小説 WILD ARMS 2
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序章
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第一章
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第二章
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第三章
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第四章
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第五章
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第六章
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第七章
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第八章
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終章
──過去は消えぬ。
あの闇夜の廃城で、凶祓が放った言葉。
そんなことは判っている。今更指摘されるまでもない。
なのに。どうして。
こんなにも──胸が疼く。
アンテノーラは通路の途中で立ち止まり、胸許で拳を固める。
システムの最終チェックを終え、これからヴィンスフェルトに報告を行う。いよいよあの男の大願が叶うのだ。
そして、彼女は。
私の大願は。
──何なのだろう。
昔の自分を殺し、過去を消して、彼女は憎き仇敵に仕えてきた。
だが、過去は消えない。そんなことは自分が一番よく知っている。だからそれは──嘘だ。自分で自分に嘘をついて、過去を消したと思い込むことで、どうにかあの男の許に身を置くことができたのだ。
そうしなければ、私はたぶん、壊れていた。
父を母を家族を殺め、全てを奪った男に抱かれて、正気でいられる訳がない。彼女が彼女であり続けるためには、嘘の自分を演じ続けるしかなかったのだ。憎しみを韜晦し、本心を冷たく凝った肚の底に押し込んで、ようやく彼女は生きてきた。
けれど。
それが──間違いだったのかもしれない。今になって彼女はそう思う。
心には裏も表もない。表に出ている側が全てなのだ。建前だの本心だの、そんなものは自分の内側にある矛盾を誤魔化すための方便に過ぎない。
そんなことにも気がつかず、私は嘘の自分を演じ続けていると思い込み。
いつしか嘘は真に──なってしまった。
運命に流されるまま生きる、哀れな娘。
親を手にかけた男に取り入る、浅ましい女。
嘘だろうと演技であろうと、それが彼女の現実。現在の姿なのだ。
──嫌だ。
私は、私の望みは、そんなものじゃ──。
「っざけんな、この野郎ッ!」
いきなり怒号が飛んできた。通路の先の、柱の陰。
覗き込むと、トロメアの巨躯が見えた。ジュデッカと思しき男の胸倉を掴んで柱に押しつけている。その横で腕を組む細身の若者はカイーナか。
「てめぇだけノコノコ帰ってきやがって。部下を置き去りにして撤退なんて、上のモンのすることかよッ」
「そんな怒ることじゃないでしょ。暴力はんたーい」
今にも殴りかかりそうな剣幕のトロメアに対し、ジュデッカは降参の姿勢を見せながらヘラヘラしている。
「いいじゃない。あんな連中、捨て駒くらいしか使い道がないんだから。おかげでたっぷり時間も稼げた。役に立てたんだからきっと本望だよ、あいつらも」
「てッ、てんめぇ……!」
「よせトロメア。無駄だ」
間で見ていたカイーナが制する。
「こいつの性根はお前も知っているだろう。それに、ジュデッカに兵を預けたのはヴィンスフェルト様だ。文句があるなら閣下に言え。今から抗議に行くか?」
