戦いに〉
終止符を打つ──。
「了解ッ」
アシュレーは通信を切り、空を仰ぐ。物凄い速さで雲が流れていた。
これで──終わりだ。
ヴィンスフェルトを捕らえ、オデッサを壊滅させる。そして。
帰ろう。約束通りに。
君のところへ──。
破壊音と衝撃が、彼方より轟いた。まるで遠雷のようだと如何でもいいことを思う。
遂に──来たか。
「ご注進ッ。し、至急、報告しますッ」
扉が開き、誰かが騒々しく入ってきた。睨み返すと思い出したように敬礼をする。
「左舷後方より、敵部隊が侵入。こちらに向かっていますッ。か、閣下、ご指示を」
「……もう良い」
「へ?」
いかにも雑兵らしい、間抜けな面構えだ。その顔を更に間抜けに歪めて聞き返す。
「あ、あの、ご指示を」
「もう良いと言っておるッ!」
抜き身の剣を薙いで一喝すると、名も知らぬ部下は間抜けな悲鳴を上げて出ていった。
下々の名など興味はない。自分が名を知っている部下は。
カイーナ。
アンテノーラ。
トロメア。
ジュデッカ。
その名も自分が地獄の界円に因んで授けたものだ。本当の名は知らぬ。
我が仕立てた、優秀な部下たち。それを悉く喪い。
天から賜りしこの方舟すらも──間もなく墜ちる。
何故だ。
総ては──計略通りに運んでいたはずだ。
天啓に導かれ、再び同志を集めた。大いなる力を得て、国家の狗どもに天誅を下した。電波を駆使し民草に崇高なる理想を説いた。飛空機械を駆って我らの威容を示した。
そして。
最強の『兵器』と、究極の『機械』──この二つを手中に収めた。これを以て我は、世界を統べる真の王として君臨する──はずだった。
それなのに。
何故──追い詰められている。
何を間違った。一体どこに綻びがあった。
──間違ってはいない。ただ。
奴らが。ARMSが。
何もかも──覆していった。
こちらの力を顕示するための道化役。精々その程度の手駒だった。死に損ないの英雄。偶然にも魔神を宿した男。国家に諂う、有象無象の野良犬ども。
そんな連中に、よもや。
「この私が……不覚を取るとは」
食い縛った歯の隙間から、声を洩らす。そして抜き身の剣を提げたまま艦橋の奥に向かう。
扉の向こうが喧しくなった。飛び交う怒号と銃声。だがもはや関係ない。
制御盤の前に立ち、パネルを起動させる。表示されたエネルギーは残り僅か。それを全て下部エンジンへと注ぎ込む。
「墜としはせぬ。我が御座は、決して墜ちてはならぬのだ……!」
独語すると、固めた拳でパネルを叩く。
背後の装置が唸り、遅れて機体が上昇を開始した。これで──。
扉が開いた。
ブリッジと思しき部屋に突入した直後、アシュレーは体勢を崩してたたらを踏んだ。
地面が──機体が激しく揺れている。少ししてそれは収まったが。
「ねえ、なんか」
リルカも気づいて、背後で声を上げた。
上昇している。それも……かなりの速さで。重力に負けたティムが辛そうに身を屈める。
「一体、何が……」
そう呟いて薄暗い部屋を見回した、そのとき。
「一々騒ぐな。野良犬どもが──」
暗がりから靴音を響かせて、男が姿を現した。
長身の体躯に、大鷲を思わせる相貌。後ろに流して固めた銀髪はやや乱れている。
「この御座は間もなく天へと至る。そして世界は──終わるのだ」
豪奢な真紅の軍服。裏打ちされたマント。そして不揃いに波打つ刃を備えた大剣。
