小説 WILD ARMS 2
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序章
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第一章
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第二章
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第三章
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第四章
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第五章
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第六章
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第七章
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第八章
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終章
赤い。
ぬらぬらした肉襞のようなものが、周囲を取り巻いている。
意識の上か、それとも下なのか。境目は曖昧となり、もはや夢とも現とも知れぬ。夢であれば紛れもなく悪夢。現であるなら――。
アルテイシア、と姿の見えぬ誰かが言った。
それが誰の名なのか、そもそも名前なのか、それさえも判らない。認識できない。
「成功したよ。これで君は」
滅びの聖母となった――。
聖母。聖なる母。母親に、わたしが。
ああ。確かに、この脈動は。
どくん。
自分のもの。
どくん。
自分でないもの。
この子は、わたしと。
にいさまと。
世界を、滅ぼして――。
「大丈夫だ。彼らが止めてくれる。私も」
最期まで、君と共に。
にいさま、わたくしは。
とても、しあわせでございます。
まさしく世界の中心に、その遺構は鎮座していた。
内海の中央、シルヴァラント大陸の北東から延びた半島の突端。かつては手つかずの原生林に覆われた地であったらしいが、今は木々も枯れ果て、白骨めいた幹ばかりが乾いた風に晒されている。
「なんか」
穴だらけだねぇ、と窓にへばりついていたリルカが言った。アシュレーも隣に立って同じように見下ろす。
彼らを乗せたロンバルディアは、背塔螺旋の真上に滞空していた。巻貝の殻を思わせるその建物は、リルカの言う通り天井と壁面の一部に大きな穴が穿たれている。
「自然に崩壊した感じではなさそうだな。外から誰かが破壊して……いや」
穴の縁が外側に拉げている。これは内側から破られている。
「中にいたモノが外に出ようとして……って、もしかして」
モンスターでしょうか、とティムが表情を曇らせる。
「ここ数ヶ月の間に出現した巨大モンスター。その発生源は――」
「この塔から湧き出ていた――ということか」
アシュレーが復帰後に聞いた話では、異世界の侵食に伴い巨大な魔物が各地に出現するようになり、ARMSは目下その対処に追われたのだという。不在だったアシュレーにはその際の状況は知るべくもないが……仲間たちの苦々しげな顔を見るに、やはり大変だったようだ。
「グラブ・ル・ガブルから産み出された生命が侵食によって変異したか。あるいはグラブ・ル・ガブルそのものが侵食された可能性もあるが」
そうなら手遅れじゃな、とマリアベルは素っ気なく深刻なことを言う。
「グラブ・ル・ガブルはまだ無事だ、ってガイアが言ってます」
ティムが言う。彼には内側に宿ったガイア――ガーディアンの『意思』の声が聞こえているらしい。
「でも、もう時間はないって。カイバーベルトが地中のかなり深いところまで迫っているそうです」
「僕らも急がなければな。ロンバルディア、あの穴から入れるか?」
〈承知した〉
外で駆動音と振動がした。飛行形態から元のドラゴンの形状に戻ったらしい。
天井の穴からゆっくりと侵入し、そのまま降下していく。内部は適度な明るさがあった。光源は見当たらないが、塔を構成している壁や階段そのものが発光しているようだ。
「これが……背塔螺旋」
同一の紋様が刻まれたタイルの壁に沿って、階段がまさしく螺旋状に続いている。引っかき傷や削られた跡が所々にあるのは、魔物がよじ登った名残か。
地下へと下る逆向きの塔を、ドラゴンは一定の速度を保ちながら降りていく。同じような景色が延々と続く。
アーヴィングは、ここを自力で降りたのだろうか。足の悪い彼が。それとも……あれも仮病だったのか。
猜疑心がむくむくと擡げてくる。アシュレーは頭を振ってそれを追い払った。
――彼に会ったら。
言いたいことも、聞きたいことも沢山あった。だが実際にそういう場面を想像すると……言葉が出てこない。
自分は、何を言えばいいのか。何が聞きたかったのか。
わからない。でも。
今は、彼に導かれるまま進むしかない。これは彼の物語なのだから。
信じよう。世界を謀り、人々を欺いたのだとしても、その願いは、想いは同じであると――。
「明るくなってきました」
ティムが言う。確かに壁も階段も光を受けて白みがかっている。
〈底が見えた〉
ロンバルディアが言った。
〈このまま適当な場所を見つけて着地する〉
「ああ。頼む」
光がさらに強くなる。そして。
景色が一変した。螺旋の塔の最下層は、眩いほどの輝きに満ちていた。
「ここは……」
広い。地下深くに築かれた人工の空間に、アシュレーは圧倒される。
「ホントにエルゥって、とんでもないねぇ」
リルカがしみじみと言う。
「こんな場所にこんなモノ作っちゃうなんて。凄いを通り越して、バカだよね」
「卓見じゃな。奴らは」
とんでもない馬鹿じゃ、とマリアベルは吐き捨てる。その言葉には明らかな怒りが込められていた。
エルゥがこの塔を作った目的については、アシュレーも彼女から聞いていた。彼らの理想はおよそ人間の尺度で測ることはできないのかもしれないが――やはりその行為は理解しがたい。産まれる生命を思うままに操作するなど――。
触れてはならない領域というものはあると、アシュレーは思う。畏れる心を失くしたとき、その者たちは滅びの道へと突き進むのだろう。
ロンバルディアは位置を微調整してから着地した。身震いに似た振動の後、背後の降下口が開く。
「なんか、ロンバルディアのうんこになった気分」
そう呟くリルカの脳天に拳を落としてから、アシュレーは降下口から外に出る。
驚いたことに、螺旋の最深部は気温も気圧も地上と変わりなく、快適ですらあった。悠久の刻を経過してなお空気調節装置が機能し続けている。
マクレガーによれば、ここに中心核へと通じる転送装置があるらしいが――。
「魔導器って、これのことかな」
でっかいねぇとリルカが中央で輝く球体を仰いで言った。球の周囲には紋様がびっしりと刻まれた円環が浮遊している。
球体の真下には穴が開いていた。覗き込んでみたが底が見えない。さらに地中深く――恐らく中心核へと続いているのだろう。
「生命力をエネルギー体に変換して送受信を行う――まぁ要するにライブリフレクターと同じ原理の装置のようじゃ。あちらは宇宙に向けて発射するが、こちらは」
地の底――グラブ・ル・ガブルのいる中心核域へと。
「動作も問題なさそうじゃ。そもそも二人が先に使っておるはずだからの」
「で、でもさ」
リルカが不安そうに言う。
「行きは大丈夫でも、帰りはどうなの? ちゃんと……戻ってこられるの?」
こんな地下の奥からではテレポートも無理だろう。自分たちは犠牲になるつもりはない。帰り道のことも考えなければならないのは確かだ。
「それは――」
マリアベルが答えようとしたとき。
球体に変化が起きた。明滅し、重低音と高音が混じった不快な音を発して。
閃光。目が眩む。
次に視界が戻ったとき、目の前には。
巨大な青い翼竜が――牙を剥いていた。
彼らはすぐさま散開した。
両開きの重い扉を開けると、奥には先客がいた。
「マリナ姉ちゃん」
最初に入ったトニーが彼女のところに駆け寄る。それからスコットが続き、コレットは最後におっかなびっくり扉を潜った。
色褪せた赤絨毯の道が足許から延びて、その先には。
祭壇と、ステンドグラス。壇上には石の台座のみが佇んでいる。
剣の大聖堂――。
コレットは、かの有名な『剣の聖女』を祀った聖廟に初めて足を踏み入れた。
「やっぱり、来てたんだ」
「トニー君」
祭壇の前に立っていた彼女が振り返った。肩までの赤毛が揺れ、羽織っていたケープが翻る。
「どうしてここに?」
「落ち着かなくてさ、あんちゃんたちのこと考えると。それで」
「そっか」
私も同じ、と彼女は目を細める。