「ぐ……ッ」
トロメアは舌打ちして、乱暴にジュデッカを振り払った。
「今は重要な時なのだ。つまらぬ諍いに閣下を巻き込むな」
「……わあってるよ」
隻眼の大男は背中を向け、肩を怒らせながら通路を去った。
「お前も程々にしろ。最近は特に目に余る」
「え、僕ってなんか失敗したっけ。ちゃんと言われた通りにやっただけなんだけどなぁ」
その場を収めた同僚の忠告にも、ジュデッカは大袈裟に首を傾けて惚けてみせる。張りついた笑みがいかにも嫌らしい。
「もういい。行け」
仰せのままに、と最後まで巫山戯ながらジュデッカも立ち去った。残ったカイーナは心底うんざりしたように溜息を吐き、それからようやくこちらの視線に気づいた。
「いつから見ていた」
「通りかかっただけよ」
アンテノーラはそう答えて、再び歩き出そうとしたが。
「ARMSが息を吹き返した」
カイーナが続けて声を掛けてきた。
「ブラッド・エヴァンスを失っても、さほどのダメージにはならなかったようだ。お前の見込み違いだったな」
「そうね」
挑発的な視線を躱すように、アンテノーラは正面に向き直る。
「貴方が余計な手出しをしてくれたお陰で、再び彼らの結束が固まった。それについては確かに予想外だったわ」
カイーナが口の端を引き攣らせた。判りやすい反応だ。
「心配しなくても手は打ってある。彼らはもはや風前の灯火。貴方は」
その灯火が消える瞬間を。
大好きな閣下の後ろで見ていればいい──。
言葉を返せず睨み返すだけのカイーナを素通りして、アンテノーラは悠然と通路を抜ける。
やり込められた悔しさか。それとも──嫉妬か。
あの若い魔導師は、事あるごとにアンテノーラに対抗しようとする。その理由も知っていたが、あまりに下らないので相手にする気も起きなかった。
──子供なのだろう。
あれは単に、親の愛情が欲しいだけなのだ。お前はいい子だと頭を撫でてくれる存在を求めているだけ。既に二十歳は過ぎているだろうに、見苦しいことこの上ない。
歩きながら、アンテノーラは苦笑を浮かべる。
夜郎自大なテロリスト。それに盲従する未熟な魔法使い。
目的も主義主張も異なる、烏合の衆の幹部たち。
世に憚る革命集団の中枢も──こんなものか。
ひとしきり呆れ、それから自分もその一部であることを思い出して、投げやりな気分になる。
たとえあの男が世界を手中に収めても、演説で語ったような理想は実現できないだろう。更なる混迷をもたらすのは目に見えている。
それでも、私は。
──関係ないか。
考えることを放棄して、アンテノーラは歩みを速める。
階段を下りて回廊を進み、ヴィンスフェルトが自室としている部屋の前に立った。扉を叩き、返事を待たずに入る。
部屋の主は不在だった。壁際のテーブルと椅子が回廊から差し込む電灯に照らされている。机上には彼女が出力したデータの紙片が山と積まれてあった。
奥の寝台にも彼の姿はない。アンテノーラはしばし逡巡したが、ひとまず部屋で戻りを待つことにした。
椅子に腰を下ろし、散らかったテーブルを何ともなく眺める。火が灯っていない小さなランプ。盤上に宝石が鏤められた金の懐中時計。陶器のスタンドには黒檀のペンが突き立ち、その傍らには雫型の蓋を頂いたインク瓶が鎮座していた。
どれも見覚えのある、あの男の持ち物。彼の名残を感じてアンテノーラは目を細める。
──私は、あの人を。
まだ憎んでいるのか。それとも──。
頭を振り、浮かびかけた言葉をかき消す。
私の気持ちなど、どうせ全部嘘だ。
他者も自分も謀って、騙し賺して生きていく。それが今の私──氷結地獄のアンテノーラ。
だから、この感情もきっと……嘘なのだろう。
眦に力を込め、面を上げる。机上の時計を見ると十分ほど経過していた。アンテノーラは待つのを諦め、書き置きを残しておこうと近くの紙に手を伸ばした。
そのとき、違和感が。
いや。これは──既視感?