こいつが。
元解放軍リーダー。そして今回の戦いの首謀者。
ヴィンスフェルト・ラダマンテュス──。
「コキュートスは倒した。残っていた兵も既に投降させた」
お前の負けだ、と高鳴る鼓動を抑えつつアシュレーは告げる。
「大人しく投降すれば、危害は……」
「負けてはおらぬ」
ぎょろりと剥いた目を向けられ、思わず怯んだ。
まずい。
張り合っては駄目だ。この男は──人を呑む。
「ヴィンスフェルト」
こちらの様子を見かねたか、ブラッドが横に並び立った。ヴィンスフェルトもそちらに視軸を移す。
かつての同志である男たちは、同じ高さで対峙した。
「お前のペテンに多くの者たちが振り回され……命を落とした。その清算を、ここで果たしてもらう」
そう言うと、右手のARMを差し向ける。この場で殺すつもりか。
──抵抗すれば殺害やむなし。
アーヴィングからその言葉を引き出したのも、最初から──。
「その口で良くも言えたものだな、ブラッド・エヴァンス」
銃口を向けられてなお、オデッサの長は外連味たっぷりに言葉を吐く。
「貴様こそ大勢を巻き込み、屍を積み重ねてきたではないか。その手で一体どれほどの人間を殺めたか、よもや忘れたとは言わせぬぞ」
「判っている。だから──」
「判っておらぬッ!」
怒声がブリッジに響いた。その剣幕にリルカとティムが身を竦める。
「些末なこと──ではないか。そのようなこと」
こちらに背を向け、徐に剣を掲げる。
「総ては理想を具現化させんが為の礎。天にも届かんとする高き理想には、微塵も揺るがぬ土台が必要なのだ」
「必要な犠牲……だったと言うのか」
アシュレーは非難の目を、マントに隠れた背中に向ける。
「貴様らとて──同じであろう」
ヴィンスフェルトは剣を下ろし、首を回してこちらを睥睨する。
「我らを犠牲にし、その屍を踏み台にして世界の頂に上るのだろう。私のしたことと何が違う」
「ぼ、僕たちは」
「正義か。それとも民衆の総意か。それこそ」
幻想だッ、と床に吐き捨てるように言った。
「そのようなモノ、所詮は嘘と欺瞞に塗り固められた、うたかたの夢に過ぎぬ。心地良い夢で心地良く眠らせるための他愛無い子守歌だ。だがな」
四面楚歌の首魁は向き直り、正面から一同を釘付けにした。そして。
「それで──良いのだよ」
窶れた頬を吊り上げて、なおも嘯く。
「民衆は──人間は、夢が見たいのだ。辛く苦しい現実など誰も求めておらぬ。心地良い夢に酔いしれ、安穏に眠ることができるならば、たとえ欺瞞に塗れた理想であろうと構わない。あの長き内戦の果てに、私はようやくそこに思い至った」
故に──とヴィンスフェルトは剣の切っ先を突きつけて、見栄を切った。
「我が理想がペテンなどと、今更指摘されるまでもないわッ。そのようなことは百も承知。乱れた民が鎮まり平穏が訪れるのならば、私は甘んじてペテン師に成り下がろう。そう決意してここまで仕込み、あと一歩のところまで来た。……だのに」
貴様らがぶち壊したッ、と再び怒りを吐き散らす。
「書き割りの正義を触れ回って国家と民衆を誑かし、それを総意と思い込み、厚顔無恥にもここまで乗り込んできた。貴様らの勘違いで計略は台無しだ。私の下で世界が統率され、これでようやく次なる戦いに備えることができると思うたのに」
──次なる戦い?