マリナ――ARMSのリーダーであるアシュレーの幼馴染み。ティムや他の人から話は聞いていたが。
「あら」
彼女もこちらに気づいて、会釈する。噂通りの美人だ。少し気後れする。
「あなたは、確かティム君の……」
続く言葉に迷ったのか、いったん間を置く。彼女は自分のことをどのようにして知ったのだろう。
「お友達、でいいのかな。今は、ね?」
「は、はい」
含みを持たせた言い方に、頬が火照る。マリナはくすりと笑っただけで、あえて気づかないふりをしてくれた。
「あなたもお祈りしに来たの?」
「え、えっと」
まごついていると、トニーが割り込んできた。
「そりゃもう、大好きなティムくんのために、ってなッ」
こちらは配慮のかけらもない。そもそもここに来たのも、八割方はこの強引なティムの友達にしつこく誘われたからだ。
「そう」
大変ね、とマリナはまた笑ってみせた。表情で察してくれたらしい。
「何だかティム君と雰囲気が似てるのね。バスカーの人ってみんな、こういう穏やかな感じなのかな」
「わたくしたちはバスカーにも行きましたが」
少し離れたところにいたスコットが言う。
「穏やかな方もいれば血気盛んな方もおりました。わたくしなりの結論といたしましては、単に似た者同士がくっついただけではないかと」
「く、くっついたって……」
けれど興味を持ったきっかけが、自分と似ていると感じたことだったのは確かだ。その言い回しは不本意ではあるけれど。
「ティム君もアシュレーさんも、今頃は地の底ですかねぇ」
「そうだね……」
コレットは足許を見る。
この地面のずっと下に、彼らはいるのだ。
世界の果て――いや、世界の中心に辿り着いたとき。
彼らは。そして、ファルガイアは――。
「祈るしか、ないですな。我々にできるのは」
「うん。でもね」
マリナは祭壇に向き直り、頭を擡げる。
「気持ちを込めて、願いを託して祈れば、祈りは必ず――届くよ。だから」
祈ることしかできないのではなく。
祈ることができるのだ。
祈りを届けることで、自分たちも、この最後の戦いに――。
「みんなと一緒に」
戦うんだ。
胸の前で両手を組み、彼女は祈る。
その視線の先には。
輝きに包まれた聖女が、剣を掲げていた。
「ビックリしたぁッ」
戦闘が終わると、リルカは開口一番そう叫んだ。
「いきなり出てくるんだもの。心臓に悪いっての」
彼らの前には、現れたそばから退治されることになった不運な翼竜が横たわっている。ARMと魔法の集中砲火を浴びて、巨体は見る影もなく丸焦げだ。
「ここがモンスターの発生源だという話は先程していただろう」
「そうだけどさ、何もこんな絶妙のタイミングで出なくても」
「まあ、でも」
その絶妙のタイミングのおかげで、得られたこともあった。
「これで帰りも問題ないことがわかった。この大きさの魔物が転送できているのだから、僕らは無理ということはないだろう」
「ああ、なるほど」
毛がない功名ってやつだねとリルカが言う。もはやわざと間違えているようにしか思えない。
「これで心置きなく地の底に赴けるの。まぁ――無事に戻ってこられるかは」
結局わからぬがの、とマリアベルは装置の方を見遣りながら言う。球体の手前には円形に仕切られた床があり、そこに立つと自動で転送される仕組みのようだ。
「お、脅かさないでくださいよ」
「脅かすも何も事実じゃ。わらわたちは未知の領域へ行き、目的も知れぬアーヴィングと会うのじゃ。何が起きるのか想像すらつかぬ。おまけに」
爆弾も抱えておる、と彼女はこちらを振り向いた。
「グラブ・ル・ガブルはロードブレイザー誕生の地でもある。聖剣の箍が外れてしまえば――今度は止めてくれる者はおらぬのだぞ」
「……はい」
それも、彼女から聞いていた。
泥の海でエルゥと火のガーディアンが諍いを起こし、それによって、かの『災厄』は産まれ出でたのだという。超高度の技術により栄華を極めた彼らの驕りが、最凶最悪の絶望を生んでしまったのだ。
エルゥの滅亡は、ある意味自業自得だったのかもしれない。だが――被害はそれだけに留まっていない。ノーブルレッドも滅亡寸前に追い込まれ、人間にも多くの犠牲が出た。そして。
アシュレーは俯き、自分の身体を見る。
そいつはこの内側で、今も虎視眈々と復活の機を窺っているのだ。
正直、不安は否めない。だが。
「それでも俺たちは――」
ブラッドが進み出て、球体へと向かう。
「行くしかないだろう」
カノンが続く。
「覚悟はしてます。死ぬ覚悟じゃなくて」
生き抜く覚悟です、とティムが小走りでついて行く。この少年もずいぶん逞しくなった。
「ふん、人間というのは、どこまでも馬鹿で」
観察していて飽きない生き物じゃ、とマリアベルがマントを翻し、前に進む。
「行こう、アシュレー」
リルカが隣に立つ。
「わたしじゃ、マリナさんの代わりはできないけど。でも」
「ああ、ありがとう」
みんなに支えられて。
アシュレーは歩き出し、彼らの待つ円形の仕切りに立った。
光が、世界を呑み込んでいった。
重い沈黙が、その場を支配していた。
シエルジェ魔法学校の研究室。そこに設えられた三台の映像通信用魔導器。
円形の台座の上に投影されていたのは――。
メリアブール王。
シルヴァラント女王。
ギルドグラードマスター。
各々が、深刻な顔をして押し黙っている。
マクレガーは世界の施政者たちの正面に立ち、次の言葉を待つ。彼とて自治領を取り仕切る事実上の長ではあるが。
――それも結局は、アーヴィングによって仕組まれ、用意された地位だったのかもしれない。彼と懇意である自分がシエルジェの意思決定を担うことになれば、話はより通りやすくなる。つまり自分を長に据えることで、彼はシエルジェを掌握しようとしたのだ。
利用されたという思いはあるが、不思議と憤りは湧かなかった。それよりも、そこまでしなければならなかったのかという――ある種の憐憫すら感じていた。
マクレガーは魔導器に映る王たちを眺める。
彼らはどう思っているだろうか。自分と同じく篭絡され、利用された国家の長たちの胸中は――。
「間違いだったのでしょうか」
沈黙を破ったのは、シルヴァラント女王。艶やかな声色も今はくぐもっている。
「彼ひとりに世界の命運を託したこと。私たちは彼に頼るあまり、自ら考え対処することを放棄してしまったのでは」
「だが、結局それが最良の道だったではないか」
突き出た腹に溜め込んだ息を吐いてから、メリアブール王が言う。
「あの男の計略通りというのが癪ではあるが、オデッサを倒せたのも、異世界などという非常識な敵にここまで対抗できたのも、彼奴なくしては到底成し得なかった」
「そのオデッサが、彼によって作られた存在であることを忘れてはなりません」
女王が切り返す。
「敵対したとはいえ、彼らも私たちと同じ人間だったのです。それを、世界を束ねるための犠牲に――生け贄にした。彼らによって苦しめられた者、命を落とした者だっているのです。大義のために犠牲を厭わぬというのなら」
それでは、かのヴィンスフェルトと何も変わりありません、と珍しく女王は厳しい口調で言い切った。
ううむとメリアブール王は唸り、再び押し黙った。
「ふん」
それまで傍観していたギルドグラードマスターが口を開く。傍らには子息であるノエル王子の姿もあった。
「儂は端からあんな若造なんぞ信用しておらなかった。協力したのも我らの民を思えばこそ――」
全ては民を守るためにしたことだ、と仏頂面のまま頭領は言う。
「あんたらだって同じなのではないか。あの若造に協力することが民を守る最善だと考えたからこそ、従ったのだろう」
「それは勿論。ですが――」
「ならばその判断は間違いなどではないわ。結果的に若造の片棒を担ぐことになってしまったのかもしらんが、そんなモノはただの結果論だ。信用するだのしないだの、それこそどうでもいい。儂らは儂らなりに」
できることを、やらねばならないことを――やっただけのこと。
「罪を感じるというのなら、その罪すら背負って民に尽くすのが儂らの役目だろう。儂らは所詮」
「民の僕――民あってこその我々――なのでしたね」
女王は目を伏せる。
「まさか、ギの字に諭される日が来ようとはな」
明日は槍が降るなと王が言うと、今さら何が降っても驚かぬわと頭領が返した。
「ヴァレリア公は――」
ノエル王子が発言する。
「誰よりも世界を、このファルガイアを愛しておられたのだと、わたくしは思います。ですから滅亡の危機を知ったとき、公は誰よりも」
世界を救いたいと――強く思ったのだ。
「そのやり方は正しかったとは決して思えません。ですが、その想いだけは――我々も心に留めておかねばならないのだと、わたくしは思います」
アーヴィング・フォルド・ヴァレリア。
マクレガーにとって、彼は優秀な教え子だった。知識を追い求める、どこまでも純粋な――ひとりの青年に過ぎなかったのだ。
――先生。
僕は――。
マクレガーは目を閉じる。