アンテノーラは五感を研ぎ澄ませ、その奇妙な感覚の正体を探る。
無音の室内。匂いも微かな埃臭さの他には感じない。視界にあるのも変哲のない、知っているものばかり。
──待て。
この紙は。
どうやら便箋のようだが、素人が漉いたのか繊維がやけに粗く、紙としての質は低い。隅の方も黄ばんでおり、相当古い──恐らく解放軍時代から使っているものだろう。
彼女が既視感に似たものを覚えたのは、その特徴的な紙に触れた瞬間。つまり。
この感触を──私は知っている。
目を閉じ、繊維の浮いた紙を指先で繰り返し撫でながら、記憶の糸を辿っていく。
間違いない。私はどこかで、これと同じ紙を。
手紙を。
手紙。
「──あ」
そうだ、これは。
あのときの──。
アンテノーラは目を開け、その目をさらに見開いた。
なぜだ。
なぜ、あの場所に──これが。
そうだ。あの筆跡は確かに彼のもの。見たときに気づくべきだった。
迂闊だった。そんなことはあり得ないという無意識の先入観が──邪魔をしたか。
だとすれば。
これは……どうなる。
どういう仕組みになっている。
激しい胸騒ぎに、心臓が早鐘を打つ。机に肘をつき、額に手を当てながら猛烈に思考を巡らせる。
考えろ。たぶんこれは……重大なことだ。
僅かな違和感、瑣末な疑念。それらを手繰り、洗い直してみる。
革命集団オデッサ。特殊遊撃部隊ARMS。ほぼ同時期に結成された、二つの組織。
端緒となったのは、剣の大聖堂。あの計画の鍵は文字通り──魔鍵ランドルフ。
それ以降、両者は事あるごとに交錯し、対立を深めてきた。だが。
──そのままでは何も見えない。
構成する要素を一度解体し、別の意図を軸にして組み換えてみた。
所々、歯抜けのように欠片が足りなくなる。だが、それは。
全部──同じ型だ。それを当て嵌めれば、ぴったりと。
「そ……う、か」
見えた。
これは、自分と同じやり方だ。
予め四方に罠を張り巡らせ、対象が掛かるのを待つ。掛からなければその罠は無効となり露見しない。掛かったとしてもその時点で害はないから、当事者は罠と思わない。むしろ自らの判断による正しい選択だと思い込む。
この仕掛けの最大の利点は、罠を張った後はほとんど自ら手を下す必要がないこと。罠によって選択を間違え続けた相手は勝手に追い込まれ──多くの場合、自滅する。彼女はそうしてARMSを揺さぶり、打撃を与えてみせた。
恐らくこれも、同じ手法。だが。
──信じられない。
規模が違いすぎる。こんな巨大な図面が、一年足らずのうちに引かれていたというのか。
彼女の想像通りならば、まさしくファイルガイア全域、全方面に罠が張られていたことになる。不測の事態も偶然すらも利用して、罠が新たな罠を自動生成していく──。
そんな、ものを。
奴は──。
アンテノーラは自身の肩を抱いて、蹲った。
身体の震えが止まらない。途方もない企みに戦慄し、自身も蜘蛛の糸に絡め取られていたことを知って、愕然とする。
何が風前の灯火だ。それは──こちらの方だった。
どうすればいい。
この図面を覆すには……どうしたら。
耳許で懐中時計が時を刻む。その音が一層の焦燥をかき立てる。
誰かに事実を告げてみるか。ヴィンスフェルトか、コキュートスの同僚か。──彼らに理解できるとは到底思えない。
ならばARMS側はどうか。三大国家の首脳たちは。──敵方の話など鵜呑みにする訳がない。特にARMSは自分が罠に嵌めたばかり。聞く耳すら持たないだろう。
──狼少年だな、まるきり。これも嘘を吐いて生きてきた報いか。
長い思索の果てに、アンテノーラが出した結論は。
抗うだけ──無駄か。
既にこの世界は一本の筋書きに基づいて動き出している。舞台の幕が開いてしまったら、出演者はその通りに演じるしかないのだ。
登場人物は、作者には逆らえない。
それなら──。
「ふ、ふふ」
──これでいい。このままでいい。
全てを諦め、手放した後で、彼女は思い至った。
何も覆す必要などなかった。この筋書きのままで、私の望みは叶うじゃないか。
嘘は嘘と知られなければ、真実に化ける。だから。