その言葉が引っかかったが、聞き返す間もなくヴィンスフェルトは捲し立てる。
「自覚があるならば良い。どうせ正義など幻想だと、民を束ねるための手段に過ぎぬと弁えておるならば、こちらも潔く敗北を認めよう。だが、貴様らは本気で──本当に正義などというもがあると、剰え自分たちが正義だと信じて、ここまで来た。それが私は気に食わぬ。その程度の輩に、こ、この私が」
「御託は──聞き飽きたよ」
独白の果てに取り乱す首魁に、ブラッドが言う。いつになく穏やかな声色だった。
「その程度の俺たちに出し抜かれたというなら、お前はペテン師としても二流だったということだ」
「……そうかもしれぬな」
上目で睨みながら、ヴィンスフェルトは認めた。
「どんな大義があろうと、お前が見せた夢は多くの不幸を振りまき、悲劇を生んだ。その事実は変わらない。……ヴィンス」
数多の慟哭を一身に背負った、解放軍の英雄は。
数多の罪業から目を背け、罪を重ね続けた解放軍の首領に。
「もう──終わりにしよう」
静かに、そう告げた。
「そう……だな。これで終いだ」
ヴィンスフェルトは肩を落として項垂れる。
遂に観念したと思った、その矢先。
「私も──そして貴様らもな」
顔を上げ。
不敵に、嗤った。
何を、と口を開きかけたとき、背後でティムが屈み込んだ。
「うう……」
蒼白になった顔を苦しげに歪めて呻く。隣のリルカも頭を抱えて辛そうにしている。
「気圧が急激に──下がっている」
蟀谷を押さえながら、カノンが言う。
「高度が上昇し続けている。このままでは」
「そう。この艦は天に昇る」
「なんだって?」
最初にもそのようなことを言っていたが。
まさか──本当に。
「間もなく成層圏に達する。そこを抜ければ最早脱出は不可能。天上より共に世界の終焉を見届けようではないか」
「ば、馬鹿な。そんなことをしたら」
地上に戻れなくなる、と言いかけてから、その意図を察して息を呑む。
「お前は、最初から……」
戻る気などなかったのだ。
「エネルギー切れで墜落するくらいなら、衛星軌道に乗って永遠に宇宙を漂う……そちらを選んだか」
お前らしい、愚かな選択だとブラッドは悪態をつく。
「それだけではないぞ」
この期に及んで、ヴィンスフェルトは高らかに言い放つ。
「衛星軌道には我らが奪った『核』を封じた檻がある。不用意に発動する危険を避けるため、カイーナが魔法で作った檻に収めて宇宙に放ったのだ。檻の開放には魔鍵が必要だが──」
鍵がなくとも。
「直接、物理的に檻を破壊すれば」
中に封じた『核』を開放できる──。
「そ、それじゃあ」
「この艦は既に檻と同一軌道に乗るよう設定してある。宇宙に達すればものの数分で接触し、衝突する」
衝突で檻が壊れ、開放された『核』が発動してしまえば──。
「ファルガイアの──終わりだ」
乾いた笑い声が薄暗いブリッジに響く。常軌を逸した男を、アシュレーは化物を見るように眺めた。
「我のモノにならぬファルガイアなど、存在する価値もないわッ。我と共に滅んでしまうが良い。さあどうするARMSよ」
狂気を帯びた目で一同を見据え、言った。
「すぐにでも脱出せねば手遅れになるぞ。だがこの艦をこのまま捨て置けば、どのみち人類は滅亡だッ。愉快だ、実に愉快であるッ! はッ、はは──」
虚しい高笑いを聞きながら、アシュレーは固めた拳を戦慄かせる。
最も恐れていた事態だった。追い詰められた末の超兵器の発動──。そうさせないため迅速に動いたつもりだったが……結局間に合わなかった。
どうする。
逃げれば人類滅亡。留まればここにいる全員、地上に戻れなくなる。
どちらかを……選ぶしかないのか。
──いや。
その考えが頭を過ぎったとき、横からブラッドが進み出た。
「俺が──」
ああ。
また──犠牲になろうとしている。