皺の刻まれた目尻には、涙が一粒浮いていた。
世界の中心は、煮え滾る泥が広がっていた。
彼らが立っているのは人工の足場。今しがた転送してきた魔導器が背後にあり、正面には足場が橋のように奥へと続いている。
橋の両脇は、蒼く輝く泥の海。地上の海は光の波長の具合で青く見えるというが、この海は自らが蒼い色をして、妖しげに発光している。
「暑いッ」
背後にいたリルカが堪らず叫んだ。
「ちょっとシャレにならないんだけど、この暑さ。これじゃアーヴィングさんとこ行く前に倒れちゃうよ」
確かに暑い。アシュレーのシャツも、このわずかな時間に噴き出した汗でびしょ濡れだ。蒼い泥から放たれた熱が原因だろうか。
「ねえティム、なんとかしてよ。ガーディアンの力で」
「リルカさん……」
便利な道具扱いして、とティムは小声で愚痴を言いながらも、鞄からミーディアムを取り出して術を使う。
使ったのは雪のガーディアン――アルスレートの力のようだ。冷気の膜が全員を包み込み、おかげで一気に涼しくなった。
「それにしても」
アシュレーは再び泥の海を眺める。
「これがグラブ・ル・ガブル……生命の源であるガーディアンなのか」
それはおよそガーディアン――生物の姿とは思えなかった。形を持たず、意識もなく、ただ無秩序に生命を産み出す――世界の子宮。
「あまり見るでない」
刮目していると、マリアベルに咎められた。
「汝にとってここは禁忌の地なのじゃ。この光景が、魔神を覚醒させる呼び水になりかねぬ」
「は、はい」
目を逸らし、気を引き締める。外ばかりでなく内側にまで気を配らなくてはならないのは厄介だが――仕方ない。
「アーヴィングは、この先か」
カノンが橋の手前に立つ。
「何がある」
「わらわに聞いておるのか? 知らぬわそんなこと」
ここから先は、誰にもわからない。何があるか。何が起きるのか。
「行くしかない、ということだな」
「ああ」
アシュレーは先頭に立つ。
「行こう」
足を踏み出す。なるべく脇見をしないよう、視線は真っ直ぐ正面に固定して。
黙々と歩いた。ティムのおかげで大分和らいだが、それでも時折熱気を感じてじんわりと汗ばむ。
やがて前方に、何かが見えた。丸い形の建物。いや、あれは。
「何だ……あれは」
カノンが義眼を剥く。ティムもリルカも呆気にとられている。
それは、巨大な心臓のような……何かだった。道の最奥、泥の海に半ば浸かるようにして横たわっている。
「あれも、グラブ・ル・ガブルの一部なんでしょうか」
「あんな禍々しいモノがガーディアンの訳がなかろう。エルゥの趣向とも違うな。カイバーベルトの仕業か――」
それとも――アーヴィングか。
近づくと、通路に続く形で穴が開いていた。中に入れるようだ。
「あの中に」
いる。確信に近い予感をアシュレーは覚えた。
「は、入るの?」
あそこに、とリルカがあんぐり口を開ける。見上げるほどに大きな心臓はしきりに脈打ち、粘液でぬらぬらと光っていた。
「嫌ならそこで留守番しているか」
「あうぅ……わかったよ。行くってば」
彼らは心臓の中に入った。
床はここまでの道と変わりなかった。赤い肉襞の壁。網目のように周囲を走る、血管めいた管。
そして。
「来たか――」
背中が見えた。艶やかな銀髪を下ろした、いつもの背中。
「待っていたよ、アシュレー」
銀髪を揺らし、振り返ったその顔は。
にこりと、嗤っていた。
『ガンナーズヘブン』の店内は、昼間にも関わらず多くの客でごった返していた。
「ルカさん、追加で四つ。一つはアイスです」
「あいよッ」
小気味よく応じると、ルカはカウンターに角砂糖の入ったグラスを並べる。
左端のグラスにだけ氷を加え、蒸留酒を順番に注いでいく。量はグラスの二割ほど。そして。
その上からコーヒーを並々と注ぎ足し、仕上げに生クリームをたっぷり載せる。これで完成だ。
「持ってけ兄貴ッ。こぼすなよ」
兄のアクセルがトレイに移して、危なっかしい足取りで運んでいく。給仕が一人では足りないので昼間は兄にも手伝わせているが、まだ慣れないようだ。
「テーブル片づきました」
「ありがとう。いやぁ、今日も」
大繁盛だ。これも全て。
「あんたのおかげだよ」
「そんな。わたしは」
はにかむ給仕の娘の背中を叩き、それから店内を見渡す。
どのテーブルにも、カウンターにも、同じグラスが載っている。彼女が考案したホットカクテル『ダムツェン・コーヒー』は、今や店のみならず街の名物になりつつある。聞けば模倣する店まで現れたというから、その人気は本物だろう。
「みんなが来てくれる店にしたいなって、思って」
娘も店の様子を眺めている。夜の客と違って昼間は多くが若いカップルや家族連れだ。盛り場には縁のなさそうな、品のいい老夫婦の姿まである。
彼女はこの店に来る前は街娼だった。質の悪い男どもに騙され酷い目に遭っているのを見かねて、ルカが住み込みで雇い入れたのだ。あの頃に負った心の傷は今ではずいぶん癒えたようだが、それでもまだ強面の男や酔客は怖いらしく、時折怯える様子も見せていた。
だから、暴れる客も絡んでくる連中もいない、昼の店内は――彼女にとって心底落ち着くことができる空間なのだろう。根っからの夜の女であるルカにとってはいささか温くて、あの退廃的な空気を懐かしく思うときもあるが。
今は、この子が生き生きとしている、その姿が見られるだけで充分だ。
「あの方にも」
今のこの店を見てほしいなと、娘は少し遠い目をして呟いた。
ルカは思わず吹き出した。
「なんですか、ルカさん」
「いやあ、まぁ」
まるきり恋する乙女の顔だ。二度も助けられているのだから無理もないかもしれないが。
「そうだねぇ。あの人は」
今もどこかで――戦っているのだろうか。
ルカは窓の外を見る。すっかり見慣れた、闇の淀んだ空。あの美しい青空が消えてからどのくらいになるだろうか。
「この異変を何とかするために、ARMSの皆さんが頑張っていると聞きます。きっと、あの方も」
世界を護るために。
自分が生きるために。
あの人は――戦っているに違いない。
「あたしたちも頑張らないとねぇ」
賑やかな店内に、視線を戻す。
こんな状況だが、それでも人間は――自分たちはこうして生きている。逞しく、前を向いて。
「あの人が全部済ませて店に来てくれるまで、あたしたちもここを守らなくちゃ」
「はい」
弱く、ちっぽけで、取るに足らない人間たち。だけど。
「ちっぽけな人間の底力ってやつを、見せてやろうじゃないの――」
どくどくと、壁が脈動している。触手めいた襞も蠕動している。
「アーヴィング……」
アシュレーは目を瞠る。
「その、姿は」
端正な顔立ち。浅葱色のコートに赤の上着。それは紛れもなく自分たちの指揮官だった男。だが。
顔の左半分が、爛れていた。頬の皮膚が溶けて赤い肉が剥き出しになっている。常に彼を支え続けた松葉杖も今はなく、右脚は足首から先が木の根のように変化して、地面に張りついている。
そして、やはり怪我をしていたはずの左腕は。
一本の管と化して、だらりと足許に垂れ下がっていた。
「あ、貴方は」
一体、何をしているんだ――。
動揺し、狼狽した情けない声が、肉襞に覆われた空間に響く。
「降魔儀式を――行った」
碧眼でこちらを見据えながら、彼は口を開いた。
「媒介する魔具を持たずして直接禁術を行使すれば、その呪は使用者にも及ぶ。まあ半分は自ら望んだことではあるが――」
感情を伴わない言葉。いつもと変わりない。だが。
「降魔儀式か」
マリアベルが言う。
「何を降ろした。そして、誰に降ろした」
「アーミティッジ女史。貴女はもう」
解っているはずだ、とアーヴィングは左脚だけ動かして身体を横に向けた。
ぞっとした。
左腕の管は、足許から背後に延びて――肉の壁に繋がっていた。
彼は既に、この巨大な肉塊に取り込まれている。それとも……この肉塊が彼の一部なのか。
どちらにしても、この脈動は恐らく彼の――。
いや。
どくん。
どく、どくん。
脈は一つではない。複数ある。
そこで気がつく。この場にいない、もう一人のことに。
「トラペゾヘドロンを用いずに、カイバーベルトを『器』に封じる――」
いつものように、彼は一同を前にして語りを始める。
「この不可能とも思われた難題に対して、大きな示唆を与えてくれたのは、そう」
君なのだよ、とアシュレーに視軸を移した。
射竦められたアシュレーは動けない。内臓を鷲掴みにされているような不快感を覚えた。
「君は降魔儀式によって、世界に匹敵するほどの概念を内側に宿した。即ち人間こそが、異世界を封じ込める『器』たり得るのだと――私は悟った」
「人間に――封じる?」
カノンが言った。
「まさか、お前は」
妹を。
そう。彼女がいない。一体どこへ――。
どくん。
――まさか。
「彼女にカイバーベルトを降ろしたのか」
ブラッドの重い声が、その場の空気を震わせた。
「何てことを……お前はッ」