私は嘘を吐き通し、嘘を抱えたまま舞台を降りる。そうすれば私は嘘吐きではなくなるのだ。
そしてあの男も、偽りの夢を抱いたまま、何も知らずに役割を終える。
愚かで幸せな──哀れな男として。
それが私の、あの男に対するせめてもの愛。そして。
──復讐だ。
「あ、はは……は、は……」
暗がりの中で、アンテノーラは笑い続けた。
壊れた操り人形のように全身を揺り動かして。
滔々と、涙を流しながら。
何かの声が耳許を掠めて、アシュレーは反射的に振り向いた。
金属板とパイプを組み合わせた机と椅子。もちろん誰も座っていない。ティムの杖から放たれた明かりを受けて、寒々しく光っている。
「どうしたの?」
リルカが廊下から首だけ出して尋ねた。
「いや……何でもない。空耳だ」
アシュレーはそう答えて、何も載っていない机上から視線をもぎ離す。別の物音と勘違いしたのだろう。
女性の笑い声──いや、嗚咽のようにも聞こえたが。
まだ耳に残っているそれを考えながら、アシュレーは部屋を出て仲間と合流する。
「やっぱり手がかりはなさそうだ。綺麗に片づいている」
「当然だろう」
カノンが言う。廊下の壁に凭れ、腕を組んでいる。
「連中とて馬鹿じゃない。証拠など残しておく訳がない」
「でも、結構残ってるコトあったんだよ、今まで」
凶祓の冷めた反応に、リルカが反論する。
「あっちも大所帯だからさ、全部もれなく持っていくのは難しいんだよ、きっと」
「そうだな」
時間をかけてでも調べる価値はあるだろう。何しろここは。
オデッサの本拠地──。
連日探査を続けていたシャトーの仲間たちが、ついにその場所を特定してくれた。クアトリー南部に広がる砂漠の、ほぼ中央。パイプラインで繋がるプラントからもそう遠くない位置だった。建物は天井の一部を除いて地下に埋没しており、唯一の出入口である階段を隠す鉄板の他は、全てが砂に覆われていた。発見が困難だったのも無理はない。
カノンを加えたARMS実働部隊は、夜明けと共にこの拠点に乗り込んだ。最後の決戦という覚悟をもって臨んだのだが──結局それは肩透かしに終わった。
スレイハイム政府の施設を利用したと思しきアジトは、もぬけの殻だった。今回も一足遅かったようである。
仕方なく彼らは目的を内部の探索に切り替えた。この場所には大量のエネルギーが注入されていたはず。その用途については調査しなければならないだろう。
「カノン、大丈夫か?」
回廊から奥へと続く通路を進みながら、アシュレーはしんがりを務める凶祓に尋ねた。
「……何がだ」
「いや、その……体の調子とか」
ダムツェンでの一件から、まだ三日と経っていない。痛みが再発することもあるのではないかと聞いてみたのだが。
「調整はしてもらった。極端な負荷さえかけなければ問題ない」
「そ、そうか」
余計なお世話だったらしい。いまいち噛み合わない二人のやり取りに、リルカが笑いを堪えている。
アシュレーとしては、笑い事ではないのだが。
正式なARMSの隊員ではないにせよ、行動を共にする限りは彼女とも連携を取る必要がある。急を要する事態の際に意思疎通が円滑にできなければ、それが命取りにもなりかねない。
彼女はずっと一人で生きて、戦ってきた。実力は申し分ないし、フォローの必要がないのは助かるが、単独行動が過ぎるのも部隊としては困る。今のところは従ってくれているようだが──。
──信頼するしかないか。
仲間として受け入れると決めたのだ。まずはこちらが信じなければ。ブラッドのときのような過ちだけは──二度と犯さない。
頭の中でひとまず整理がついたところで、ちょうど通路も途切れた。電気で作動する扉が行く手を塞いでいる。
「電源って、落ちてるんですよね……」
「ああ」
潜入した直後に電気系統の復旧を試みたが、どうやら完全にダウンさせてあるようだった。
どうしたものか、と顔を見合わせた三人の横をカノンがすり抜ける。そのまま扉の正面に立った彼女は腰を落とし、中央の溝に指をかけた。力ずくで……こじ開けるつもりか。