駄目だ。もう二度と、あんな後悔はしたくない。
それなら──。
「ブラッド」
逞しい肩を掴んで、引き留めた。
「仲間を……頼む。みんなを無事に地上まで送ってくれ」
「え?」
リルカが声を上げた。
「なに……言ってるの、アシュレー」
「ここは僕が引き受けた。みんなは先に脱出を」
「アシュレー、そんな」
詰め寄ろうとするリルカを、ブラッドが太い腕で制す。そして。
「それは──命令か」
三白眼をぎろりと向けて、そう問うた。
「ああ」
負けじとアシュレーも真っ直ぐ見返して、答える。
「部隊のリーダーとしての、命令だ」
「……了解、した」
ブラッドはそのままリルカを抱きさらい、床でぐったりしていたティムも背負うと、ブリッジの入口へと引き返す。
「ダメだよ、そんな……アシュレー」
ブラッドの脇から首だけ出したリルカが、必死に呼びかける。今にも泣き出しそうな顔に笑顔で返してから、アシュレーは背を向けた。
「みんな一緒に……ねえ、アシュレーッ!」
悲痛な叫び声を残して、三人は扉の向こうに消えた。
「カノン、君も」
後ろで立ちつくす凶祓にも、肩越しに促す。
「冗談じゃ……ない」
憤りを押し殺して、彼女は言う。
「貴様の中の魔神を祓うのは私だ。こんなところで消えてもらっては困る」
「ああ。ちゃんと帰ってから……祓ってもらうよ」
そう答えると、カノンは義眼を一瞬見開き、それから緩めて。
「その言葉、忘れぬぞ」
外套を翻し、ブラッドたちの後を追った。
──ありがとう。
アシュレーは仲間たちに感謝を呟き、それから眦を決して。
たった一人──ヴィンスフェルトに立ち向かった。
「自らの身を捧げて、仲間を逃がしたか」
殊勝なことだと軍服の偉丈夫は口の端を引き攣らせる。
「その意気に免じて仲間は見逃してやろう。どちらにせよ『核』が発動するまでの命だがな」
「そうは行かない。お前を……この艦を止めなければ、僕がここに残った意味がない」
「抜かせ青二才がッ」
大剣が目の前の闇を薙いだ。振り抜いた剣筋から生じた衝撃波に、アシュレーは足を踏ん張って堪える。
「貴様ひとりで何ができる。この私を、何の力も持たぬ若造ごときが──いや」
途中で思い出したか、ヴィンスフェルトは言葉を切った。
──そう。僕には。
内なる焔に手を伸ばす。そして感情を滾らせる。
この力が──ある。
何も、ブラッドの身代わりになったつもりはない。単純に、自分が残った方が全員生還する可能性が高いと判断しただけのこと。
この黒騎士──ナイトブレイザーならば、成層圏外からでも地上に戻れるかもしれない。もちろん確証はないが、一縷でも望みがあるなら、それに縋ってでも──。
帰ってみせる。
漆黒の殻に身を包んだアシュレーは、身構える。
「……魔神による超人化か。成る程、確かにジュデッカのそれとは大きく異なるな。だがッ」
ヴィンスフェルトも剣を構え、立ち塞がる。
「これ以上の邪魔はさせぬ。世界が滅ぶその瞬間まで大人しくしてもらうぞ」
やはり──倒すしかないか。
意を決し、アシュレーは胸の前に手を翳した。掌から一条の光が伸びて、ひとふりの剣となる。
この艦が『核』に到達するまで、それほど時間が残っているとは思えない。できる限り急いで決着をつけなければ。
必殺の気合を込めてアシュレーは間合いを詰め、光の剣を繰り出した。ヴィンスフェルトが大剣でそれを受け止める。
斬れない。
触れるもの全てを灼き斬ってきた光の刃が──初めて止められた。
動揺するアシュレーを見切ったヴィンスフェルトは剣を素早く切り返し、下手から振り上げた。アシュレーは身を退いて辛くも回避する。
再び間合いを置いてから、相手の大剣を凝視する。
歪な形をした刃は、黒い蒸気のようなものに覆われている。ただの剣ではないとそこでようやく気づいた。