ブラッドが取り乱している。リルカは口に手を当てて青ざめ、ティムはその場に座り込んだ。
「アルテイシアは、受け容れてくれたよ」
目を細め、微笑を浮かべる。
その横顔は、魂も凍りつくほどに――美しかった。
「彼女も英雄の末裔。その宿命に殉じることを、望んでいたのだ」
「宿命などッ」
カノンが吠えた。
「お前は、あたしを宿命の呪縛から解き放った。なのに、そのお前が宿命に屈するのかッ」
「そうだね」
とても、愚かなことだと、アーヴィングは目を伏せた。
「愚かしい、人倫にも悖る所業だ。だが、それを理解してもなお」
目を開く。
その眸に迷いはない。感情を排し、あらゆる執着を捨て去った男の顔は。
「やらねばならないときは――あるのだよ」
慈しむような微笑を――浮かべていた。
背筋が凍る。恐怖というより畏怖に近い感情を、アシュレーは抱いた。
「なんで、笑ってるの」
リルカが声を震わせる。
「わかんない、ちっともわかんないよ。みんなを騙して、あんなに大事にしてたアルテイシアさんまで犠牲にして……どうして」
笑っていられるのッ、とリルカは涙で濡れた顔を上げて叫んだ。
どくん。
どく、どくん。
これは、彼女の鼓動。でも、もう一つは。
「英雄であったなら――」
アーヴィングはその目にわずかな愁いを滲ませて、独語する。
「あのとき剣を抜いていたならば、このような手段を選ばずとも世界を救えていただろう。だが」
英雄でない者が、世界を救うには。
「こうするしか、なかったのだ」
そんなことは――。
抗弁したいが言葉が出ない。どうすれば異世界を祓えたのか。彼のやり方以外に世界を救う方法があったのか――その問いに答えられない限りは、どのような反論も説得力を持たない。
だが、それでも。
「どうして……そこまでするんですか」
下を向いたまま、ティムが尋ねる。
「英雄じゃないのに世界を救うなんて、どうしてそんなことを……」
「愛しているからだ」
アーヴィングは即答する。
「この世界を、ファルガイアを私は愛している。そう――護りたかったのだ。あの美しい」
荒野に咲く、小さな花たちを――。
「君たちも知っただろう。私は――自らの知識を駆使して全方位に仕掛けを施した。異世界に対抗するには、こちらも世界全体で臨まなくてはならない。弱く脆い人間を一刻も早く結束させ統率する必要があったのだ」
愛する世界。それを護るために。
だから。
「だからオデッサを生け贄にしたというのか」
ブラッドが言う。
「お前はヴィンスフェルトの野心を利用し、統率のための踏み台にした。それによって、一体どれほどの犠牲を生んだと思っている。お前のしたことは、奴の裏返しに過ぎないッ」
「解っているよ」
指揮官だった男は、張りついた右脚を軸にして背中を向けた。
「動機とやり方が違うだけで、彼と私は本質的に同じだった。だからこそ――適任だったのだよ」
「どういう……意味だ」
アシュレーは背中を凝視する。
何度も、幾度も見てきた背中。頼もしくもあり、不安を覚えたこともあった。
今は。
――わからない。
「彼は、私の『影』だ。自分の中にある醜い部分を体現した存在、それが正にヴィンスフェルトという男だった。傀儡としてこれほど相応しい者はいない」
『影』は、何もせずとも彼の期待通りに動いた。動きが読めれば対処も対応もいくらでも可能だ。筋書き通りの敵役を、哀れなヴィンスフェルトは何も知らずに演じていたのだ。
「そして同時に、彼の存在は戒めでもあった――」
彼が傲慢に、醜く振る舞えば振る舞うほどに。
それは自分の中にもあるのだと自覚させられ――苛んだ。
「『人類の敵』は――私自身でもあったのだよ」
「アーヴィング……」
この男は、何もかも覚悟の上で。
自らが世界の敵となることで、世界を救おうとしたのだ――。
全てはファルガイアのため。狂おしいまでの……愛。
「……アルテイシアさんは」
リルカが顔を上げる。
「アルテイシアさんのことは、愛してなかったんですか。あんなに大事にしていたのに。いつも仲良く……笑ってたのに」
「愛しているよ」
「なら、どうして助けてあげなかったんですかッ。ファルガイアは救っても妹は救わないなんて」
そんなのおかしいッ、とリルカはティムと同じようにへたり込んで、項垂れた。
「そうだね」
どちらも救えなかったのは私の力不足だ、とアーヴィングは再び正面を向いた。
「だからせめて――望みを叶えてあげようと、思ったのだ」
――望み?
なぜか悪寒がした。不吉な予感。これ以上、何があるというのか。
どくん。
どく、どくん。
二つの鼓動。一つが弱まり、もう一つが強くなっている。
「アルテイシア――」
管と化した左腕。それを翳して、彼は呼びかけた。
「君は今、幸せかい」
すると。
髪の色が、変わった。冷たき白銀から――流れる蜜のごとき金色へと。
「はい」
穏やかな微笑。鈴を転がしたような声。それは紛れもなく。
「わたくしは、とても――しあわせです」
彼女は、そう言った。
「にいさまとひとつになれて」
カノンが、ブラッドが目を剥く。
「にいさまの子をやどして」
リルカが泣き濡れた顔を上げる。ティムはその横で茫然とする。
「わたくしは、いま、とても」
しあわせで――ございます。
「やめてえぇッ!」
リルカが頭を抱えて蹲った。
「もう、たくさんだよ、こんなの……聞きたくないッ」
絶叫が肉襞に吸い込まれ、虚しい静寂が訪れる。
――にいさまの、子?
思考が一瞬、停止する。信じがたい、信じたくない事実に動悸が上がる。全身がうち震える。
「人間をカイバーベルトの『器』とするには――」
冷徹な、アーヴィングの声。髪も銀色に戻っている。
「その人間自身の『意識』が阻害要因になる可能性があった。降ろすのは魔物のような一個体ではなく、世界という途方もない概念存在だからね。確実に成功させるためには『意識』が邪魔だった」
だから。
「『意識』のない『器』――それが必要だったのだ」
まさか。
降ろしたのは、アルテイシアではなく。
「彼女は『滅びの聖母』。世界を滅ぼすのは、その内側に宿した――」
どくん。
ああ、この鼓動は。
母親。そして。
どく、どくん。
子宮の中で、体を丸めて眠る、
胎児。
「う、あああああぁッ!」
感じたことのない疼きが内側を駆け巡った。アシュレーは身体を折り、頭を掻きむしる。
「いかん、アシュレー!」
マリアベルが叫ぶ。
「抑えるんじゃ。魔神に呑まれるぞッ!」
もう遅い。
激情が渦を巻き、奔流となって全てを押し流して。
「ガアアアアアアアアァッ!!」
世界が陽炎で揺らめく。焔を纏って、自分は。
「アシュレー!」
声を上げたリルカの方を向く。そして。
「大丈夫……だ」
喉を振り絞り、そう応えた。ギリギリのところで――踏み止まったようだ。
「ナイトブレイザー――か」
アーヴィングがゆらりと揺れる。赫く騎士の姿になったアシュレーは向き直る。
「君のその力は、常に私の予測を凌駕した。忌まわしき魔神の力ではあったが――私にとって、君は」
唯一の希望でも――あったのだよ。
そう言うと、指揮官だった男は腰の剣を抜き放った。
アシュレーは身構える。だが。
アーヴィングは剣を逆手に持ち替えた。
「カイバーベルトはアルテイシアの身中に降ろした。この腕で――」
左腕を見る。
「私は彼女と……異世界と接続している。私はいわばカイバーベルトの端末。この身体を通して――」
剣の切っ先で、右脚を示す。
「ファルガイア――グラブ・ル・ガブルと繋がり、今も侵食を続けている。概念存在のままでは断ち切ることは不可能であったが」
こうして実体化した今なら。
刃を、自らの脚に当てて。
「な」
切断した。
腿の切り口から鮮血が噴き出す。赤黒く汚れた地面に剣を突き立て身体を支えながら、彼はこちらを向く。
「これで異世界とファルガイアは切り離された。ファルガイアは……護られた」
左半分が爛れた顔は苦痛に歪んでいる。だが。
どこか、安堵しているようにも――見えた。
「さあ、君たちの出番だ」
眉間に皺を寄せ、この期に及んで、なお。
彼は指揮官の顔をして――命じた。
「カイバーベルトを倒せ。今こそ、この戦いに」
終止符を打つのだ――。
地面が揺れる。肉襞の蠕動が激しくなる。
「アシュレー!」
ブラッドが呼んだ。彼はこちらを見ながら背後の入口を指さしている。
大きく開いていたはずの入口は、周囲の肉の収縮に伴い小さくなっていた。
まずい。
「外に出るぞッ」
「で、でも、アーヴィングさんは」
「あいつはもうアーヴィングじゃない。カイバーベルトの一部だッ」
カノンが座り込んでいるリルカを掻っ攫って駆け出す。アシュレーもティムを抱えて後に続く。
みるみる窄まっていく入口を潜り抜けて、どうにか脱出した。
ティムを降ろし、振り返る。心臓のような肉塊は――。
変貌していた。
赤い肉からいくつもの突起が生え、枝分かれして広がっていく。幹は青黒く脈打ち、下に伸びた二本の根でそれらを支えている。
――これが。