両足を踏ん張り、横に引く。アシュレーたちが見守る中、分厚い金属の扉が中央から割れ、少しずつ隙間が広がっていく。
人ひとり通れるほどの隙間を作ったところでカノンは手を止め、涼しい顔でこちらを振り返った。
「はあぁ……すっごい」
リルカが感心する。アシュレーも思わず言葉を忘れ見惚れてしまった。
単純な力の比較ならブラッドと同等、あるいはそれ以上かもしれない。彼女に施された身体拡張──シルエットアームの実力を垣間見た気がした。
「あ、ありがとう。助かった」
慌てて礼を言ったが、彼女はさっさと隙間を抜けて先に行ってしまった。リルカが慰めるようにアシュレーの肩を叩いて、その後に続く。
「だ、大丈夫ですよ。きっと、そのうち仲良くなれます」
ティムにまで気を遣われてしまい、アシュレーは何だか情けない気分になりながら、最後に隙間を潜った。
扉の先は広大な空間が広がっていた。ティムが杖の光を調整して、掲げ直す。
「これは……」
とてつもない──広さだ。天井も見上げるほどに高い。ヴァレリアの館がすっぽり収まるくらいの空間はあるだろう。
巨大な倉庫……いや、格納庫か。
「例の『切り札』がここに隠されてあったんでしょうか」
「その可能性は高そうだな」
よく見ると天井の中央に割れ目のような筋が走っている。開くようになっているのかもしれない。
エネルギーを充填した飛空機械──もしくは兵器を、ここから発進させたか。
だが。
「ここんところ、わたしたちも砂漠を見張っていたんだよね」
リルカが言う。同じ疑問を持ったようだ。
「いくら砂漠が広くたって、どでかいモノが出てきたなら見つかりそうなものだけど」
なんで見つけられなかったんだろ、と彼女は首を捻る。
確かに、たとえ夜の闇に紛れて浮上させたとしても、このサイズは隠しきれるものではないだろう。
「僕たちが監視を始める前に動いていたのか。……いや」
違う。プラントが稼働を止めたのは、それほど前のことではない。少なくとも数週間前まではここにエネルギーが送り込まれていたはずだ。
どうなっている。
奴らはどうやって監視の目を掻い潜って『切り札』を動かしたのか──。
「端末が動いている」
遠くでカノンの声がした。彼女は既に奥の壁際まで行っていた。
三人もそちらに近づき、壁に設置された端末の画面を覗く。青色の背景に小さな文字だけが表示されていた。
「なんでこれだけ電気ついてるの?」
「予備電源にでも繋いであるのだろう」
アシュレーは端末の前に立つ。詳しくはないので、プラントの制御室にあったものと似ていることくらいしかわからなかったが。
「わざわざこの端末だけ、稼働させてあるということは……」
重要な情報でも入っているのかもしれない。
期待を込めて、アシュレーは表示された文字に視線を落としたが。
『百眼の守り人は何を見る?
始源の曙光か──或いは終末の黄昏か』
「思わせぶりな言葉だなぁ」
意味わかんない、とリルカが眉根を寄せる。
「何かの暗号か。それとも誰かに向けたメッセージか……?」
意図が掴めずアシュレーも困惑した。
「百眼の守り人、って何なのでしょう」
ティムが言う。誰も答えられないだろうと思っていたが。
「ヘイムダルだ」
意外にもカノンが答えた。
「千里を見通す能力を持つという、神の国の門番──ヘイムダル。大昔の神話に出てくる神の二つ名だ」
「へえ。カノンさん物知り」
感心するリルカに、カノンは本で読んだだけだとそっぽを向く。そういえばシャトーでも本を読んでいる姿をよく見かけた。
「それでも、結局意味はわからないか」
その神の名が、何を示すのか。
──もしかしたら。
「それが、『切り札』の」
アシュレーが言いかけた、そのとき。
「そこまでだッ!」
入口の方から、声が響いた。
「我々のアジトに潜入し、あまつさえ数々の悪行三昧。この三百三十度の視野を持つトカゲがしかと見届けたッ」
妙な足音を立てて、こちらに来る大小二人──もとい二匹の影。
「……ああ」
アシュレーは十九年の人生で最も、うんざりした。
「あれが、噂の……」