「魔剣『狂気山脈』──」
剣の主は、ゆらりと揺れてから語る。
「屠られた幾千もの妄念が宿り、振るう者に禍を為すという呪われし剣。だが呪いとは即ち『祝い』の裏返し──克服すれば多大なる恩恵をもたらすのだ。この力で私は──」
高々と剣を掲げ、そして。
「総てを成してきたッ」
気合を発して前に突き出すと、切っ先から電撃が迸りアシュレーを襲った。凄まじい熱量に魔神の甲冑が灼かれ、内側のアシュレーも熱に曝された。感電による痺れも相俟って動きが取れず、その場に片膝をつく。
馬鹿な。
凶暴なモンスターも魔物化したジュデッカさえも退けた、魔神の化身──ナイトブレイザー。それが、まさか生身の人間相手に──。
「最後の最後で貴様らに邪魔立てされ、完遂できなかったのが口惜しいが──せめてこの場は本懐を遂げさせてもらうぞ」
テロリストの長は剣を下ろし、靴音高く歩み寄る。アシュレーはまだ動けない。
──油断した。
この男、口だけではなかった。力ずくで屈服させるだけの実力を備えているからこそ、あのコキュートスたちも従っていたのだと、今さらながら気がついた。
「魔神の力とやらもこの程度か。口ほどにもないな」
無理に立ち上がろうとしたところを足蹴にされた。ブリッジの奥まで突き飛ばされ、床に這いつくばる。
「案ずるな、殺しはせぬ。貴様には世界が滅ぶ様を見届けてもらわねばならんからな」
ヴィンスフェルトが左手を翳すと、アシュレーの身体がふわりと浮き上がった。不可思議な力で両腕を横に開かされ、それから。
「拘束せよ」
空中で完全に動きを封じられた。目に見えない鎖が全身に巻きつき、ぎりぎりと締め上げる。
「この艦が檻に衝突するまで、そこで眺めているが良い。止められなかった自らの不甲斐なさを嘆きながらな」
そう言うとヴィンスフェルトは奥の装置へと移動し、何かの操作を始めた。重々しい音を立ててブリッジの壁が上下に開いていく。
数十秒ほどで壁も天井も取り払われ、球状の硝子越しに外の景色が臨めるようになった。頭上には星々が煌めき、正面には青白い大気の層が緩やかな弧を描いている。
「既に成層圏を抜けたようだな。……おお、これは」
何と美しい、とヴィンスフェルトは硝子の手前で感嘆している。アシュレーも唯一動く首を回してそちらを見る。
──これが。
「我らの惑星──ファルガイアだ」
大気の層の、さらに下。渦を巻く雲と緑の大地。そして、眩いばかりの青い海──。
僕らが住んでいた世界。それが──眼下に広がっていた。
アシュレーも状況を忘れてしばらく見惚れていたが。
「これが、もうじき『核』の炎に覆われる」
その言葉に、ハッと我に返る。
「ふふ……何とも素晴らしい見世物ではないか。待ち遠しいな」
──させない。
大切な人たちのいる世界。それを護るために、自分はここに残ったのだ。
終わりになんて、絶対に──。
「ん? ……ほう」
変化を察したヴィンスフェルトが、こちらを振り返る。
「なおも足掻くか。だが、もうしばらく大人しくしてもらうぞ」
そう言って再び剣を差し向け、電撃を放った。猛烈な電流が肉体を駆け巡り、血流が沸騰する。
負けて──たまるか。
「ウ……」
痛みも、
熱さも、
苦しみさえも。
あらゆる感情を糧にして。
「グ……ァ……」
限界まで──燃え上がれ──!
「ガアアアアアァァァァァァ────ッ!!」
それは、まさしく。
人智を超越したモノの──咆哮だった。
「な、何だとッ」
電撃を弾き飛ばし、見えない鎖も引き千切って、アシュレーは床に降り立った。
視界が──明滅している。嵐の中の小舟のように、意識が断続的に浮沈し、不安定に揺さぶられている。
構うものか。
自分が何であろうと。どんな姿になろうと。
僕は、この力で。
「ま、まさか貴様は」
ファルガイアを──護る──!