「カイバーベルト……」
アルテイシアが宿した『器』に降ろした異世界。
それは、奇怪な樹木のような姿をしていた。世界を自らの理に創り変える、異形の世界樹――中枢装置。
〈倒すのだ〉
アーヴィングの声がした。姿は見えない。この幹の内側か――それとも。
〈時間が経てば根が修復され、再び侵食が始まってしまう。その前に〉
異世界がファルガイアと分離している――今のうちに。
〈カイバーベルトを、完全に滅するのだ〉
「アーヴィング……」
目の前にあるのは、異変の元凶。世界を蝕み、滅ぼそうとしてきた存在。だが。
この中には。
アーヴィングが。そして……アルテイシアが。
〈案ずることはない〉
彼は言った。いつものように、何もかも見透かして。
〈私の意識もアルテイシアの意識も、間もなく消失する。聖母は役目を果たし、端末は本体の意に叛いたことで排除される。ここにあるのは〉
我々の敵――ただ、それだけだ。
「だけどッ」
それでも。
〈ありがとう、アシュレー〉
声が徐々に弱まる。遠ざかる。
〈私を信じて、戦ってくれたこと……本当に感謝する。君になら……安心して託せる〉
ファルガイアを。
〈よろしく……頼……む〉
「アーヴィングッ」
消えてしまう。
まだ言いたいことも、聞きたいことも残っている。いや、それ以上に。
あの姿を。
いつもの声を。
もう一度――。
〈君たちと……会えて、共に戦えた……こと……を……〉
私は。
それが、ARMS指揮官の――最期の言葉となった。
「──アーヴィング――!!」
伸ばした手は、もう届かない。永遠に。
なぜだ。
同志だった。同じ理想を抱き、同じ未来を描いて戦ってきたはずだ。それなのに。
こんな決別の仕方しか……なかったというのか。
認めない。認められない。こんな犠牲は――。
「アシュレーさんッ」
ティムの切迫した声で、引き戻される。
振り返ると、仲間たちは魔物の群れに取り囲まれていた。周囲の泥の海から続々と湧き出ている。
「蜥蜴の尻尾じゃな。切り離された反動でまとめて出現しておる」
残り物のバーゲンセールじゃッ、とマリアベルは自棄っぱち気味に喚いた。
「そっちは任せた。何とか切り抜けてくれッ」
アシュレーは。
忌まわしき世界樹。その前に立ち、拳を固めて。
全身を――滾らせた。
「アーヴィング――」
一緒に、戦おう。
潮風を正面から受けて、メリルの三つ編みは肩の後ろに吹き流された。
村の西にある浜辺。砂浜には船底が朽ちかけた漁船が野晒しになっている。漁に出られなくなってから、もうどのくらいになるだろう。
メリルは車椅子を押している。舗装されていない道に車輪が取られてがたごと弾み、その度に車椅子のビリー――ブラッドの戦友の頭も小刻みに揺れる。
いつもの場所に車椅子を停めて、メリルは空を見上げた。
「……暗いね」
ビリーに話しかけるようにして、彼女は言う。
「いつまで続くんだろうね、この――」
黒い空。昼間なのに夜のように真っ暗で、おまけに悪い夢のように渦を巻いている。
最後に青空を見たのは半年前か、それとももっと前になってしまったか。見慣れたとはいえ、やっぱりこんな空は落ち着かない。不自然だ。
ここは、人間が生きてはいけない世界。人間以外のモノの場所。ずっと見ていると、お前たちは出て行けと責められているみたいで――。
目を背けた。下を見たところで、浜の向こうに広がる海も同じように暗いのだけれども。
青く澄んだ空。きらきらと輝く海。あの懐かしい風景を取り戻すために。
「おじさんたちは、戦っているんだよね」
負けない。あの人たちのことを思えば、へこたれてなんていられない。表情を引き締め、遠くに向けていた視線を手前に戻す。
ビリーは頭を下に向けて、膝に置いた自分の手を眺めている。掌の上には楕円の金属板――認識票。銀色の鎖が指の間からこぼれ落ちている。
近頃彼は、こうしてずっと認識票を手にして弄んでいる。以前からずっと持っていたはずなのに、まるで取り戻した宝物のように四六時中眺め、指で撫でて。
「あれ?」
その様子を頭越しに見ていたメリルが、ふと気づいた。
「この認識票……」
彼が持っていたものではない。金属板に刻まれた名前が、違っていた。
車椅子の前に回り込み、もっとよく見ようと顔を近づけたとき。
「ビリー……」
彼が呟いた。その顔を見て、メリルははっとする。
「あり……が、とう……」
泣いていた。かすかに理性の灯った瞳で、ぽろぽろと涙を流して。
それはほんの数秒の出来事で、すぐにまた虚ろな目になって譫言を洩らし始めたけれど。
――もしかしたら。
メリルは思い至った。彼らの秘密に。交わされた戦友同士の約束に。
「そっか。おじさんってば」
ずっと隠していたんだね。この人のために。みんなが勘違いしてもあえて言わずに、この人の分まで――抱え込んだ。
「ホントにもう……しょうがないなぁ。でも」
別に、何も変わらないか。
おじさんが、自分にとっての『英雄』で、この人はおじさんの大事な友達で。
何も変わっていない。同じだ。これまでも、これからも。
「ビリーおじさん、か」
やっぱり変な感じかなとメリルは苦笑して、それからまた、空を見上げた。
少しだけ明るくなった――気がした。
同じだった。
姿形は全く違う。だが、この回復の異様な早さも、精神汚染をもたらす攻撃も。
トラペゾヘドロンで戦ったカイバーベルトと――同じだ。まるであの作戦が予行演習だったのではないかと錯覚するほどに。
これも――貴方の目論見通りか。
ほくそ笑む指揮官の顔を脳裏に過らせながら、アシュレーは拳を振り上げ世界樹の中心に叩き込む。
幹が粉砕されて穴が穿たれる。さらにかき分けて内側を覗こうとするが、すぐさま繊維が繋がり、肉付けされて元通りになった。
世界には『核』がある――それも前回の戦いで学んだことだった。探し出して、破壊しなければ。だが。
一旦間合いを取り、相手の様子を窺う。丸い瘤状だった根の先端が吸盤のように地面に張りつき、四方に張り出そうとしていた。
アシュレーは光の剣を繰り出して、それを切断する。少しでも手を緩めると、カイバーベルトはすかさず修復した根で侵食を始めようとする。おかげでこちらも目が離せず、なかなか『核』探しに注力できない。
しかも。
〈絶望せよ〉
内側から、声が響く。
〈我に任せればそのような魔物、一瞬で片付くぞ。さあ〉
そこを退け。
絶望に身を委ねよ。
――黙れ。
兜の目庇を手で覆い、顔を顰める。
やはり、まだ危険水域に達したままなのだ。少しでも気を緩め、挫けようものなら乗っ取られてしまう。
――このままでは。
堪えきれなくなるかもしれない。打開策を考えなくては――。
「アシュレーさんッ」
振り返る。ティムがこちらを向いて立っていた。その後ろでは仲間たちが魔物と交戦中だったが、数はかなり減っているように見えた。
「加勢します。プーカッ」
「がってんなのダッ」
放り投げたミーディアムに亜精霊が飛びつく。そして。
電撃を纏いし獣――ヌァ・シャックスへと姿を変えた。
雷の守護獣はカイバーベルトに飛びかかり、鋭い爪の生えた前肢を振り下ろす。稲妻に打たれた大木さながらに幹が二つに割れ、裂けていく。
――見えた。
裏返しの世界――闇が渦巻く球体が、幹の最下部に埋まっていた。トラペゾヘドロンで見たものよりも倍近く大きかったが、形は同じだ。間違いない。
修復が始まる。この機を逃すわけにはいかない。アシュレーは駆け出したが――間に合うか。
「幹の付け根だッ」
後ろからカノンの声がした。続いてARMの砲火音。アシュレーは咄嗟に身を屈めた。
ブラッドが放ったミサイルが、リルカとマリアベルの魔法が頭上を掠めてカイバーベルトに命中する。幹が大きく抉れ、『核』が完全に露わとなる。
「今だ、アシュレー!」
「アシュレーさん!」
「アシュレー――いっけえぇーッ!!」
――そう。
どんなときも、僕はひとりじゃない。みんながいる。仲間がいる。
黄金色に燃え立つ騎士が疾駆する。振りかぶった拳に、ありったけの闘気を込めて。
みんなの想いを乗せた、その一撃を――
叩き込んだ。
光の中で闇が弾け、千々に飛び散り、消滅していく。
裂かれた幹と枝が、異形の世界樹が、砂塵となって――天へと昇る。
アシュレーは拳を降ろし、その場に佇む。虹色の雨が降り出して彼の鎧をしとどに濡らした。
終わった。これで……完全に。だが。
――アーヴィング。アルテイシア。
大きな犠牲を払っての――勝利。これは、自分の望む結末ではなかった。
やはり、無理なのか。全ての人が幸せになることは……望んではいけないことなのか。
それでは、僕は――。
ぼとり、と何かが肩に落ちた。
首を動かし、それを見る。黒い、闇よりもなお黒い、それは。
一片の――絶望。
「し、まっ――」
彼の世界は闇に覆われた。
本当だ、とマリナは空を見上げながら言った。
「明るく……なってる」
コレットも同じように空を仰ぐ。後ろではトニーとスコットも、やはり頭上に釘づけになっている。