初見のティムが目を丸くする。その後ろでは、やはり初対面のカノンが害虫でも見つけたような顔をしている。
「どうやら吾輩の登場を心待ちにしていたようであるな」
「真逆だって。どんだけ前向きなの」
リルカの言葉もどこ吹く風で、赤いスカーフを巻いた二足歩行の蜥蜴──トカ博士はアシュレーたちの前で立ち止まり、ふんぞり返った。
「このダンディかつブリリアントな容姿に憧れるのは無理もないことではあるが、残念ながら吾輩たちと貴様らは敵対する身。ここで引導を渡してやろうぞ」
「あんたら、まだオデッサに協力していたのか」
放置するわけにもいかないので、嫌々ながら尋ねた。
「モチのロンよッ。オデッサから受けた恩は節分に食べる豆の数よりも多いのである。恩義ある者には忠義を尽くせと八十三代前の先祖のご近所だったトカ田ゲー三郎さんも仰っておりましたゆえ」
アシュレーは必死に口を噤んで受け流す。突っ込んだら負けだ。
「ていうか、わたし、そっちの相方さんのほうが気になるんだけど」
ダイエットでもしたの、とリルカがゲーを指さす。トカの助手である大蜥蜴は、やたら平べったい形状になっていた。
「なに、ここの入口はゲーくんには狭くてな。強引に通過した結果このような姿に」
「げー」
焼き上げる前のクッキーみたいな姿のゲーが、ふにゃふにゃと腕を振り上げて応じる。相変わらず非常識な連中だ。
「これが噂の二・五次元というやつですな」
「そんな訳ないだろ」
思わず突っ込んでから、ティムに驚いた顔をされて我に返る。まずい、乗ってしまった。
「オデッサの仲間ならば、ここにあった兵器のことも知っているな」
教えろ、と固めた拳を鳴らしてカノンが進み出る。
「わ、待て待てカノン。こんなの締め上げても標本にしかならないぞ」
慌ててアシュレーが止める。この蜥蜴たちと彼女は混ぜては駄目だ。色々な意味で危険すぎる。
「ふんッ、見くびられたものよ。忠義者の鑑たる吾輩がそのような脅迫に屈すると思うか。……教えてやる」
「教えるんかい」
カノンと絡ませないためには、やはり自分が相手するしかない。アシュレーは腹を括った。
「どのみち貴様らはこれから刃の露と消えゆく身。メイドの土産に教えてやろう。通い詰めているメイド喫茶の店員たちも黄色い声で大喜びトカ」
「え、アシュレーそんな店に」
「行ってないッ。僕らの世界に変な世界観を持ち込むなッ」
いいから教えろと、アシュレーはぞんざいに催促する。
「よかろう。聞いて驚け見て面食らえッ。ここに眠っていたのは、かのエルゥ族がその技術の粋を結集させて作り上げた究極の飛空機械にして最終兵器彼女。その名も『ヘイムダル・ガッツォー』であるッ!」
「やっぱり……そうか」
バルキサスと同様に、彼らはスレイハイムが発掘した古代の遺産を利用するつもりなのだ。
「な、何故驚かぬ!? リアクション薄いよ、何やってんのッ」
「いや、大体予想してたことだから」
素っ気なく返すと、トカ博士は太い眉を吊り上げて憤慨した。
「ぐぬぬ……ならば、その驚愕のスペックも披露してやろう。全長はバルキサスの約十倍。部屋数およそ五十、各部屋にシャワーとダブルベッド、アメニティグッズも完備。加えてムフフなビデオも見放題」
後半のスペックはともかく、バルキサスの十倍は確かに驚くべき規模だ。さながら空中要塞といったところか。
「更には対地殲滅用ARM『アークスマッシャー』も標準搭載。快適な空の旅を満喫しながら『人がゴミのようだ』ごっこも楽しめる、支配者志望の紳士淑女には夢のような大型複合施設ですぞ」
「対地兵器か……」
核兵器と違い、こちらは直接的な脅威となりそうだ。
一方、後ろでは。
「凄いですね、アシュレーさん……あんな説明でも真面目に聞けるなんて」
「うん……なんかもう吹っ切れた感じだね」
ティムとリルカがひそひそ囁き合っていたが、気にしない。気にしたら泣きそうだから。
「極めつけは、外部からの目視もレーダーによる探知もシャットアウトする、完璧な機体遮蔽システム『ウィザードリィステルス』であるッ。これによって誰にも見つからず空から悪事し放題、女湯も覗き放題ッ。羨ましいッ」