「貴様は、本物、の……ッ!」
狼狽えるヴィンスフェルトの懐に、刹那の動きで詰め寄り。
灼熱する拳を──繰り出した。
拳は受け止めようとした魔剣を粉砕し、そのままヴィンスフェルトの中心をも貫いた。腹を破られた首魁は驚愕の目を剥き、背中から倒れ込む。
「ぐ……ぅ、そう、か。やはり貴様が、真の」
ヴィンスフェルトは頭を上げ、何かを言いかけたが、すぐに脱力して横たわった。
「だが、少しばかり……遅かったな。見るが良い」
震える手が持ち上がり、外を示す。未だ明瞭でない視界でアシュレーも見る。
闇の中に、星とは異なる球体が輝いていた。表面にはシエルジェの扉と似たような模様が刻印されてある。
魔法陣による、封印。──あれが。
『核』の檻──。
「衝突するぞッ」
血反吐を撒き散らしながら、ヴィンスフェルトは歓喜の声を上げた。そして地面を這いずりブリッジの端へ向かう。
「これでファルガイアは、私の、世界……は……」
両手と額を硝子に押しつけ、眼下に広がる大地を眺めながら、覇王になり損ねた男は息絶えた。
その生き様を象徴するような──壮絶な最期であった。
アシュレーは再び外に視線を向ける。
宇宙に浮かぶ、超兵器を封じた球体。魔法陣の細かな模様が視認できるまで接近していた。衝突は時間の問題か。もはや艦の軌道を変えても間に合わない。
ならば。
迫り来る禍つ星を背にして、ブリッジの中央へと向かう。
薄闇の先に、天井まで届く筒型の装置が鎮座している。四方八方に延びたパイプが全てその装置に繋がれており、さながら根を張り枝を広げる大樹のようにも見えた。
恐らくこれが、艦の中枢機関。エネルギーが尽きて今は沈黙しているが、ここからパイプを通して末端の動力源に供給していたのだろう。
アシュレーはその前に立つと、焔を宿した手で触れてみた。
魔獣の唸りのような音を立てて、装置が重々しく動き出した。
──行ける。
ここから自らのエネルギーを、一気に注ぎ込む。そうすれば。
「オ……オォ……」
過剰に供給されたエネルギーが、末端で溢れ出て。
「オ……オオオオォ」
漏出したエネルギーが動力に触れて引火し、同時多発的に爆発を引き起こす──。
これが、巨大な空中要塞を内側から破壊できる──最後の手段。
やってみせる。
もう悲劇は起こさせない。誰も不幸になんてさせない。
災厄。聖女。そして──英雄。
自分の中の、あらゆる力を解き放って。
僕が。
世界を。
──救うんだ──!
「オオオオオオオオオオオオォォォォォ────────!!」
緩やかに、意識が遡上してきた。
背中に地面の感触がない。浮いている。重力のない場所まで飛ばされたのだと、頭の片隅で認識する。
視界には──硝子張りの宇宙。ブリッジは破壊されなかったのか。末端の動力から離れていたことで、むしろ最後まで残ったのかもしれない。
だが。
しゅうしゅうと、辺りから空気の抜ける音がする。堅固な空中要塞といえど、宇宙を漂うことなど想定していない。どこか隙間から漏れ出しているのだろう。
それを実感した途端、思い出したように息苦しくなる。
ここまで──か。
ファルガイアは無事だろうか。僕はちゃんと世界を、護れたろうか。
確かめたかったが、身体は動かない。筋肉を根こそぎ抜き取られたように、指先一本動かせない。
最後にもう一度、あの美しい世界を見たかったけれど……仕方ない。
息が詰まる。肺が絞り出すように痙攣するが、もう充分に満たすだけの酸素は得られない。
再び意識が沈下していく。徐々に宇宙が霞んで、瞼が重くなる。
視界が完全に閉ざされる、その間際。
何かが──目の前を横切った。
四角い、見慣れた鉄の箱。スピーカーに、アンテナに、それに──
ああ。
声が……聞きたいな。
そう願いながら、目を閉じた。
うたかたの祈りは、ささやかな想いを結び。
鉄の箱を、微かに震わせる。
〈アシュレー〉
そして彼の世界は光に包まれた。
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