四人はさっきまで聖堂の中にいた。コレットがステンドグラスの向こう――外の変化に気づいて、飛び出してきたのだ。彼らが見上げる空の色は。
どろどろと渦を巻く、黒。だが――それが薄れてきている。禍々しい闇黒の膜が透けて、その向こうに覗いているのは。
澄み渡った空。まだ青くは見えていないけれど、それは間違いなく、かつてのファルガイアの空だった。
「これって、もしかして」
「異世界の侵食が止まった――ということでしょうか」
背後の二人が声を上げる。そうだよ、きっとそうだとトニーは燥ぎ出した。
「あんちゃんたちがやったんだよ。すげえッ」
コレットもその事実を確信し、喜びかけたが。
「マリナさん……?」
横を見ると、彼女は逆に不安そうな表情になっていた。寒いように身を縮め、俯いている。
「どうしたんだよ、姉ちゃん」
それに気づいたトニーが近づく。
「何シケた顔してんだよ。あんちゃんが」
「アシュレーが」
いきなり顔を上げる。驚いたトニーがわッと尻餅をつく。
「呼んでる」
そう言うと、マリナは駆け出して聖堂へと戻っていった。
「何だってんだよ、一体……って」
腰を摩りながら立ち上がったトニーが、固まる。
コレットも目を丸くする。
聖堂の建物。その窓から強烈な光が放たれていた。
何かが起きている。中で。恐らく祭壇で。
――まだ終わっていない。
予感めいたものを覚えながら、コレットも聖堂の入口へ走っていった。
仄暗い。まるで海の底にいるようだった。
「ここは……」
声を出せる。息もできる。だが、どこか普段の感覚とは違っていた。
アシュレーは視線を下ろし、腕を上げて自分の手を見る。人間の手。変身は解けている。
いや、それどころか――。
「……いない」
奴が、自分の内側にいない。重石が取れたように体がやけに軽かった。違和感があったのはこのせいか。
どこに行った。自分から離れて、奴は――。
〈お前には感謝をせねばなるまいな〉
頭上から、不穏な声がした。ぞくりと全身の肌が粟立つ。
〈長きに渡り我の憑代となり、この地まで導いてくれた。そして漸く――〉
色の失われた、灰色の大地。そこに降り立ったのは。
〈我ハ復活セリ〉
「馬鹿なッ!」
それは間違いなく、外側にいた。アシュレーは乗っ取られていない。意識を抑えられてもいない。
「お前の、その身体は」
兜から左右に広がる漆黒の翼。灼熱する甲冑に、白く硬質な手足。こいつが。
焔の災厄――ロードブレイザー――。
〈カイバーベルト、と言ったな。あの異界の『器』。その一部を――〉
「ま……まさか」
あのとき。飛散した『器』の欠片……それがアシュレーに触れた瞬間に。
乗り移った――のか。
〈例え僅かな肉片であろうと、意識が宿り結合さえすれば、生命の要件を満たし産まれ出ることができる。そう――この生命始源の地であればな〉
実際、このロードブレイザーはガーディアンの一片から誕生している。千切れた一翼に悪しき感情が宿り、グラブ・ル・ガブルの能力によって生まれた。奇しくもそのときと同じ手段によって――復活したのだ。
それでは。
「僕は、お前の復活の……手助けをしてしまったのか」
魔神の意識を宿したまま、世界の子宮に赴き。
新たな『器』と接触させる、その機会を――与えてしまった。
〈気に病むことはない〉
愕然とするアシュレーに、魔神は言う。
〈全ては偶然である。だが偶然を必然に覆す『見えざる手』こそが――奇蹟である。我は奇蹟を起こしたのだ〉
そんな奇蹟は、認めない。
アシュレーは拳を固める。だが。
〈これこそが天からの祝福。我の復活と蹂躙を天も望んでいるのだ〉
凡百モノハ絶望ヘト帰結スル――。
〈これが――真理である〉
「違うッ」
絶望が真理など、そんなことは決してあり得ない。
感情を肚に滾らせる。だが、もう反応はない。何も起こらない。
〈何故否定する。お前も既に識っていることだろう〉
生物に最後に訪れるは、死。
物質に最後に訪れるは、崩壊。
世界に最後に訪れるは、消滅。
全ての存在は、虚無へと――絶望へと収束するのである。
〈認めよ。どれほど抗おうとも、人は最期には――絶望に支配されるのだ〉
「違う、違う違うッ」
胸を掻きむしり、必死に内側を揺さぶる。
魔神は既にいない。だが、もう一方は。どうして反応しない。呼びかけに応じない。
〈アガートラームは制御できぬ〉
円環の台座の上で浮遊する魔神は、アシュレーを見下ろして言う。
〈聖剣は聖女の意思によって我を抑えていた。お前の意では動いておらぬ。お前は〉
お前の力で剣を抜いたわけではない。
お前は――英雄などではないのだ。
アシュレーは膝を折り、灰色の地面に両手をついた。
〈屈したか。この瞬間はいつ味わっても甘美であるな〉
魔神の甲冑に炎が宿る。紅蓮に燃え盛り、焼き尽くす――焔。
〈さあ、復活の宴を始めよう。お前のその絶望――〉
喰ってやろう。
百億の絶望が、アシュレーに襲いかかった。
「アシュレーッ!」
リルカが悲痛な声で叫んだ。
蒼き泥の海が広がる地。そこには先程まで異世界を宿した大樹が聳えていた。
今は。
灼熱の焔に縁取られた楕円の鏡――いや、投影機か。ここではない、どこかの光景を映している。
灰色の大地。そこに蹲るアシュレー。炎の驟雨が降りかかり、全身を灼き焦がしていく。
その彼を睥睨し、闇の中に君臨する妖しき影。それこそが。
ロードブレイザー――かつてファルガイアに絶望を振り撒いた、焔の災厄。ついに、復活してしまった。
「くそッ」
カノンが投影機に近づこうとするが、焔の熱に晒され、腕で顔を覆う。
「何だこれはッ。アシュレーはどこに飛ばされたんだッ」
「飛ばされてはおらぬ。恐らく結界を張ったのじゃろう」
結界――シエルジェの街を丸ごと隠したあの魔法と同じように、空間を仕切って侵入を遮断したということか。
「ここにはいるんだね」
だったら、とリルカは大きく息を吸って、身を屈めた。突っ込むつもりか。
「よさぬか馬鹿者ッ」
地面を蹴って駆け出したところを、マリアベルに腕を掴まれ止められた。
「消し炭になるだけじゃ。所定の手順を踏まねば結界の中には入れぬ。汝が一番よく知っておることではないかッ」
「でも……だって、アシュレーがッ」
アシュレーは今もなお、火の雨に打たれ続けていた。髪は焦げ、服はあらかた焼け落ちて、炎が直に肌を灼いている。
「ロードブレイザーは、なぜ結界などを。それに」
どうして俺たちに見せる、とブラッドは燃え盛る楕円を見上げて言った。
「彼奴は復活したばかりじゃ。恐らく今は――さほど強くない。わらわたち全員が相手では分が悪いと察したのじゃろうな」
だから、結界を張って一時的に干渉を遮断し、殻に籠りながら――絶望を吸収する。
「アシュレーは餌じゃな。ああして甚振ることで絶望させて、それを喰らう。先の災厄でも同じやり方でみるみる増長して――手がつけられなくなった」
「そんな、それじゃあ」
「もうじき地上の人間どもの絶望も……吸収が始まる。そうなればもはや無敵じゃ。絶望する人間がおる限り、彼奴は決して死なぬ」
リルカががくりと膝をついた。
「う、ううう」
胸を押さえ、苦しんでいる。その指の間から何か黒いものが漏れ出して、投影機の方へと吸い込まれていく。
「リルカッ」
それに気づいたカノンがすぐさま詰め寄り、彼女の頬を打った。
「気をしっかり持て。絶望を喰われるぞッ」
リルカは夢から引き戻されたような顔で、何度も頷いてみせた。
「これを見せているのは」
ブラッドが投影機を睨む。
「俺たちにも絶望させるためか」
「そうじゃ。強き心が折れたとき、強き絶望を生む。それが彼奴を一層強くする」
牙の見える口許を歪めて、マリアベルは投影機の向こうの魔神を見遣る。
「口惜しいが……八方塞がりじゃな」
アシュレーは助けられず、ロードブレイザーは絶望を喰らい、力をつけていく。これを見ている彼らも挫けて魔神の餌になるのは時間の問題だ。
「もはや――これまでか」
カノンが悔しげに顔を背ける。リルカは俯き、ブラッドは画面を凝視したまま肩を怒らせている。
それら全てを見ていたティムは。
何だかやけに――冷静だった。我ながら不思議なほどに落ち着いていた。
どうしたのだろう。いつもなら真っ先に動揺して取り乱すはずなのに。異常なことの連続で感覚が麻痺してしまったのか。
まさしく絶望的な状況だった。みんな諦めかけている。でも、ティムは。ティムだけは。
まだ何かできるのではないかという――気がしていた。
「ティム」
プーカが袖を引いた。ティムは下を向き、亜精霊を見る。
「キミの番が来たのダ。キミが」
世界を繋ぐのダ。
「キミにはそれができるのダ。なぜなら、キミは」
ああ。
そうだ。ボクは。ガーディアンの。この世界の。
――『柱』――。
勢いをつけて、地面に杖を突き立てる。全員が驚いてこちらを向いた。
ふと、いつかノエル王子に言われたことを思い出した。