「ウィザードリィ……ステルス」
それか。
こちらの監視の中で発進できたのは、その遮蔽技術によるものに違いない。
「……まずいな」
そんな機械が既に起動して、ファルガイアのどこかを飛行しているのだ。誰にも気づかれず、探知もされず。
もしかしたら、この近くに──。
「詳細は掴めた。すぐにここを出よう」
嫌な予感がして、アシュレーは入口へと足を向けたが。
「ちょいと待ちねぇ」
呼び止められ、舌打ちする。どさくさに紛れて逃げられると思ったのに。
「こっちの情報を聞くだけ聞いてトンズラとは、そいつは虫が良すぎやしねぇかい、旦那よォ」
「勝手に喋ったんじゃないか」
「お黙りなさいッ。いたいけなトカゲを誑かし弄んだあなたの罪は、許されるものではありませんよッ」
アシュレーは倦怠感たっぷりに溜息を吐いて、それから仕方なく蜥蜴たちに向き合った。ここで無駄に時間を食っている場合ではない。さっさと片づけよう。
「ふむ。ようやく君のやる気スイッチがオンになったようであるな。それではご期待に応えまして、本日のメイィィィィン、イッベントォォォォォォッ(巻き舌で)」
トカ博士が腕を掲げた。平べったいゲーがその手に黒い玉を載せる。あれは──モンスターを封じた卵か。
案の定、トカが玉を放り投げると内部の闇が展開し、そこから魔物が出現した。
「オデッサより賜った魔物を天才科学者たる吾輩が魔改造ッ。これまでの戦いをビッグデータ化し、セイバーメトリクスでの解析を基に対策を施した、対ARMS専用モンスター『アームズキラー』であるッ! シリーズ後半の憎い奴ッ」
「僕たち専用……だって?」
立ち塞がる人型の魔物に、アシュレーは目を瞠った。
赤い甲殻めいた鎧に、黄金の仮面。湾曲した刃物のような手足。怪獣というよりは怪人といった装いだが、思った以上にまともで──手強そうだった。
「特筆すべきは何といっても対ARMSに特化した、その防御性能。ARMも魔法もガーディアンによる攻撃も、展開する特殊フィールドによって無効化する、まさしく完全無欠、難攻不落の究極の使徒であるッ! さあどうするシンジ君」
「だからよその世界観を持ち込むな」
しかし、もし本当にこちらの武器が通じないのなら──これは厄介だ。
攻撃を躊躇していると、重低音を響かせて怪人の身体が鈍く輝き出した。早速フィールドとやらを展開したらしい。
「ふひゃひゃ、これで貴様らの武器は一切通用せぬぞ。吾輩と科学の勝利であるッ。倒せるもんなら倒してみやがれ、このすっとこどっこ……い?」
こちらに尻尾を向けて挑発していたトカ博士の顔が、にわかに引きつった。
彼の目の前で、自慢の怪人の首が飛んで──足許にごとりと落ちる。棒立ちの胴体も横倒しになる。
その傍らには、短刀を振り抜いたままのカノンの姿が。刹那の早業で魔物の首を刎ねたらしい。
「……もしかして」
ARMや魔法には強くても。
「直接攻撃には弱かった……ってオチ?」
リルカがあんぐりと口を開けて呆れる。
「な、何たる不覚ッ。そのような刃物を振り回す鬼婆のような女が加入していたなんて、聞いておらぬ。ずるいぞ反則だッ」
「鬼婆……?」
カノンがぎろりと睨む。その剣幕に蜥蜴たちはたちまち縮み上がった。
「げ、ゲーくん」
「……げー」
相槌の後、二人揃って一目散に入口へと駆けていく。いつもながら逃げ足だけは速い。
そのまま出ていくのかと思いきや、一度振り返り。
「よいか貴様ら。吾輩の一大傑作『ブルコギドン』が完成するまで、勝負は今しばらく預けておく。好物は最後まで残しておくのが吾輩とプロフェッショナルの流儀なのだ。覚えておくがよいッ」
例によって意味不明な捨て台詞を吐いてから、入口の隙間を抜けて通路へ消えていった。
「はあ、また余計な時間を取られちゃったね」
いちおう収穫はあったけど、とリルカが頭を掻く。確かに『切り札』の情報を引き出せたことは大きな収穫だったが──代償も大きかった。
「でも、どうしてあのヒトたち、ここに残っていたんでしょうか」