――ティムさんは、ティムさんにできることを――。
自分の役割。それが一体何なのか、ずっとわからなかったけれど。
率いる者。
支える者。
先駆ける者。
拓く者。
観測する者。
そして、自分は。
繋ぐ者――。
「みんな」
ティムは言った。
「みんなの希望を――ボクに預けてください」
「な」
後から入ってきたトニーが、コレットの横を通って歩いていく。
「な」
先にいたマリナも抜かし、祭壇の前に立ち。
両手を上げて――叫んだ。
「なんで戻ってきてるんだよッ!」
彼の小さな頭の向こうには、台座と、そして。
それに突き立った大剣が――佇んでいた。
マリナも、最後に戻ってきたスコットも唖然と立ちつくし、それを眺めている。
先程の光の出元はこの剣だったのだろう。今も仄かに輝きを残す幅広の刀身は――。
コレットは視線を上に動かし、ステンドグラスを見る。
聖女が掲げている、その剣の姿と……同じだった。
トニーたちの反応からしても、間違いないだろう。この剣は。
かつて焔の災厄を鎮めたという、聖剣アガートラーム――。
「さっきまでなかったよな。見間違いじゃ、ないよな」
「トニー君」
スコットがつかつかとトニーの隣に歩み寄り、その頭を叩いた。
「痛ぇな、何すんだよッ」
「失礼。夢でないかを確かめようと」
「おいこら、それなら自分を殴るものだろうが。オレを殴ってどうすんだよッ」
猛抗議するトニーをよそに、スコットは顎に手を当ててまじまじと剣を観察する。
「本物……のようですね。この剣は降魔儀式の事件以降、アシュレーさんの中にあったはずですが」
と、いうことは。
「あんちゃんに何かあった……ってことか」
コレットはマリナを気にする。背中を向けていて表情はわからない。
彼女にどう話しかけたものか迷っていた、そのとき。
〈コレット〉
声がした。
トニーでもスコットでも、マリナでもない。頭に直接響いているような、この声は。
「ティムくん?」
思わず大きな声を出してしまった。その場の全員に振り向かれ、顔が熱くなる。
〈よかった、届いた〉
確かにそれはティムの声だった。この足許の、ずっと下にいるはずの――彼が。
「どうして……?」
〈ガーディアンの……ガイアの力を借りて話してる。夢見である君になら届くと思って〉
トニーが胡乱な顔をし出したので、コレットは慌てて説明をして、それからティムに尋ねる。
「何か……あったの?」
〈うん。その、アシュレーさんの……中にあった〉
聖剣が。
そう続くと予想していたが、外れた。
〈焔の災厄が……復活してしまった〉
「え……」
彼が宿していた、もう一つの存在――魔神ロードブレイザー。それが。
この時代に、再び――。
「コレットちゃん」
マリナの声に、コレットはびくりと身を縮ませた。
「私にも、聞かせてくれる? アシュレーのことでしょう?」
「は、はい……」
何だか少し、彼女が怖かった。怒っても切迫しているわけでもないのだけれど、どこか……声色に有無を言わせないものを感じた。
〈アシュレーさんは……このままじゃ、ロードブレイザーに〉
続く言葉はなかったが、危機感はひしひしと伝わってきた。
「そう」
危ないのねとマリナは神妙に呑み込んだ。その態度も冷静すぎる。まるで何か――別の意思に突き動かされているようだった。
「それなら――これが必要ね」
彼女は踵を返し、祭壇に登り。
「アシュレーに届けないと」
屹立する聖剣。その前に――立った。
「な」
何言ってるんだよッと、トニーがまた大声を上げた。
「それは、英雄じゃないと抜けないって」
「でも、アシュレーは抜くことができた。英雄じゃないのに」
「そ、それは」
マリナは目の前の剣を見ている。真っ直ぐな瞳。迷いはない。
「――そう。この剣を抜いたから、アシュレーは」
戦う力を手に入れた。そして。
みんなに望まれ、期待されるまま、戦い続けて。
「傷ついた。いつも傷だらけで、ボロボロになって帰ってきた」
そこまでしないと英雄になれないのか。
それなら英雄とは、生け贄のようなものではないか。
「生け贄……」
コレットは呟く。
それは、自分やティムを苛んでいた呪縛でもあった。犠牲となることで世界を救う――そんな理不尽な運命に彼もコレットも反発して、結局は拒んだのだ。
「もし、その通りなら」
英雄とは世界を救うための生け贄であるというのなら。
「英雄なんて――いらない」
マリナは言った。淀みのない、澄んだ声が英雄の聖廟に響いた。
「誰かに押しつけて、誰かを犠牲にして。そんなことで得られた救いが、本当の救いのはずがない」
残されて悲しむ人がいる。新たな犠牲を強いられて苦しむ人がいる。
そして、何より。
愛する世界のために、犠牲となった人がいる――。
止めなければ。この連鎖を断ち切らなければ、また同じ悲劇を繰り返してしまう。
「みんなの世界なんだもの。みんなで護らなきゃ」
誰かに押しつけるのではなく。
「私たち全員で、世界を救うんだ」
そこに立っているのは、ただの娘。何の力も持たず、弱さすら感じる――普通の人間。
だけど。
彼女の頭上。ステンドグラスに象られた、その娘も――思えばただの人間だったのだ。
それなら、わたしも。
〈コレット〉
ティムが再び呼びかける。
〈頼みがあるんだ。地上にいる、みんなの願いを〉
繋げてほしい――。
「願いを……繋げる……?」
〈ロードブレイザーは、人間の絶望を吸収して強くなる。人の心に絶望がある限り倒せない〉
だから。
〈それを断ち切らないといけない。みんなの心から絶望を……なくすんだ〉
「そんな、こと……」
どうやって。
〈大丈夫〉
尋ねる前にティムが答えた。いつもの彼ではないみたいだ。マリナと同じように、迷いがない。自信に満ちている。
〈今ならきっとできる。カイバーベルトは倒した。空……戻ってきてるよね〉
「う、うん」
〈今頃みんな、同じように空を見ている。その空に――〉
奇蹟を起こすんだ。
「あ……」
頭の中に、イメージが。
これから起こる――いや、起こす光景が――浮かんだ。
「できるの……こんなこと?」
〈できるよ。君も『柱』の資質を持っている。いや、たぶん〉
やっと、わかった。
君とボク。きっと、ふたりでひとつの『柱』だったんだ――。
〈弱くて頼りなくて情けないボクだけど、君が支えてくれたからここまで来られたんだ。もちろんボクも君を支える。支え合うことで、ボクたちは〉
世界の『柱』になれるんだ――。
「ティム、くん……」
ずっと、足りないと思っていた。
自分に欠落していた何か。その穴を埋めるために、コレットは溢れんばかりの思考で――言葉で無理やり塞いでいた。
でも、もう必要ない。足りなかったところに、ぴったりと。
あなたが――いる。
コレットは祭壇に登った。
マリナの横に立ち、先に柄を握っていた彼女の手に手を重ねる。
「わたしにも」
大事な人がいますと、コレットは言った。
「その人に無事に帰ってきてほしいと、願ってます。だから」
「そう」
マリナは優しく笑った。
「なら、私と同じね」
「はい」
コレットも笑った。
二人で柄を握る。その上に。
「仲間外れにすんなよ」
傷だらけの少年の手が重なった。
「オレだってARMSの一員なんだ。根性見せてやる」
コレットの反対側で、トニーは歯並びのいい歯を見せてニヤリと笑った。
「わたくしなりの結論といたしましては」
もう一つ、手が重なる。
「結論なんて糞くらえです。やるしかないのです」
よく言ったとトニーが褒める。スコットは控え目に笑みを浮かべてみせた。
――そう。
思えば、どうしてみんな――一人で剣を抜こうとしたのだろう。
英雄は一人だと決めつけて。かりそめの栄誉、羨望、そんなものと引き換えに、重荷も何もかも自分だけで引き受けようとして。
この剣はみんなの願いが詰まった、希望の剣。たったひとりの英雄に抜けるわけがなかったんだ。
誰かが英雄になれるなら。
誰もが英雄になれるはず。
四人で力を合わせて。
ここにいない、みんなの分の想いも込めて。
柄を、引き上げた。
放たれた光は聖堂の天井を貫いて。
見えかけた青空に――像を結んだ。
暗い昏い淵へと、意識が落ちていく。
あの全身を灼き焦がした業火の熱さも、皮膚を根こそぎ剥ぎ取られたような壮絶な痛みも今は遠のき、感じるのは。
朦朧とした不快感。漠然とした嫌悪、倦怠、そして――諦め。緩々と渦を巻く負の感情に、アシュレーは呑まれようとしていた。
駄目なのか。もう――ここまでなのか。
どんなに抗ったところで、人は誰しも最後には死に支配される。奴の言うように、行きつく先は結局――絶望しかないのか。
〈そんなことない〉
声がする。幻聴か。いや。
アシュレーは闇の中に立っていた。意識の淵の底。そこはどこまでも静穏で、果てしのない虚無の続く世界だったが。
〈死は絶望なんかじゃない。絶望なんかで終わらせない〉
虚無が破れ、目の前に輪郭が顕れる。大剣を携え、魔狼を従えた――。
――え?
聖女ではない。それは、マリナだった。右手にはアガートラーム。傍らにはルシエド。
――どうして、君が。
〈この子が導いてくれたの〉
赤毛の幼馴染みは、目を細めて魔狼の鬣を撫でた。
〈私の欲望……我儘のおかげかな。いつもアシュレーを困らせていたものね〉
何も返せず茫然としていると、彼女は首に腕を回してそっと抱きついた。
〈ごめんね、ずっとあなたに背負わせてしまって〉
でも、もう大丈夫。
二人の足許が輝き、放射状に広がった光が地面を作った。白い花が咲き乱れる花畑。どこからか風が吹き、しなやかに揺れている。
〈さあ後ろを見て。みんなも〉
振り返ると、そこには。
陽だまりのような笑顔を浮かべたリルカが。
浅黒い体躯を頼もしく漲らせたブラッドが。
華奢な身体でしっかり立って前を向くティムが。
冷たき鋼の裡に熱き炎を灯したカノンが。
得意気に腕を組みふんぞり返ったマリアベルが。
そして。
白銀の髪と金色の髪。手を繋いで仲睦まじく花畑に立つ、アーヴィングとアルテイシアが――。
〈彼らだけではないわ。ほら、もっと――いるよ〉
いつの間にか、二人と仲間たちを囲んで人の輪ができていた。
トニーにスコット。エイミー、ケイト、エルウィン――シャトーの乗組員たち。三大国家の三人の王。ノエル王子にマクレガー教授。コレット。テリィ。メリル。ダムツェンの酒場の人たち。バスカーの長。そして――セレナ。
〈みんな同じ空を見て、あなたのことを想っている。だから〉
まだ終わりじゃない。
マリナは離れて、剣を掲げた。
〈この剣は、たったひとりの英雄のための剣じゃない。みんなの想いによって抜かれ、みんなの願いの数だけ振るうことができる〉
だから。
〈アシュレーなら使える。みんなの想いが、ファルガイアの全ての願いが集まった、今のあなたなら〉
きっと。
アシュレーは手を伸ばし、剣に触れた。
仄かな熱を感じた。半分は人間のぬくもり。半分は機械の温かさ。
銀の腕を持つ者――世界にひとりぼっちだった少年が、分身である剣に託した希望。それこそが。
どんなときでも。
あなたは――ひとりじゃないよ。
希望の西風が、花畑に吹き抜けた。
ルカは店を飛び出して、空を見た。
闇が晴れ、眩いほどに澄み渡った青空に、金色の裳裾が翻っている。
それは女神。想い想われる人間の深い縁を象徴した、愛の守護者。
給仕の娘も隣でそれを見て、涙を流している。愛する人への強き想いは、ひとかけらの雫となって。
安らかに祈る女神の許へと――昇っていった。
メリルは浜辺で、目を輝かせた。
青い空と輝く海に、猛き雄叫びが谺している。
それは獅子。誰かのために奮い立つ人間の強い絆を象徴した、勇気の守護者。
ビリーが空を仰いだまま、嗚咽を上げている。同じ夢のため戦った友への想いは、寄せては返す漣となって。
天翔ける獅子の許へと――還っていった。
マクレガーは研究室の窓から、それを見た。
雪の舞うシエルジェの空。結界の薄膜を透して、強くも暖かな光が降り注いでいる。
それは竜。調和する未来を求める人間の崇高なる精神を象徴した、希望の守護者。
マクレガーは、静かに滔々と泣いた。道を違えながらも未来を護ろうとした教え子への想いは、一陣の風となって。
翼を広げて羽搏く竜の許へと――舞い上がった。
人間たちはそれぞれの場所で、闇が祓われた空を見上げ、その奇蹟を目撃した。
世界が救われた安堵。空が戻った歓び。そして時を同じくして顕れた守護者たちの姿に、人々は忘れかけていた心を取り戻す。
それは、ほんの僅かな時間。人類の歴史においても、世界の変遷においても、毛先ほどの長さもない、刹那の出来事。
だが、それは紛れもない奇蹟であった。決して起きるはずのないこと。それが、まさにこの瞬間に――起きたのだ。
荒野の大地、ファルガイア。そこに生きる者たち全ての心から――
絶望が、消えた。
信じられぬと、ロードブレイザーは初めて狼狽を見せた。
〈あり得るはずがない。このようなことが――〉
絶望が供給されない。誕生して以来決して起きなかったことが起きたことに、魔神は激しく動揺していた。
〈しかも、お前の……その姿はッ〉
アシュレーは灰色の地面に立ち、戦慄く魔神を見据えている。
その身に纏うは古の戦装束。純白の気高き革鎧は意思があるもののように脈動し、揺蕩っている。
そして、手甲を填めた手に握っていたのは。
聖剣アガートラーム――。
〈剣の英雄……だとッ。まさか、お前が〉
「違うよ、ロードブレイザー」
剣を携え、アシュレーは前に踏み出す。一歩ずつ、魔神との距離を詰める。
「僕は英雄なんかじゃない。英雄なんて、この世界には」
いらないんだ。
魔神が円環の台座から落ちる。浮遊する力を失い、自分の足でじりじりと後退する。
「人間は弱い。だから時には強い存在――英雄に頼ろうとする。でも」
それでは全員が幸せになれない。英雄は犠牲となり、その周りの人間も不幸となる。そして次には別の誰かが犠牲になる。
英雄という名の『呪い』――この悲しき連鎖を断ち切るには。
「全ての人が幸せになるには」
一人の強き者に頼るのではなく、ひとりひとりが、少しずつ強くなる。それだけでいいのだ。それぞれが愛を育み、勇気を奮い、希望を見出して。
「みんなで世界を、護るんだ。そう――」
彼も言っていた。既に、誰もが解っていたことだったのだ。
人類が結集し、
意志を束ねることができれば、
必ず世界を護ることができる。
諸君らは、この大地を護る、
荒野の守護者なのである――。
「絶望なんかに、僕らは負けない」
自らが作った結界の隅に追い詰められて、絶望の化身は文字通り絶望の姿を晒していた。甲冑は炭化して黒煙を上げ、纏っていた炎は煤となって自身に降りかかる。
アシュレーは剣を振り上げた。みんなの願いが、未来への希望が詰まった、その剣を。
「ロードブレイザー。お前が熾した災いの焔――それを、今」
消してやろう。
ひといきに、振り下ろした。
斬り裂いた筋から白銀の炎が生じ、半ば崩れた躯を包み込む。断末魔を上げる間すら与えられず、絶望の魔神は。
銀の輝きの中で、塵一つ残さず――消滅した。
アシュレーはそれを見届けると、剣を収めた。炎は消え、周囲の結界も解かれていく。
――ロードブレイザー。
薄らぐ灰色の地平を眺めながら、彼は思う。
お前は最後まで、人間を理解できなかった。
そう。人間とは。
〝わからない〟生き物なんだ。弱くて強い。聡明で愚鈍。そうした矛盾を平気で内包できる。だから顕在する面ばかり見て決めてかかれば、間違いを犯す。
お前はそれが理解できずに敗れた。〝わからない〟ことが――わからなかったんだ。
アシュレー、と自分を呼ぶ声がした。
振り向くと、仲間たちが立っていた。その姿を見て、アシュレーはようやく全ての終わりを実感できた。
「帰ろう」
アシュレーは言った。
「僕らの生きる荒野へ――」
これからも、護るために。
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