ティムが言う。
「そういえば……そうだな」
オデッサは一人残らず撤収しているのに、なぜ彼らだけ残っていたのだろう。
「どうせ置いてかれたんでしょ。もう用なしだったんだよ、きっと」
リルカの言葉にアシュレーも納得する。文字通り、蜥蜴の尻尾を切ったということか。
「次に会ったら──殺す」
背後では短刀を収めたカノンが未だ殺気立っていた。鬼婆呼ばわりされたことがよほど気に障ったらしい。
「で、どうするの?」
「ああ」
一刻も早く、戻らなければ。
皆にそう告げようと振り向いたとき──通信機が鳴った。
ぞわり、と肌が粟立つ。なぜかその音が普段と違って聞こえた。まるで警告音のような──。
不吉な予感を打ち消し、平常心を装って応答する。だが。
〈アシュレー君ッ〉
予感は──的中した。
〈今すぐ逃げてッ! 早く、そこから離れないと〉
「何があったッ」
あのエイミーが取り乱している。ただならぬ事態を悟ってアシュレーも声を張り上げた。
〈君たちのいる地点に、でっかい飛空機械が。い、いきなり現れたんだよ。レーダーにも反応なかったのに〉
「それは……」
──ウィザードリィステルス。
〈おまけに、その飛空機械の中心部にエネルギーが集まってるの。たぶん何かの兵器が動いてて〉
対地兵器──アークスマッシャー。
〈そのエネルギーが、とんでもない量で……これが落ちたら地下の建物だって一瞬で蒸発だよッ。も、もしかしたら砂漠全部が〉
「わかった、離脱するッ」
通信機を切り、逸る気持ちを必死に抑える。
またもや──敵の術中に嵌まってしまった。だが今は後悔している場合ではない。
守らなければ。
大きく息を吸い込み、アシュレーは全身に力を漲らせた。血流が滾り、全身の細胞が沸騰する。
「変身ッ!」
一瞬の暗転。そして──再起動。
漆黒の騎士へと姿を変えたアシュレーは、呆気に取られるリルカを抱きさらい、すぐさま出口に向けて駆け出した。いち早く察したカノンも同じようにティムを抱えて後に続く。
数時間かけて探索した建物をものの数分で引き返し、彼らは地上に飛び出した。
砂地を踏みしめ頭上を仰ぐ。空には。
青白い光の──塊。直視できないほどの輝きを放っている。光が強すぎて機影は確認できなかったが、空一面を何かが覆っていることはわかった。
アシュレーは再び走り出す。とにかく、少しでも遠くに。だが砂に足を取られ、思うように進めない。
上空で耳鳴りのような鳴動が始まった。発射の前兆か。間に合わない。
これまでか──。
破滅を覚悟した、そのとき。
「アシュレー!」
腕の中でリルカが藻掻いた。
「あ、あれって」
震える手で彼女が指さした、その先に。
浅黒い肌の幽霊が、陽炎に揺らめいていた。
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序章
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第一章
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第二章
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第三章
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第四章
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第五章
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第六章
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第七章
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第八章
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終章